「人間として生きることは、他者および世界とかかわって生きることである。それは、世界をそれ自体で独立した、認識可能な客観的現実として経験することである」(15)
「存在するということは、人間と人間、人間と世界、人間と創造者のあいだの永遠の対話を包摂するダイナミックな概念である。人間を歴史的存在にかえるのは、この対話である」(44)
「もし教育にたずさわるものが、新しい社会の生誕になにか特別に寄与しうるものがあるとすれば、それはほかでもなく、批判的態度の形成をたすける批判的な教育を生みだすことであったと思われる」(71)
「われわれの状況が求めている教育とは、自分たちが生活の場で直面している諸問題をだいたんに議論し、それにとりくむことのできる人間を育てるということである。こうした教育は、現代の危険がどこにあるかを人びとに気づかせ、ともすれば他人の決定に服従することによって自分というものを放棄してきた人びとに、それらの危険にたちむかう自信と力を与えるものとなるのである」(74-75)
民主主義の学習は「実践」をもって学ばれる。
「じっさい民衆は、民主主義の実践をへてこそ、それを習得することができるのだ。民主主義の知識は、他のすべての知識とおなじように、経験をくぐらせてこそ血となり肉となるものなのだから」(80)
→だからこそ「ことばだけで民衆に伝えよう」(同)とすることは無意味なのだ。そういう意味では、学校を民主主義育成の土台にしようとしたデューイに連なるものがある。「真の交流をつくりだすのは、対話だけである」(99)というフレイレの言葉をかみしめる必要がある。
識字について。
「識字というのは、日常の生活世界とは切れている生命のない対象物である文章、単語、音節を記憶することではない。むしろそれは、創造と再創造の態度を身につけ、各自が現実にかかわる姿勢を生みだす自己変革の力を獲得することなのである。/かくして教育者の役割は、具体的現実に関する非識字者との対話にひたすら身を投じ、かれが自分で読み書きを自学自習できるための道具を、完全にかれに与えることである。」(105)
→「自学自習できるための道具」とは、イリイチの「コンヴィヴィアリティのための道具」を思い起こす。
他者との対話による教育を想定したフレイレ。この対話は「学校」でなくとも成立する(むしろ学校が「言葉」を教えこんで「沈黙の文化」に民衆を陥れている)。フレイレの「脱学校」思想はそういった意味でのものなのだ。
フレイレ1967=1982『伝達か対話か』亜紀書房、里見実ほか訳
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