2010年11月19日金曜日

子どもを子ども扱いする社会への批判。

 私は既存の教育学が子どもを「他者」として認識していない点に疑問を感じている。メーハンのIREではないが、教育的眼差しは子どもに「評価」の眼差しをおく。しかし、我々は友人に対して時間を聞いて「ありがとう」と言わず評価のみをすることは全くないはずだ。教育的関係においてのみ、子どもたちは「よくできました」と教育的眼差しで見られる。
 共同体社会の時代から共同体維持の成員育成が「教育」で行われてきたわけであるが、その教育自体の持つ「社会維持」の機能についてはあまり批判がなされていない。「子どものため」の「よい」教育であっても、子どもをまさに「子ども」扱いする。幼児段階はそれでいいが、小・中学生や高校生、はては大学生を同じ眼差しでみてもいいものなのであろうか。当然、「教える」エートスが求められるのは現在の社会(後期近代の社会である)そういった姿勢を要求するためである。
 その辺りを考察すると、教育的な眼差しをもって子どもを見ることが「気持ち悪い」と思ってくる。教育行為をどんなに奇麗な言葉で飾ったとしても、要は現在の社会の構成員になってもらいたい、あるいは構成員にさせる行為にすぎない。人々がそれに自覚的でないだけである。そのため、子どもに敬語を使ったり、逆に偉そうに振る舞う親や教員・大人たちをみると、その人々が「子どものため」と信じて行っていればあるほど、教育の共同体維持機能を無視しているように見えてしまい、「気持ち悪さ」を感じてしまうのだ。
 だからあえて私は考える。思いっきり、「大人げない」態度を子どもに行ってはどうか。無論、ピアジェ的には発達段階論で「大人げない」眼差しへの批判がアルであろう。しかし考えるべきは、我々大人は親しい関係にはまさに「大人げない」態度で関わっているのではないか。嘘をつけば、ネタとして友人を「いじる」。それはまさに汝−我関係という対等の立場に存在しているからである。しかし、子どもに対してはどんなに親しくなっても汝―我関係を成立させることはまれである。
 そんな理由から私は既存の教育学を根本から批判する脱学校論(非学校論)や半教育学が好きなのだが、あまり共感がなされないのが現状である。

0 件のコメント: