「分業」は、社会思想家においては普遍的なテーマであったのかもしれない。アダム・スミスの『国富論』は「分業」から始まっている。分業がないならば「精いっぱい働いても、おそらく一日に一本のピンを造ることも容易ではないだろうし、二〇本を造ることなどはまちがいなくできないだろう」(岩波文庫『国富論(1)』24頁)。しかし分業を行うならば「一〇人は、自分たちで一日に四万八〇〇〇本以上のピンを造ることができ」(同25)る。一人当たりで計算すると「一日に四八〇〇本のピンを造るものと考えていいだろう」(25)といってまとめている。
また次の記述もある。「労働の生産力の最大の改良と、それがどこかにむけられたり、適用されたりするさいの熟練、腕前、判断力の大部分は、分業の結果であったように思われる」(23)
スミスの場合、分業を肯定していた。それにより各人の貯えを高めることができるからだ。この分業肯定論に対し、マルクスは批判をする。そのときのキーワードが「疎外」労働論であった。資本主義による分業の結果、人々は人間的でない労働をさせられるようになった。その点をマルクスは批判したのだった。
テンニースのゲマインシャフト/ゲゼルシャフトの分離も、地縁・血縁をもとにする「分業」か、目的性をもとにする「分業」かという読み直しをすることもできる。
ジンメルは32歳の作品『社会的分化論』(1890)のなかで社会の「分化」(分業とも読み取れる)の結果、社会圏が拡大する旨を述べている。またその「分化」につきまとう社会的相互作用(あるいは心的相互作用)により社会が成立すると言う件を述べている。
デュルケムは『社会分業論』において機械的分業から有機的分業に「分業」が切り替わって行くことを述べている。
このように、分業をどのようにとらえるかによって社会思想家ごとの違いが浮かび上がってくるように思われる。
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