2011年3月21日月曜日

『広辞苑』各版にみる、「内職」の意味の変遷

 筆者は学校における「内職」をリサーチしている。そのため、過去の「内職」という言葉の使われ方を調べるため各種雑誌を調査中である。
 『蛍雪時代』1948年2月号「巻頭言」に、「学生と内職」というタイトルの文章がある。内容を見てみると、「内職」は現代の授業中に行う授業に関係のない学習としての「内職」の意味ではなく、学費を稼ぐための「アルバイト」の意味であった。
 試みに、この『蛍雪時代』から7年後に出た『広辞苑』第1版(1955)における「内職」の欄を参照してみよう。

【内職】①奥向の職。後宮の職務。②本職以外に営む生業。③女などが家事のひまにする賃仕事。④アルバイト。

 「巻頭言」における「内職」は「④アルバイト」の意味にあたる。文中を見ると次のように書かれている。「生活費の向上、中産階級の没落は学生の生活をいよいよ苦しいものにして、新聞などの報道によれば半数以上七割迄が何等かの意味で学費の全部又は一部を自分の手で働き出していると云う」。そして「本当の意味で生活と学問の両立は困難」との記述につながっている。
 また本文冒頭を見ると「昔は学生の内職と云えば御上品の所では家庭教師翻訳の下請、一般向の所では新聞配達と相場が決まっていた。所が最近は学生もなかなかくだけて来て、その帽子なえ見なければ本職と間違うことがある」と書かれている。このあたりは竹内洋『立志・苦学・出世』や天野郁夫『試験の社会史』『学歴の社会史』に描かれた「苦学生」同様の構図である。しかし、ここで注目すべきはこれら「苦学」は「内職」として扱われていた、ということだ。当時、働きながら学ぶ、あるいは学費を稼ぎながら学ぶということは「アルバイト」を意味する「内職」と言う言葉で形容されていたわけだ(なお「巻頭言」の原文は全て旧かな・旧漢字であるが読みやすさを重視した)。

 学校における「内職」の問題という言説は、本来この『広辞苑』第1版における④の意味であったことを確認することができた。ここで次のような仮説を立てることができる。それはもともと学校における「内職」とは、④を意味したのであるが、時代が下るにつれて②や③の意味に変更してきたのではないか、という仮説である。次にこの仮説を検討するため、『広辞苑』の第2版から現在の第6版に見る「内職」の定義の変遷を確認してみよう。

『広辞苑』第2版(1969年)
【内職】①奥向の職。後宮の職務。②本職のほかに家計の補助のためにする仕事。③主婦などが家事のひまにする賃仕事。

→③における「女など」が「主婦など」に変更し、④が消滅している。

『広辞苑』第2版補訂版(1976)
【内職】①奥向の職。後宮の職務。②本職のほかに家計の補助のためにする仕事。③主婦などが家事のひまにする賃仕事。

→2版と変化なし。

『広辞苑』第3版(1983)
【内職】①奥向の職。後宮の職務。②本職のほかに家計の補助のためにする仕事。また、主婦などが家事のあいまにする賃仕事。

→②と③が一文に。また、「ひま」が「あいま」に。

『広辞苑』第4版(1991)
【内職】①奥向の職。後宮の職務。②本職のほかに家計の補助などのためにする仕事。また、主婦などが家事のあいまにする賃仕事。「−でやっと生活する」③俗に、授業中・会議中などに行う他の仕事。

→授業中の「内職」の意味、初登場。②に用例が追加される。

『広辞苑』第5版(1998)
【内職】①奥向の職。後宮の職務。②本職のほかに家計の補助などのためにする仕事。また、主婦などが家事のあいまにする賃仕事。「−でやっと生活する」③俗に、授業中・会議中などに行う他の仕事。

→4版と変化なし。

『広辞苑』第6版(2008)
【内職】①奥向の職。後宮の職務。②本職のほかに家計の補助などのためにする仕事。また、主婦などが家事のあいまにする賃仕事。(歴史的な用例が追加)③俗に、授業中・会議中などに行う他の仕事。

→②の用例が変更。

 現代の我々が認識する「内職」という意味が『広辞苑』に追加されたのが4版(1991)でからであるということが分かる。また、こうしてみると、「内職」にあった「アルバイト」の意味は次第に消滅していき、「内職」という言葉に第1版の②や③がイメージする「本業以外に営む」ニュアンスが強くなって行くことがわかる。第1版における②や③の意味が一カ所に集約されたのち、この部分のイメージを広げる意味合いで「俗に、授業中・会議中などに行う他の仕事」という意味が付与されてきたことも読み取ることができるであろう。
 おそらく、学生をめぐる環境が『蛍雪時代』1948年2月号「巻頭言」から時代を経るにつれて、日本が「豊か」になっていったことが「内職」の意味が変わって行く理由であったのだろう。「豊か」になるにつれて、「内職」という言葉から「働く」意味が減り、主婦の「内職」のように陰で「本業以外に営む」行為という意味が強くなって行ったのであろうと推測することができる。


 なお、「巻頭言」原文(全)は次の通り。執筆者名は記されていない。

「學生と内職」
「近頃特異なる風景の一つに學生の商賣がある。昔は學生の内職と云えば御上品の所では家庭教師飜譯の下請、一般向の所では新聞配達と相場が決まつていた。所が最近は學生もなかなかくだけて來て、その帽子なえ見なければ本職と間違うことがある。生活費の向上、中産階級の沒落は學生の生活をいよいよ苦しいものにして、新聞などの報道によれば半數以上七割迄が何等かの意味で學費の全部又は一部を自分の手で働き出していると云う。學生が働く事は良いとか惡いとかは論外として、必要に迫られているのだと云えばそれ迄であるが、本當の意味で生活と學問の兩立は困難である。世界の文化や國家の運命が青年の教育の如何にかゝつているのを想う時、これを一つの特異現象として見過ごして良いであろうか? あらゆる意味に於いて學生には生活の安定は與えられなければならないと思う。と同じに學生には學問に對する眞摯な努力と高邁な道徳性とが要求されなければならないと思う。若し文化國家と云うようなことを平然口にする勇氣があるならば國家も社會も學生を本當に立派な學生にする義務がある。」

2011年3月20日日曜日

ゴフマン冷却作用論文(1952)についてのメモ

 ゴフマンの自己論は自己がバラバラである状態を統合させるのを要求するのが文化や社会システム的(社会規範など)にあるということを指摘していると考えられる。本稿ではカモの分裂した自己を統一させる働きが冷却作用の一種として表れている。
冷却作用とは一面ではバラバラな自己に一貫させた他者への自己(面目face)を与える手助けをするものである。本論文はゴフマンの最初期にあたるものであるが、後のゴフマン思想の萌芽を読み取ることができる。例として、selfとmindの違いを説明した個所をあげられる。これらの個所では自己の統一性を手に入れるためにある人物(エゴ)が行う他者への印象操作である。
あるいは他者の印象を一貫させるという意味で『行為と演技』や『出会い』・『儀礼としての相互行為』につながる発想である。特に『行為と演技』において展開されたドラマツルギー理論では表局域と裏局域とが区別されており、必ずしも自己イメージが統一していなくてもいいが他者についての一貫性をもった自己を示す必要が示されていた。自己を呈示する動きについての指摘と、どういった人物かわからないからこその他者の示す属性・演技により呈示された他者像を統一性・一貫性を持ったものであると認識(あるいは想像)することが示されている。
 本論文はカモ自身が統一性を持つために冷却されることを望むと書いてある点で、「呈示」にとどまらないゴフマンの理論を見ることができる。主体自身も統一性を入手することを望んでいる可能性は、このあとのゴフマン理論に見られることが少なくなっているように思われる。(藤本)

2011年3月19日土曜日

『寺山修司名言集 身捨つるほどの祖国はありや』(2003)より

「さよならだけが
人生ならば
またくる春はなんだろう
はるかなはるかな地の果てに
咲いてる野の百合何だろう」(69)

「たとえ
世界の終わりが明日だとしても
種をまくことができるか?」(125)

「たとえば書物とは「印刷物」ばかりを意味するものではなかった。街自体が、開かれた大書物であり、そこには書きこむべき余白が無限に存在していたのだ。
 かつて、私は「書を捨てよ、町へ出よう」と書いたが、それが「印刷物を捨てよ、そして町という名の、べつの書物を読みに出よう」と書き改められなければならないだろう」(223)
→世界というテキストを読む。

「戦争の本質は、実は少年たちの「戦争ごっこ」の中に根ざしている。十歳や十五歳の少年が、戦争ファンであるあいだ戦争はなくならない。
 少年たちが成長するように、彼らの「戦争」もまた成長してゆくのだから」(256)
→テキストを読み替えて、「制服」のカッコよさが共有されているかぎり、と読み替えてもいいのかもしれない。軍隊の特徴はキチッとした制服に象徴される。軍服を元に学校の「制服」が作られているのだからこれは事実だろう。

「死をかかえこまない生に、どんな真剣さがあるだろう。明日死ぬとしたら、今日何をするか?
 その問いから出発しない限り、いかなる世界状態も生成されない」(342)


「死んだ人は/みんな/ことばになるのだ」から、寺山の遺した言葉とのコミュニケーションは、寺山自身とのコミュニケーションでもある。

2011年3月18日金曜日

マイケル・W・アップル/長尾彰夫/池田寛(1993):『学校文化への挑戦 批判的教育研究の最前線』、東信堂。

 ここでいう「学校文化」とは、学校のメインストリームにあたる支配者層、あるいは「抑圧者」の再生産機構という正統文化を意味する。それらに対するアンチテーゼ(黒人・女性差別への抵抗など)を整理しているのが本書である。
 しかしこの本書、あまり現代の文脈に対応していないように感じられる。それは若干マルクス主義すぎて、共感しづらくなっているのだ。

●序章(M・W・アップル/野崎与志子訳)
・「すなわち、学校教育は権力―ある集団が他者の教育的経験を支配する力―と関係があるという印象である」(3)
・「われわれが何かについてどう考えるかは、われわれの行動に違いをもたらすからである」(4)
→洪水を自然災害とみるか、人災とみるかで、評価は変わってくる。
・「カリキュラムはそれ自身選択的伝統(selective tradition)と呼ばれてきたものの一部である。すなわち、知識と呼ばれうるものの広大な宇宙全体から、学校ではある知識だけが教えられている。ある集団のもつ社会的・文化的権力と、その集団の知識を学校のカリキュラムの公的な知識にしてしまう力との間には強い関係がある。ゆえに、労働者階級、女性、そしてマイノリティ・グループの歴史や文化は多くの国家において、学校のカリキュラムのなかにはしばしば表現されていない」(7)
・「文化闘争や国家内部での闘争が、もし相対的自立性をもつなら、それは現在ある搾取と支配の関係を変容させる本質的要素を供給するかもしれない」(20)
 
●1章 ラディカルたちの学校論(森実)
・「資本主義社会のありかたが学校を大きく左右しているというボールズ=ギンタスの見解そのものは、それなりに受けとめられたといってよい。これ以後、学校を変えれば社会が変わるといった楽天的な意見はあまり見られなくなったからだ。問題だったのは、学校教育はつねに資本主義の再生産しかできないという彼らの主張だった。彼らの意見に賛同すると、社会主義革命が起こるまで学校教育関係者は何もすることがなくなってしまう。学校に期待を寄せる人々は、この点に批判を集中した。二人の著作の重要性は確認しつつも、この問題点をどう乗り越えるかという課題に焦点が当たることになった」(32)
・「機能主義の基本的な考え方を示すとつぎのようになる。
 〈社会生活のあらゆる要素は相互に連関している。お互いに影響し合い、結びあって分かちがたい全体を構成している。全体と各要素はお互いに支えあっているということができる。各要素が今あるごとくあるのは、その要素が全体に対して貢献しているからである。
 ひとことでいえば、機能主義とは「社会には自己を維持しようとする傾向がある」とする立場だといえよう。この考え方に支配された研究者たちは、社会を予定調和的に変化しないものととらえ、けっきょく現状肯定論に陥っていった」(37)
・「ジルー自身にとって、おもな説明の対象は生徒や教師の抵抗である。抵抗こそが社会構造と人間行動を媒介する概念だという。ところが、抵抗にはその対概念として適応がつきもののはずであるのに、ジルーはいっこうに適応については論じようとしない」(43)
・「マルクスにとって、ある社会化関係が不公正かどうかは、その社会関係が生産様式に応じたものであるかどうかによって判断される。勃興期の資本主義社会は、いくら不平等で高率の搾取をしても、それによって生産様式は発展したのであり、これを道徳的に不公正だと批判してもはじまらない」(49)
→文字通り初期資本主義社会では「トリクル・ダウン」(滴り落ち)の効果があったのだ。
・「資本主義をマルクスが批判するときにも、道徳的な意味においてではなく理性的な意味において「資本主義社会には自由が欠如している」という点に重点が置かれているというのである」(50)
「さまざまな行動を評価するに当たってマルクスが重視するのは、意図や方法よりもまず結果である。自分だけの利害に基づいたエゴイスティックな行動であっても、それが社会の発展に貢献する場合もおおいにありうる。逆に主観的には善意であっても社会発展に逆行する行為も少なくない。そのような意味で、まず問われるべきは結果であり、この点でマルクスは結果主義者だというのがミラーの主張である」(51)

●2章 政治力学としての人種問題(池田寛)
エスニシティ・パラダイムに対する、批判的パラダイム(50-60年代)72頁
①階級理論(72頁) 提唱者
A 市場関係理論 G・ベッカー(ラベリング理論のH・ベッカーとは別人の新古典派経済学者)
B 階層理論 W・J・ウィルソン
C 階級闘争理論 
C1 分断理論 M・ライシュ
C2 分離労働市場論 E・ボナシチ
②国家理論(74頁)
A 汎アフリカニズム マルコム・X/ブラックパワー 「アフリカ系アメリカ人」という言葉の一般化
B 文化的ナショナリズム H・クルーズ 黒人文化の独自性強調→自文化への黒人の誇りを喚起 白人文化に対する「抵抗の文化」の思想を支えるものとなる

・「本書(注 『アメリカにおける人種問題の形成』)が強調しているのは、国家は本質的に人種的であるという点である。人種的な争いに介入するどころか、国家じたいがまさに人種闘争の場なのである。」(81)
・「「新しい社会運動」が大転換を招来するような成功をおさめた原因は、このように、人種アイデンティティや人種の意味を再定義するという困難な事業を成し遂げ、そのことによって、人種に付与された社会的意味を変革することに成功したところに求められるのではないか」(85)
・「ニューライトはマイノリティの主張を否定する立場をとっている」(91)
・まがりなりにも、アファーマティブアクションは黒人のエンパワメントに効果があった。一定数の黒人が「中流階級」になることができた点からそれは言える。「六〇年代半ば以降の黒人の地位上昇は国家による「優先政策」に負うところが大きいといわねばらない」(95)
・「何が問題なのか。自分たちの運命を自分たちで切り開くことができない、そうしようとしても社会的差別の壁がその努力を拒んでしまう、その構造が問題なのである」(95-96)

●3章 少女から「女」へ(木村涼子)
 少女向け小説をテキスト分析した『Becoming a Woman through Romance』の書評および内容紹介。少女向け小説に表れる物語の型が、ヘテロセクシャルを推奨し、ロマンスの「正しい」やり方を規定する働きがあるという指摘。性欲を持ってはならないというような規範が、少女を「お人形さん」のような人物に作り替える働きがあるのではないかと感じる。
 しかし、同性愛的な憧れを女性の「先輩」に抱くという物語構図も少女小説に存在しているのは事実であり、本章の記述には疑問を感じる点がある。
・「ヒロインがロマンスにおいて成功をおさめるためには、この美しくなるプロセスが必要である」「ボーイフレンドを得ることによって、ヒロインの精力的な努力は報われ、ビューティフィケーションの手続きが完了する。ヒロインの美しさから喜びを得ることが許されているのは、彼女のボーイフレンドのみであり、ヒロイン自身でさえ自分の美しさを意識的に活用し、楽しむことは禁じられている。自分の美しさを意識し、武器とする少女は、小説のなかで何らかの制裁を受けることになっている」(112-113)
・「分析の対象となった、四〇年間にわたる恋愛小説はすべて、「ロマンスを通じて女になる」というモチーフを中心に構成されている。この中心モチーフは、「ヒロインの支配的特徴をカプセル化し、形態(対の対立概念)を内容(ロマンス、セクシャリティ、ビューティフィケーションのコード)に結合する」ことによって、小説のなかで浮き彫りにされている」(114-115)
・「普段学校の教師などからあまり高い評価を受けていない彼女たちも、ヒロインに自己同一化することによって、ポジティブな感覚を味わうことができる。退屈で、うんざいりするような毎日をおくっている少女にとって恋愛小説を読むことは、「最悪の一日でさえ何か特別な日に変えてしまう」手軽な儀式である」(117)
→生徒や子どもの視点からの文化分析が必要(「内職」について多少調べた自分だからこそ、その点を忘れないようにしたい)
・「少女小説が描く空間は、さながら少女の精神修養のための道場である。精神的成長の中身は、自立、自己主張、洞察力などさまざまな要素が含まれるが、何より強調されるのは他者に対する共感能力、他者を思いやる力や姿勢である。教官の対象はまず第一にロマンスの相手である異性だが、ロマンスのなかで身につけた共感能力は、まわりの友だちや家族など、ボーイフレンド以外の人との人間関係にも適応されていく。こうした面での成長は、女性としてのアイデンティティ形成の一部であるといえよう」(128)

●4章 ニューリテラシーの理論(平沢安政)
「ひとくちに「学習者の生活体験から出発する」といっても、(注 フレイレ等の)批判的識字の場合は「搾取」「差別」「貧困」「抑圧」に特徴づけられる社会的生活現実が土台になっているのに対し、ニューリテラシーの場合は感動と表現意欲の源泉となる生活体験を子どもたちが日常のなかにさぐりあて、その意味世界を「読み・書く」ことによって探求するプロセスを大切にしようとする志向性をもっている。今日のように」(156)
→「貧困」「搾取」が明確でないのが現代の社会である。フリーターと言っても自発的にその地位に居るのか、構造上の問題でその地位に居ざるを得ないのか、違っている。そういう時代だから「批判的識字」の活動(や「プレカリアート」などの造語による運動)という結果や道筋の見える活動よりもニューリテラシーの方が運動の広がりは大きくなるのだろう。

「ニューリテラシーは、学校が生活経験を切り捨てた上で成り立っていることを批判し、むしろ子どもの生活が学校の学習を規定していくような関係につくりかえることを提唱している。また、教師が権威ある知識提供者、評価者としてふるまうのではなく、子どもの認識プロセスにともに参加し、促進するためのサポートを提供する存在となるべきことを強調する。また、受信型モデルで機能性獲得を論じるのではなく、自己を表現し、発信するプロセスとしてリテラシーを位置づけている。こうして、ニューリテラシーは主に個を中心にした実践と論理展開を行ってきた」(158)
「リテラシーが人々の私的、公的な生活のなかで力となり、多様な表現と経験の共有をすすめるような形で生活に位置づくようになることが、ニューリテラシーの最大の目的である」(159)

●第6章 学校におけるカリキュラム・コントロールの矛盾(長尾彰夫)
・子どもの詩のもつ「生きた文化(lived culture)からの批判と抵抗」(223)
「このように、学校における一定の知識や行動は、生徒の多様な経験、背かつ、立場の違いのなかで、それぞれに異なった意味をもちうる。そしてそのことが、現在の学校を支配している潜在的カリキュラム、学校知への批判や抵抗を生みだし、カリキュラムをめぐっての矛盾や対立となっていく。こうした批判や抵抗、矛盾や対立は、時として授業の「能率性」、教師の「権威性」をそこない、学校の管理的構造を大きくゆさぶっていくことにもなるのである」(223)

●第7章 批判的教育研究の理論的背景(池田寛・長尾彰夫)
「教師によって生徒が学びうると考えられたカリキュラムが選びとられ編成される。そして、それが生徒に対して学習する内容として提示されるのである。/教師によって構成されたテクストを、個々の生徒は自らが背負っている生きた文化にしたがって選択し変換する。たとえば校則によって定められた制服に手を加え、反抗的な生徒文化としての意味を与えることによって変換的に摂取していくのである」(238)
→「内職」のこの「生きた文化にしたがって選択し変換する」/「変換的に摂取」の一例である。

2011年3月17日木曜日

原発報道の「風化」

『寺山修司名言集 身捨つるほどの祖国はありや』(2003)にいわく、

「ミサイルという記号の一般化は、あきらかにミサイルそのものに先行している。
 ここでは、本質が存在を先取りし、ミサイルではなく「ミサイル的」な概念が、知れわたってしまっているからである。
 私たちは、次第に核弾頭をつけたミサイルのリアリティとは別に、ミサイルということばに慣れる。ミサイルは日常語の中で風化され、その恐怖感を摩滅させてゆく。(現代のキーワード)」(258)

 逆説的ながら、原発に関するニュースが流れれば流れるほど、人びとは「またか」と思う。「日常語の中で風化され、その恐怖感を摩滅させてゆく」。
 いうならばニュースを流せば流すほど、そのニュースの中身はインフレになり、人びとの感じる重要度がどんどん下がって行くのである。
 原発報道をするニュースは、実は原発の危険性を風化させる一つのファクターであるかもしれないのである。

ジャン=ルイ・ベドゥアン(1961):斎藤正二訳『仮面の民俗学』、白水社、1963。

 仮面のもつ意味を「未開社会」のエスノグラフィーから考察する。その知見が現代社会にも通じるものであることを指摘する本。カイヨワの模倣としての「遊び」論も出てくる。『魔女ランダ考』を思い起こした。

「じじつ、われわれは、おそらく、たれしもが、こうした経験をもっているのであり、自分《らしく》もないことをしてしまった、とか、あの人《らしく》もないことをしたものだ、とか、よくそんなことをいったりするのである。こんな場合、これが自分だ、とわれわれが考える、理想像としての似姿は、かならずしも、正真正銘のわれわれの姿なのではない。それは、どこまでも、本当らしく見える姿であるというにすぎないのだ。それは、いうならば、《仮面》なのであって、その裏に隠れて、われわれは、他人の目にたいしてはもちろんのこと、自分自身の目にたいしても、われとみずからを偽装するのである。なぜなら、われわれは、こっちでそれに独立したというに近い存在を与えてやっているはずの、ある一つの影像、ある一つのまぼろしを、さも自分自身であるかのように、思い込みがちなものであるからだ。そういう場合は、われわれが考えているよりも、はるかに多いのである。」(15)
→「ほんとうの私」という存在は「仮面」である。「自己」はミード的にはIとmeとの恒常的な自己との相互作用である。「ほんとうの私」というmeは数あるmeの一つにすぎない。
 「よくある」言い方をするならば、パーソナリティの語源はペルソナ(仮面)にある、という事実につながる話である。

「仮面の場合には、ひとは、《他者》になろうとして、本当に《他者》になってしまうのだ。《他者》とは、それがすべての風貌を帯びうるゆえに、風貌をもたない者でもある。この矛盾を克服することこそ、仮面の仮面たる特質である。」(22)

「だれであり、仮面をつけた人物は、たんに、何者であるかがわからなくなった人物ではないからである。かれは、それ以上のものである。かれは、むしろ、他者でさえある。というのは、かれは、おのれを謎として呈示し、ひとにむかっては、その謎を解くように要求するのだから。したがって、かれは、あたりまえの法則からははみ出し、自由を要求しているわけだ。この自由は、しばらくの間にもせよ、社会の約束事によって制限を受けることがなくなるので、そのぶんだけ、ますます大きなものとなる。」(24)

(西欧人について)「仮面の力を借りて、可視的な自然の次元よりも高い次元の世界に、ありありと生きることを断念した人間は、自分の同類の目に、自分を超人として映らせようと努めるようになる。」(96)

「人間というやつは、自分でそうしたいと思うようなときにも、つぎからつぎへと、多数の仮面を発明することをやめるわけのものではない。このことだけは、確かなのだ。われわれの運命というやつが顔をもっていない、という謎あるがために、われわれは、そいつに目鼻立ちを与え、一個の名前を与えないではいられぬのだ。」「われわれが直視することのできない「絶対的な存在」は、人間の「仮面」を帯びた。」(139)
→よく分からない存在に名前をつけると言う行為は、その対象を理解可能なレベルにまで引き下げる働きをする。仮面にもそんな意味合いが込められている。

●訳者追い書き
「著者は、キリスト教によって西欧社会から駆逐された仮面が、ヨーロッパ各国の民間伝承のなかで、かすかに生き残っていることを認めたうえで、もはや、別の世界に属するより仕方ない、といいます。つまり、二十世紀の人間は、別種の仮面を発明しつつあるのだ、といいいます」(141)

・142頁にて訳者が、日本の案山子(かかし)は元々仮面に起源があるのではないかと指摘をしている。

Apple, Michael W.(1979):『学校幻想とカリキュラム』、日本エディタースクール出版部、1986。門倉正美・宮崎充保・植村高久訳。

「かいつまんで言えば、私は、教育は決して中立的な営みではないということ、すなわち教育者は、自覚していようといまいと、教育制度の本質からして、政治行動にたずさわっているということをつよく主張した。また、今日の先進産業経済を支配している制度編成は根本的に不平等をもたらすようになっているが、結局のところ、教育者は自らの教育実践を、そうした制度編成や、そこでの人々の意識形態から完全に切り離すことはできない、とも主張した」(1)

→フレイレも同様の主張をするが、彼は〈だからこそ何を教育するかが大切だ〉という。イリイチは〈だから教育は権力だ、ないほうがいい〉と切り捨てる。



「社会が正義にかなっていると言えるためには、社会は原理的にも、実際の活動においても、最も不利な立場にある人たちの利益に最大の貢献をしなければならない」(22)







ヘンリー・レヴィンを引用して、

「社会を変革しようとする教育的努力が、本来、教育部門で生じたのではない問題も学校が解決しうるというようなイデオロギーをうみだし、それを正当化することによって、中心的な問題から人々の関心をそらしてしまう傾向があるからである」(79)



「幼稚園の教室での社会化過程には、社会的相互行為の規範や規定を学ぶことがふくまれている。社会化とは、自らがかかわっていくことによって、状況を把握する枠組みをたえず洗練させていく過程なのである。社会状況に適合するためには、その状況が相互行為の枠組みとして提示している意味・制約・可能性などへの共通の理解が得られていなければならない」(99)



「学校という社会的現実を理解するためには、教室の実際のありようを研究することが必要である。それぞれの概念・役割・事物はいずれも社会的につくられたものであり、それらが作られた状況によって規定されている。教室での相互行為の意味づけは単に推定されるだけであってはならず、あくまで具体的に観察されねばならない」(100)

→学校の生徒文化研究を行っていきたい私にとって、どこまでも現場重視の姿勢を維持することが必要だ(あたりまえだけど)。



・「自由に」過ごすことが実は教員の強制によるのだ、という102頁の指摘。



「子どもたちが学校で習ったこととして語る内容はすべて、〈勉強〉とされている活動のとき先生が教えたことである。〈遊び〉は時間があまって、しかも子どもたちが与えられた勉強をすましているときにだけ許される」(104)



「教師が園児たちに期待しているのは、教室の状況に適応することであり、こうした適応にともなうどんな不快さにも耐えることなのである」(109)



幼稚園のなかで「従順・熱中・忍耐という性向を身につけることは、学問的能力よりもずっと価値があることなのである」(109)。

→さすが批判的教育学を名乗るだけのことはあると言える。



「はるかに重要のは、次のような問いを真剣にとりあげることである。すなわち〈現在の学校はしばしば誰の利益に奉仕しているのか〉、〈文化資本の分配と経済資本の分配とはいかに関係しているのか〉、〈意味づけは強めるが統制は弱めるような制度をもたらす政治的・経済的現実を構想しうるだろうか〉」。(113)



「この本の核心をなす論点」

「学校には歴史があるという点、そして学校は毎日の実践をとおして、しばしば複雑な隠れた仕方で、他の有力な諸制度に連結しているという点、の二点である」(120)



「学校は、それより力をもつ他の諸制度、すなわち権力や資源利用における構造的不平等を生みだすように結合している諸制度との関係のなかではじめて存在するのである」「第二点は、こうした不平等は学校が強化し、再生産するものであるという点である(むろん学校だけによってそうなるわけではないが)。教室の日常におけるカリキュラム・授業・評価の面での活動を通じて、学校はこうした不平等を、生みだすのではないとしても、保存するのに重要な役割を演じている」(123)

「学校生活の日常的過程は校舎の外の経済的・社会的・イデオロギー的諸構造と連結しているからである」(125)

→学校は社会や政治のイデオロギーを拡大再生産する場所になっている。



「現実を理解することはその現実を変革するための必要条件であるのみでなく、倫理的・美的・経済的に適切な仕方での現実の再構成を実現していくための大きなステップにもなる、という点を指摘しておくことが重要だろう」(196)



「他人が予め選定した行動によって他人が予め定めた目標のために働くという仕方を習得することによって、生徒たちは、ひとが果たすべき役割がすでに社会の網の目の中で決定されているような、ますます企業的・官僚主義的になっている社会のなかでの働き方をも同時に習得しているのである。それぞれの役割の中には、その役割にふさわしい思考法がすでに組み込まれているので、生徒たちは、役割を遂行するのがまともな生き方だと教えられてさえいれば、往々にしてかなり疎外されている役割でも気持ちよくこなしていける」(223-224)

→〈働くって、そういうものだ〉という認識があると、人は疎外されていることに気づかないことがある。社会の産業システムがもたらした冷却作用であるように思われる。



「不幸にして言わざるをえないのは、いくつかの現代[社会主義]社会の本質である厳格な統制は、マルクス主義の伝統のなかに見られる独特の力強さをもった分析とはほとんど関連がないという点である」(248)


「たいての場合学校は、〈標準的でない〉[社会的・文化的背景をもつ]生徒に知恵遅れというレッテルを貼るただひとつの機関だったという点である。それらの生徒も、いったん学校のそとへ出ればちゃんとやっていたのである」(259)
→ラベリング理論への言及。いまはこの機能を心理学などがやっているように思われる。

「権力はしばしば援助という形態や〈正統的知識〉という形態、すなわち中立的とみなされることによって自己正当化しているような知識形態をとってあらわれる。したがって権力は、自然さをよそおったかたちで不平等な体制を再生産し正当化する諸制度を通じて行使されている。実際にはこれらすべてが、教育のような援助的職業を補完する役割を担っている知識人たちによって更に正当化されている場合がある」(267)

「第二章および第三章で述べたように、学校教育の重要な潜在的機能のひとつは、さまざまな意識形態をしばしば極めて不平等な形で生徒に分配することであるといえよう。だから社会学的に言えば、それらの章で述べたような性向や観点を獲得することを通じて、生徒たちは先進企業社会の構造をいたるところで支えるさまざまな役割に振り分けられるわけである。レッテル貼りの過程はこの選別において微妙な、しかし重要な位置を占めている」(269-270)

「専門家は制度の要求の解決に貢献するため、技術的な助言やサービスを供給するよう期待されている。だが実際に受け入れられる議論の範囲や解答の種類は、管理機構が始めに何を〈問題〉として設定したかによってイデオロギー的に限界づけられている」(279)

「学校がさまざまな機能を遂行できるのは、技術的な統制と確実性の利益を体現した〈中立的な〉観点の使用と、経済的・文化的再生産への貢献とを結合させているためである」(288)

「ヤングとバーンスティンが再三強調しているように、教育の諸側面のイデオロギー的性格についてはこれまでも少しは着目されてきたが、教室でのやりとり、つまり日々の学校生活の形態や内容それ自体がイデオロギー的〈伝達〉を実現しているという点は、ごく最近までほとんど、あるいはまったく意識されていなかったのである」(294)

「この本全体をつうじて私は分配と再生産という語を使ってきた。これらの言葉は、文化的・経済的資本をもつ者の利益を最大化するように既存の制度の権力が自らを強化し、社会秩序とそれについてのわれわれの考え方を限定している、ということを暴く概念的な効果をもっている」(303)

「解放の基本的条件のひとつは、錯綜するすべての肯定面および否定面において制度の現実的機能を〈把握し〉、現行の規則性のもつ矛盾を明らかにし、最後に自発性・選択・より平等な統制様式などの可能性を他の人々が〈想い起こす〉のを助ける(また逆に他の人々にそのように助けてもらう)ことができることである」(308)

「〈教育内部での〉最も重要な姿勢のひとつとしては、生徒の権利(さらに教師や被抑圧者集団等の民主的権利)を護るという姿勢があるだろう」(309)

「カリキュラム学者は、今日の企業社会を席巻しているイデオロギーや制度を完全に容認してしまうような位置から一歩退く必要がある」(312)
→ウェーバーの言う客観性の基準をカリキュラム学の立場でやっていく必要を述べた宣言である。

「結論的に言えば、ここで私が主張しているのは、状況の再定義である。すなわち、中立の知識人という、それ自身イデオロギーを負った理念ではなく、ヘゲモニーに抗する闘争に実際に参加する〈有機的な〉知識人という概念を通してグラムシが求めていた情熱的関与を真剣に担おうとする知識人の理念を認識させるような、状況の再定義なのである」(313)

●訳者あとがき
本書の特徴の1点目「教育制度を文化的・経済的再生産装置としてとらえる視点がはっきり打ち出されている点をあげることができる。教育が生産者(労働者)の生産、すなわち再生産の重要な一環であることは、はやくからマルクス主義的見地の常識だった。しかし、その再生産メカニズムを具体的に実証する作業や、文化的な再生産装置としての機能の解明は、著者のいうネオ・マルクス主義の伝統を中心とする近年の理論的営為によってようやくその端緒が切りひらかれた段階と言えるだろう」(367)


●コメント

アップルは学校が一部の人びとにしか役立っておらず、後の者にとっては社会的不平等の再生産が成される場所・労働者のエートスを習得する場所になっていると指摘する。このことをカリキュラム研究の知見と「隠れたカリキュラム」を指摘することで明らかにしている。彼の後の書『教育と権力』ではこのほかに、大学という学術研究機関が国民の税金を援助としてもらい、資本家にしか役立たない研究を代行する機関となっている点の指摘もなされ

