アダム・スミスの『国富論』は「分業」から始まっている。分業がないならば「精いっぱい働いても、おそらく一日に一本のピンを造ることも容易ではないだろうし、二〇本を造ることなどはまちがいなくできないだろう」(岩波文庫『国富論(1)』24頁)。しかし分業を行うならば「一〇人は、自分たちで一日に四万八〇〇〇本以上のピンを造ることができ」(同25)る。一人当たりで計算すると「一日に四八〇〇本のピンを造るものと考えていいだろう」(25)といってまとめている。
また次の記述もある。「労働の生産力の最大の改良と、それがどこかにむけられたり、適用されたりするさいの熟練、腕前、判断力の大部分は、分業の結果であったように思われる」(23)
スミスの場合、分業を肯定していた。それにより各人の貯えを高めることができるからだ。この分業肯定論に対し、マルクスは批判をする。そのときのキーワードが「疎外」労働論であった。資本主義による分業の結果、人々は人間的でない労働をさせられるようになった。その点をマルクスは批判したのだった。
以下は抜粋である。
「社会が進歩するにつれて学問や思索が、他のどの職業とも同じく、特定階層の市民たちの主要あるいは唯一の仕事となり職業となる」(33)
→社会の再帰化・高度化の結果、「考える」職業が要求されるようになる。
●「いったん分業が完全に確立してしまうと、人が自分自身の労働の生産物で充足できるのは、彼の欲求のうちのきわめてわずかな部分にすぎない。彼がその欲求の圧倒的大部分を充足するのは、彼自身の労働の生産物のうちで彼自身の消費を超える余剰部分を、他人の労働の生産物のうちで彼が必要とする部分と交換することによってである」(51)
→分業が発展すると、自分1人だけで生活するのは困難になる。誰かの労働に頼らずに生きては行けなくなる。素朴であるが「分業」論の古典的記述である。(いまMacBookが打てるのも、アップル社と部品を作る工場労働者の労働のお陰である)
「注意すべきは、価値という言葉に二つのことなる意味があり、ときにはある特定の物の効用を表わし、ときにはその物の所有がもたらす他の品物を購買する力を表わすということである。一方は「使用価値」、他方は「交換価値」と呼んでいいだろう」(60)
→このあたりがマルクスに影響を与えていると言える。
コメント
・スミスは地主・労働者・資本家の「三つのことなる階層の人びと」(431)が「あらゆる文明社会を本来的に構成する三大階層であって、他のどの階層の収入も彼らの収入から究極的には引き出されるのである」(431-432)と述べる。そうして、資本家の身勝手が公共の利益を放棄させることがあると危険性を述べている。資本主義の勃興期に、すでに資本家の危険性が指摘されていたことを考えると、スミスはやはりただ者ではない、と思えてくる。
2011年3月23日水曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