ブルデューは本書でプラチックとハビトゥスについてを論じる。主客二元論を乗り越え、(「自分自身に透明な意識能作か、さもなくば外在性において決定される事物かしか知ろうとしない二元論の見方に、行為の現実的論理を対立させなければならない」(90))主観―客観のリンクを行うものとしての実践pratiqueを扱ったのが本書であるとどこかで聞いたので、それを確認しつつ読んでいきたいと考えている
(http://www.msz.co.jp/book/detail/04995.htmlによると、レヴィ=ストロースの構造論的客観主義とサルトルの現象学的主観主義を批判し、両者の乗り越えを目指した内容であるとのことだ)。
行為の原因は一体どこにあるのかも本書のテーマである。それをブルデューはハビトゥスに置いている。何が良くて何が悪いかを評価づけるのも、ハビトゥスであり、それが卓越性(ディスタンクシオン)の認識にもつながっていく。
本書では現象学・構造主義を批判し、理論の精緻化を行っている。
「客観的と称され、距離と外部性を含む対象との関係は、全く実践的な仕方で実践的関係と矛盾する」(55)
「客観的構造とそれぞれの実践の中で働く肉体化された構造との弁証法を知らないと必ず規範的な二者択一に閉じ込められてしまうものだ。この二者択一は社会思想史の中でたえず新しい形態を帯びて再生してくるものだが、このために現在マルクスを構造主義的に読む人びとに見られるように、主観主義に対抗しようとする人びとは社会法則のフェティシズムに否応なく陥ってしまうのである」(63-64)
「客観主義が科学の対象に対する学問的関係を普遍化するのと同じく、主観主義は学問的言説の主体が自己自身を主体として構成する経験を普遍化するということである」(71)
・経済人モデルへの批判(79)
「生存のための諸条件のうちで或る特殊な集合(クラス)に結びついた様々な条件づけがハビトゥスを生産する。ハビトゥスとは、持続性をもち移調が可能な心的諸傾向のシステムであり、構造化する構造として、つまり実践と表象の産出・組織の原理として機能する素性をもった構造化された構造である。そこでは実践と表象とは、それらが向かう目標に客観的に適応させられうるが、ただし目的の意識的な志向や、当の目的に達するために必要な操作を明白な形で会得していることを前提してはいない。実践と表象はまた、客観的に「調整を受け」「規則的で」ありうるが、いかなる点でも規則への従属の産物ではない。さらに、同時に、集合的にオーケストラ編成されながらも、オーケストラ指揮者の組織行動の産物ではない」(83-84)
「自分自身に透明な意識能作か、さもなくば外在性において決定される事物かしか知ろうとしない二元論の見方に、行為の現実的論理を対立させなければならない。行為こそが身体における客観化と制度における客観化という歴史の二つの客観化を、同じことだが、客観化された資本と体内化された資本(藤本注 一般的には「身体化された資本」と言われる)という資本の二状態を対面させるのだが、この二つによってこそ必然性と、それがもつ差し迫った事柄に対して距離が設けられるのである」(90)
「規則に適った即興によって持続的に組み立てられる産出原理であるハビトゥスは、実践感覚として、制度の中に客観化されている意味感覚の再活性化を行う。ハビトゥスは、客観的な諸構造がそうである集合的歴史の所産が、その機能の条件たる持続的で調整された心的傾向という形での自己再生産に達するために必要な我有化および教化の労働の産物であるが、それは体内化に対して自らの特殊な論理を課す特殊な歴史の流れの中で自己構成する。またハビトゥスを介して行為者たちは制度へと客観化された歴史の性質を帯びることになる。そしてこのハビトゥスこそ、制度にひとが住まい、制度を実践の中で我が物とし、またそこからして、制度を活動状態に、生ける強力な状態に保ち、制度を死せる文字、死語の状態からたえず引き離し、そこに沈澱せる意味感覚を蘇らせるのを可能にする当のものに他ならない」(91)
「実践感覚と客観的意味との合致がもたらす根本的な効果のひとつは、常識の世界の生産にある。この世界が示す直接の自明性は、実践と世界との意味感覚に関してコンセンサスが保障する客観性によって倍加する」(92)
「すなわちハビトゥスこそ、主観的意図を伴わない客観的意味がもたらすパラドクスの解決策を含んでいるのである。すなわちハビトゥスは、真の戦略的意図の産物ではないにもかかわらず―もしそうなら、少なくとも、次にいう連鎖が他にも可能な数ある戦略のうちの一つだと把握されていることを前提することになる―戦略であるかのように客観的に組織されるゲームの「一手々々」からなるあの連鎖の本源にある」(99)
→人が無自覚的に何かを行ってしまうことがあるのはなぜだろう。「主観的意図を伴わない」行為でありながら、どこにも客観的意図があったように思えない場合、ブルデューは「ハビトゥス」の存在を元に説明を行う。
「ハビトゥスが行なうこの種の疑似的な未来予測における過去の現前」(100)
「象徴資本は、場の機能の論理がそれ自体としては依然として錯認されることを通してのみ実現されうるからである。ひとがこの魔術的円環に入るのは意志の瞬間的決断によってではなく、ただ単に生誕によってあるいは第二の生誕に等しい新人選択と加入儀礼のゆっくりした過程によるのである」(108-109)
●「暗黙裡の教育は、「まっすぐに立て」あるいは「ナイフを左手で持つな」といった取るに足りない命令を通してコスモロジー、倫理、形而上学、政治を教え込み、身体や言葉の上での行儀・態度・作法の見たところごくささやかな細部にまで、自覚や弁明を必要としない文化的恣意性の根本原理を刻み込むことができる」「教育的理性の狡智はまさに取るに足らぬことを要求するという見せかけの下に本質的なことを奪い取ることにあ(内容確認のこと!)
「身体的ヘクシス[慣習的行為]は現実化され身体化された政治神話であり、振舞う・語る・歩く、そしてそれを通して感ずる・考えることの永続的性向や持続的作法となった神話である」(112)
「身体によって学ばれるものは、人が自由にできる知のように所有する何ものかではなくて、人格と一体となった何ものかである。このことは無文字社会の中で特に見られる。そこでは伝承知は身体化された状態でのみ生きつづけることができるからである。知はそれを運ぶ身体から決して分離されず、特別に知を呼び起こす一種の身体訓練による以外には再構成できない」(117-118)
「要するに、論理がどこにでもありうるのは、真の意味ではどこにもないからだ」(142)
「暗にとどまる実践上の妥当性の原理である「何が問題なのか」(ce don’t il s’agit)との相関においてこそ、実践感覚は、ある特定の物や行為を、物や行為のある特定の相を「選択する」のである」(146)
「思考の労働を思考する思考労働である論理学とは反対に、実践は形式への関心を一切排除する。行為自身への反省的な回顧がなされても、それが到来する時には(つまり、自動運動が失敗する時にはほとんどいつも)結果の追求に従属し、費した努力の収益を最高に引き上げようとする(そのもとしては、必ずしも知覚されない)探究に従属したままである」(150)
「教え込みという教育活動は、言説の中に(とりわけ、社会化の失敗を予防したり罰したりする法の中に)あるいは他の何らかの象徴的支柱(象徴または儀礼的道具など)の中に常に最小限の客観化を伴う制度化とともに、実践的図式を明確な規範へと定式化し構成する特権的な機会のひとつである」(170-171)
「ハビトゥスは、それが承認されるあらゆる表現を自発的に承認する傾向がある。なぜならハビトゥスは自発的にそうした表現を産み出しがちであるからだ。そしてとりわけハビトゥスは最も適切なハビトゥスのあらゆる模範的産物を承認するだろう。これらの産物は、相継ぐ諸世代のハビトゥスによって選択され保存されるし、内在的力によって客観化され、ハビトゥスの公的に権威づけられた現実化に付着する権威を与えられる」(179-180)
「システムの機能はハビトゥスの組織化(orchestration)を想定するのである。というのは、仲裁決定は「断罪された」側の同意なしには実行できないからであり(そうしないと原告は力の行使に訴える他はない)、決定は「公平感覚」に見合っており、「名誉感覚」によって認められる形態に従って強制される場合にのみ受け容れられる見込みがあるからだ」(182)
「しかし資本が十分に現実化する条件は学校教育制度の出現であって、この制度は文化資本の分配構造の中で占める位置を持続的な仕方で承認する資格を授与する」(207)
「贈与交換をパラダイムとする社会的錬金術の基本操作はどんな種類の資本をも象徴資本に変換することであり、それをその所有者の本性に根差した正統な所有へ変換することであるが、このような操作は常にある労働形式、時間・貨幣・エネルギーの眼に見えない(しかし必ずしも誇示的でない)蕩尽を要する。これは配分の承認を確保するために必要なひとつの再配分であって、受け取る者が分配上より適切な位置にあって贈与する能力のある者に認める承認の形式、価値の承認でもある負債の承認の形式をとる」(214-215)
「確立した秩序、およびその基礎をなす資本の分配は、それらが存在しているそのことによって、つまりそれらが公けに正式に肯定され、したがって(誤)認識され承認される時から及ぼす象徴的な効果によって自分自身の存続に貢献する。それゆえ、この秩序と資本分配が、それが社会的存在の客観性そのものにおいて認識(誤認と言うべきか)の対象であるという事実に負っているもの一切を取り逃がすことなしには、社会科学は、デュルケームの準則に追随して「社会事象を物として取り扱う」ことなどできないのだ」(222)
「ハビトゥスが備えているカテゴリーに従ってハビトゥスが知覚する表現である諸々の属性は、所有権獲得のための差異を持った能力を、つまり資本と社会権力を象徴化する。そして区別の正または負の利潤を保証する象徴資本として機能する」(232)
コメント
・私は悪筆だが、癖のある字で私が文字を書いてしまう(実践)理由はどこにあるのかと言えば、私の持つハビトゥスにあるということができる。私の父も同じような書き方をしていたことが思い返される(生きてるけど)。この場合、私の書字プラチックは私のハビトゥスによって産出されたということができるのだろうか。
・プラチックの再構成を図ることで、抵抗戦略が可能になると読み取ってもよいのだろうか。
・先輩から聞いた話ももとにしているが、日本においてブルデューのハビトゥス論は『再生産』『ディスタンクシオン』の流れの階級の再生産論としてのみ受け止められている傾向がある。そうではなく、ブルデューは本来、主-客の二元論の乗り越えとしてハビトゥス/界や行為の理論を構築するのを狙いとしているのであり、あくまでその一例の「適用」が『再生産』『ディスタンクシオン』なのである。おそらくアップルらの批判的教育学の流れでブルデューが日本に受容されてきたことが原因なのではないか、と考えられる。
2011年3月22日火曜日
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