2011年3月14日月曜日

福島原発報道に思うこと。

 いま、福島原発のニュースでテレビはもちきりである。原発については一時、徹底的に本を読みこんだ時期がある。それは高校二年のときのディベート甲子園の頃。論題の「日本は原子力発電を廃止すべきである、是か非か」。その時あった資料(2004年当時)のどれもが原子力発電の危険を指摘するものばかり。現状維持の否定側(つまり、原発を「廃止すべきでない」立場)はほとんど勝ち目がない。チームメートと「どうやったら肯定側のいう〈原発の事故で死者が多数出る〉という主張を打ち砕けるか」真剣な議論をした(自分は途中で抜けてスタッフとして甲子園に参加した)。
 結局、そのときに出ていた否定側の有力資料は、政府や御用学者のいう「安全基準は万全だ」というようなものしかなかった。そのため、肯定側の主張をすべて批判し、ブレイクイーブンで勝つ、というのが否定側に当たった際の必勝パターンとして考えられていた。なお、ブレイクイーブンとは肯定‐否定双方の主張が成り立たない、ということ。その場合は「現状維持の否定側の勝ち」になる。私のいた学校は決勝戦で否定側が当たる(=つまり、原発を廃止するな、という立場)も、なんと優勝してしまうという快挙を成し遂げた。いまの時期にディベートするなら、まずありえない話である。
 まあ、あのとき感じていた原発維持側の資料に書かれていた内容は前提自体誤ったものであったことが可塑的に明らかになったわけだ(「格納容器」は丈夫というのは資料通りであったけれども)。
 今回のニュースを見て、御用学者にだけはならないと決めた。

2011年3月10日木曜日

Michael W. Apple (1982):浅沼茂・松下晴彦訳『教育と権力』、日本エディタースクール出版部、1992。

「ヘゲモニーとは、私たちのごく日常的な実践により構成されているものである。私たちが知っている社会的世界、すなわち、内在的カリキュラムや教授、評価といった教育制度の諸特徴が相互にかかわっているような世界を作りあげているのは、私たちの常識的な感覚や行為の集合全体なのである」(62)

「学校は再生産以上のことをしている。学校はまず権力集団の文化や知識の形態と内容を取り上げることにより、続いてその形態と内容を、保存され伝達されるべき正統な知識として規定づけることにより、文化的手段の特権を維持するのに役立っているのである」(65)
→バーンスティンの言語コード論を思い出す。


「要するに、先進資本主義国にはひとつの公教育制度があるというのではなく、実際には二つの制度が同時に存在するのである。それぞれの公教育制度は、学習者の社会的階級と経済的軌道に合わせて、異なった規範と価値、そして性向を教え込むのである」(69)

「国家は科学研究や労働力の教育や訓練のような事柄のコストを社会的に認めてしまうのである」(83)

「まさにこの労働文化が、単なる対応理論によって描かれた規範よりもかなり充実した別の規範の発展がありうることを示すのである。この規範が、労働者のレジスタンスのための場、技術や操業速度、知識の部分的なコントロールを可能にし、また生産部門の完全な細分化ではなく集産性を、そして経営者が要求する速度からの自立性を可能にする」(120)

・アップルは労働者論の一環として教員を例に出す。(139)

Willisが描いたようなラッズたちは「同じ学校で、生徒たちは、より徹底して別のことをする。すなわち、彼らは、学校の顕在的・潜在的カリキュラムを率直にはっきりと拒否するのである。数学や科学、歴史、職業教育等々を教えている教師は、可能な限り無視される。時間厳守、几帳面さ、従順といった、より経済に密着した規範や価値を明確に教えても、最大限に忘れ去られてしまうものなのである」(152)

「実際に生じているのは次のようなことであろう。すなわち、生徒を勇気づけ、また、学校によって描かれるイデオロギー的価値に反抗しうるような労働者階級のテーマと態度を生徒が学校の日常生活の中で発達させるのを、何かより進歩的設定が制約すると同時に促進しているという点である。抵抗や権威の転覆、システムの操作、気晴らしや楽しみの創造、学校の公式的活動に対抗するための非公式グループの形成など、これらすべては、管理者や教師が望むものとは正反対のものであるが、具体的には学校によって生み出されている。したがって、もし労働者が相互に交換可能で、仕事自体が画一的で一般化されており、職種による内容の差がないとすれば、学校はラッズが見通す目を養うのを可能にするという点で、重要な役割を果たしているということになる。しかしながら同時に、そこには、結局のところ、そのような労働者階級の若者を労働市場につなぎ止め、一般化した、標準的労働市場へと準備させることになるという意味で制約があるのも明らかである」(160-161)

「提唱されている改革を単に組織的な調整の中で考慮することのみならず、何が実際に教えられ、何が教えられていないかということも同様に重要である」(205)

「私の議論の多くは機械的な再生産理論に対する概念的・経験的批判であった」(261)

「多くの再生産論(アルチュセールがその最初の例であるが)の主たる概念的・政治的弱点のひとつは、「それらが、学校の子どもたちや教師のレジスタンスの能力を正当に評価していない」という点である。つまり、学校がジェンダーに関する諸関係、生産の社会関係を再生産するのに役立っているという点を把握するのは重要であるけれども、「「学校が関与していないと思われるところで」学校はまた、歴史的に特殊なレジスタンスの形態を再生産しているのである」。これらの諸点は明らかに私たちの学校論議にのみ限られるものではなく、職場や家庭などにもあてはまる」(263)

ピーター・ドライヤーを引いて
「教師は、生徒に対し、語る内容によっても、また語らない事柄によっても、生徒の仮定、価値、好みを形成するのを助長している」(275)

訳者解説
「労働者が、単なる手足として働かされるのではなく、自らの手足を自分の意思で動かすことのできるように、頭脳の部分を取り戻すために自治と団結を主張するのは、人間の権利として当然である。それと同じように、教育における合理主義とシステム志向に抗して、教師も教育実践の頭脳を取り戻す必要があるというのがアップルの主張である。(…)近代的な目的合理主義の枠組みが、アメリカの教育の現実をいかに惨めなものにしてきたかを示す証拠でもある」(340-341)

コメント
・全体的に言って、アップルは「学校」というのみで学校種をあまり問題としていない。これは「学校」全体に対する議論としては有効だが、個別の学校種に着目する場合、弱みになる可能性がある。
・P. Willisらを検討し、学校における生徒文化に着目した第4章は、「内職」を研究する者として興味深い内容だ。
・「抵抗」としての実践に注目するアップル。労働者としての教員像という観点から、本書5章において単純労働者化したアメリカの教員像を批判する。
・273ページなど、マルクス的すぎて違和感を覚える個所がある。また、まず主体の「抵抗」ありきで議論がなされている感がある。
・授業や教育への「抵抗」の形態をアップル(1982)やウィリス(1977:『ハマータウンの野郎ども』)は描くが、これらは授業を受けることの拒否であり、授業中に別の学習をするという「内職」形態は描かれていない。ここに注目することで自分の研究を立てられるのではないか。

2011年3月9日水曜日

言い訳

世の中、何かの言い訳が多い。
傘をさしても雨には濡れる。これは傘をさすということを言い訳として利用している。つまり「あの人は傘をささない馬鹿な人」と思われないようにするための言い訳なのである。

2011年3月7日月曜日

樫村愛子(2009):『臨床社会学ならこう考える 生き延びるための理論と実践』、青土社。

・恒常性/再帰性というキーワードについて。
「精神分析が示しているのは、再帰性そのものが恒常性に常に依存しているということであり、恒常性を食いつぶしてしまえば、再帰性そのものが破綻してしまう。(…)それゆえネオリベ批判において、精神分析が掲げる、恒常性の必要性ついての議論が欠かせない。しかし一方、再帰性はギデンズの言うように近代の条件であり、セラピーも再帰的主体の契約によって行われるものであるので、再帰性という問題圏は外すことはできない。恒常性の復活(藤本注 これが新保守主義など)や手直しのために再帰性がむやみに抑圧される方法はよいわけではない。(…)それゆえ、再帰性と恒常性の関係をどう構成していくかが重要な課題となる」(21-22)

「ドラッグは少し前まで若者にとってマイナーな存在であった。しかし現在のフランスでは若者に広く浸透している。2002年の調査では、17-18歳の若者全体の50.9%がcannabis(大麻)の経験がある。teuf(注 フランスのメディア社会学者ダニョが調査した、飲んで騒ぐという若者の文化の隠語)では、みんながいろいろな酒やドラッグを試していて、比較的(注 「に」を入れた方がいいと思われる)その特質を語るのが議論の大きなテーマとなっている」(218)

・1910年代のアメリカにおける「教育の現代化」改革について。
「学校は企業と比較され教育者は「組織人」とみなされる。「学級運営」という発想はここから生まれ「教育管理」は教育の効率性の評価のために評価の数値化を要請する。アメリカの心理学者たち(ビネー等)が知能テストや学力評価尺度を開発していったのはこのような歴史的背景のもとでである」(287)

「デューイ的公共哲学観に依拠するジルー(1992)は、公共性を他者に対する積極的な関与を意味するものと考えるが、ここでさらに現代的状況からいえば公共性は社会が個人化し社会が解体する時代において個人と社会の間の「mediation(媒介領域)」として設定することができるだろう。「mediation(媒介領域)」とはその中での自由なやりとりや思考錯誤を可能にするものであり、現実との関係をいったん留保しながらそれを考察し作っていく、先の幻想空間でもある」(294)

「文化がmediationの場となり社会的介入が個別的になされるような社会とは基本的に一定の水準以上の再帰的な個人(次に見る「人間資本」)を前提としているわけであり、その水準に満たない人々にはますます無意識的欲望の暴走とその困難が予想されるだろう」(301)

ボットと人工知能

 科学の夢は人工知能を持ったロボットである、という。意識を持ったロボットを作る上で重要なのは、あまり言われていない点であるが、人間が「これには意識がある」と認識するということである。意識とは客観的なものではない。ある人物によって意識の存在が事後的に確認されるのみである。
 ツイッターのボットには、本物の人間が書いていると錯覚することがある。このときこのボットは誰かによって意識があると認識されているわけだ。その意味ではすでに意識をもったろぼったが存在するということができる。
 この可能性を認めないことは恐ろしい結果を招く。誰かがツイッターでわけのわからないツイートをする(それは障がいゆえにそう書かざるを得ないのかもしれない)際、誰かが「これはボットだ」と認識する。このときツイートした人物の意識はないものとして扱われる。人間を非人間として扱う結果になるわけだ。
 ガーフィンケルらの『エスノメソドロジー』に「Kは精神病だ」という記事がある。あるKという人物が、友人の語りの中で精神病にさせられるプロセスを描いたものだ。精神病の社会的構築をいう意図のある論文だが、これと同様のことはツイッターをめぐる本稿の内容にもつながる内容であろう。

2011年3月4日金曜日

テキスト論で読む小説『エミール』

テキスト論で読む小説『エミール』

 ルソーの書いた教育小説『エミール』は、終始エミール少年の家庭教師の目線から書かれた物語である。これを一種の教育実践記録として読むとどのような読解が可能かを少し試みたい。
本書『エミール』では教員のみが語ることを許され、エミールの発言は教員によって記録されたもののみが残る。エミールには自由に発言することが許されなかった(発言してもどうせ教員の選んだ言葉・教員がきれいに解釈した言葉しか残らない)。小説内には掲載されていないだけで、実際のエミールは教員に相当反発をしていたのだと考えられる。小説『エミール』の世界では、教員が生殺与奪の権を持っている(窓ガラスを割ったエミールが凍える寸前までいくことからして、文字通りの意味を持つ)。教員の想定したルートを通らない限り、エミールは記録されることも物語ることもできない(消極教育を謳った小説『エミール』内の実践が、実は教員のこまかな計画のもとに行われていたとの指摘はかねてより多く存在する)。教員の教育計画上の予想通りに行かない場合、小説内では教員の失敗ではなく、エミール自身の失敗として処理される。
考えてみれば、小説『エミール』の成立する環境自身、異常なものである。エミールは田舎の一軒家に、両親から切り離され、尊敬を要求してくる教員と、二人だけの生活を幼少のころから押し付けられてきた。教員が幼児性愛者・同性愛者であった場合、エミールは記録されないが数知れない虐待を受けていた可能性が考えられる。教員が仮に変態性愛者であると考えた場合、小説『エミール』の持つ意味は変わってくる。エミールへの性的虐待の疑いをかけられた(実際に虐待しているかもしれないが)教員が、自分の正当化(言い訳)のためにエミールとの「関係」を美しく整理・記録・公刊した実践記録であった可能性が出て来るのだ。
ブルジョア家庭しか家庭教師を雇えない時代に、エミールは幼少時より家庭教師を付けられて育った。実家は相当な財力を持っているわけだ。しかし教員の教育の成果は、エミールを手工業者に変えただけであった。実家を継ぐという話も、「帝王学」を学ぶという話もいっさいなく、小説後半では両親・実家の姿が完全に消えていく。両親も実家も健在である場合、(a)エミールが教師にさらわれたと考えることも、(b)エミールが教員になつき実家を捨てたと考えることもできる。が、(a)・(b)両方とも我々の眼には不幸な出来事して読み取ることができる。家庭教師の自己認識的には最高の教育をおこなったはずであった。泥棒から貴族まで、教え子が望む生き方ができるようにする教育を、教員がエミールに与えたはずであった。その結果が自営業の手工業者とは、なんともお粗末な実践であったと言わざるを得ないのではないか。

実は『エミール』には続編が執筆されている。続編の『エミール』は教員ではなくエミール目線から書かれた書簡形式の小説である。恋人ソフィーとの苦い別れと教員への一応の感謝が述べられている。先ほどの実家との関係は、やはり文書として登場してこない。形式上、文書中ではエミールはこの書簡を出すかもしれないし、出さないかもしれないと留保して記録している。
この書簡をエミール少年自身が書いたと見る場合、①手紙を元教員に届け、元教員が公表したという見方と、②エミールは元教員に書簡を出さなかったが内容を公開した場合の2つのケースが想定される(読者の目に私的な書簡がさらされているということは、誰かが何らかの意図を持って公刊したというわけだ)。①の場合、書簡中の教員への賛辞は文字通りの意味をもつ。純粋にエミールは教員に感謝しているのだ。本書簡を読者が読めるのは当然①か②の手法によりどこかに公開されたためであるが、①の場合は教員の教育実践の最終的成功を暗示する内容になっている。
②の場合、話は逆になる。エミールは確かに教員に手紙を書いたのだが、教員に届けることを選らばなかった。教員への感謝の念も記された本書簡を届けたくはなかったのだ。けれど本書簡は公開され、読者は『ルソー全集』に収録されたものを目にすることができる。とすれば教員への感謝の念は本物ではなく、あくまで儀礼的に書いたものであるという読み方ができる。わざわざ本書簡を公開するということは、教員に届けるつもりではなく、形式的に書かれた教員への賛辞を世に示すことで結果的に家庭教師の教育実践の最終的失敗を示しているのである。エミールの復讐ともいえる。先に挙げたようにエミールが性的虐待を受けていた場合、教員への異議申し立ての意味合いがあったのだ。

補足

無論、これを矢野智司の「贈与」枠組みで説明することも可能であろう。「私」ことエミール自身が家庭教師の教育=贈与をあえて否定することで、自己の生き方を構築するという意志のあらわれを見てとることができるからだ(むしろ石原千秋の『こころ 大人になれなかった先生』の図式に近い)。

あるいは私はルソーの専門ではないのでわからないが、あまり有名でない『エミール』続編をルソーが実は公刊せず、手元に原稿として残っていたものを後世の研究者が整理して発刊したのかもしれない。その場合、積極的意図なしでエミールの書簡が公表されたという結果となる。その場合、①と②の図式が崩れてしまうことは言うまでもない。

2011年3月3日木曜日

授業中の内職の持つ意味 軽い考察

 Second bestとしての内職。授業中に「内職」によって学習を行うということは、自習室で学ぶよりも恐らく困難な行為であると考えられる。内職に関するアンケート調査より、教員に隠れて行われる内職が多く存在することが読み取れるためだ。人間の集中する能力から考えると、内職は一人で学習するよりも困難になる。
 しかし、内職は現になされている。教室から出て行き、別の場所で学習をする選択はあまり取られていない。それは内職という次善の策で納得/満足するようになっているからだ。竹内の図式で言うと縮小cooling-downになる。
 内職は自発的にやるものであると言うことは、アテネ(2001)に現れている。授業が自分に役に立たないと認識される場合、授業時間と授業空間を有効に活用するために生徒は内職を行う。これは自発的である分、自らが選択したことになり次善の策であっても納得をせざるを得なくなる。次善を選ぶという縮小作用は能動性が伴うからこそ冷却となるのである。なお、この図式は竹内洋が『選抜社会』で記録した内容でもある。納得の構造が内職において成立していると言える。
 生徒が内職を行っても、ゴフマンがいうように最低限の敬意を表していることは否めない。生徒にとってはあくまで授業を乗り越えるため・受験勉強を行うためという選択になるが、教員にとっても内職をされることで少なくとも教授行為自体は成立した構図が維持される。また、受験勉強を進めることになるため学校側も進学実績を入手することができる。内職は教員ー生徒双方に有効な戦略であったのである。

2011年2月27日日曜日

村田栄一・里見実(1986):『もうひとつの学校へ向けて』、筑摩書房。

 教育は文化運動だったのだと実感した本。教育実践を学術的側面から取り上げるという営みに、一定の価値があるのだと思った書。

 印象的なのは「学校がもちうる独自な可能性」(152)として里見が考察する場面である。


 <歴史的にいえば学校は、生きるための労働から解放された人びとの「自由な」教養形成の場として成立した、といってよいでしょう。学校はその「閑暇」というギリシア語が示しているように、人間を労働から分離して知的な活動に専念させる場として成立しているわけです。しかしこうした「独自性」によって、学校の独自な可能性が基礎づけられるわけではありません。むしろ逆でしょう。学校が労働や製作的な活動からきりはなされた聖域である間は、学校が独自な存在意義をもつことはなく、かえって、学校が一つの作業場となり具体的な生活の場となったときに、はじめて学校の独自な可能性が浮上するのだ、ということを明らかにしたのが、われわれの先輩たちの生活教育の実践であったと思うのです。
 「教育を作業場に」というメッセージは、われわれのこの往復書簡をつらぬいているいわばメインテーマですが、しかしそこでいう「作業場としての教室」は、すぐれて「もどき」の空間である、ということを強調しておかなければならないでしょう。>(152)

 ここは生活文脈の中に学校を位置づける上で考慮すべき点の指摘である。里見の文章のうち、「もどき」の空間としての学校、との指摘は重要である。なぜならば、「もどき」ゆえに失敗を許される空間であるためだ。子どもの社会化には時間がかかる。子どもの学習のためにアレンジした環境の中で学んでいくにあたり、失敗をしてもかまわない空間の保障が重要になってくる。その際に学校というのは生活空間の「もどき」にすぎないのだ、と意識できることが子どもの自己教育力・「生きる力」を促進していくことになるであろう。

 このあと本書ではスペインの学校においてあえて古い道具を子どもたちが使うという実践が紹介されている。このことは「もどき」の場としての学校ゆえに成立する概念だ。「もどき」だからこそ、現状の社会に合わせる必要がない。それよりも子どもの学びを支える・高める方向で使える道具を用いることのほうが価値が高くなる(イリイチの言うtools for convivialityである)。
 学校でパソコンを用いて学ぶことは、確かに「社会」に出たときの練習にはなるが、疎外された学びを提供する行為に化することがある。小学校でそろばんを学習するように、あえて昔の道具で学ぶという可能性を本書は指摘していた。イリイチのアンプラグ論やコンビビアル論に近いものを感じる。イリイチは、発展の程度の低いラジオや車ならば庶民が自分で直して使えるが、最先端のものならば専門家に頼らざるを得なくなる点を指摘する。教育や生活のためには「先端」のものを使わなければならない義理はないのだ。

 別に学校は最先端の内容を扱う必要のある場所ではない。この指摘に私は自分の学校に対してのドクサを捨てなければならないと感じた。

2011年2月21日月曜日

人格を疑う看板

もう少し写りがいいといいんだけど。

2011年2月20日日曜日

ルパン三世の精神分析

 初期のテレビアニメ版『ルパン三世』はロールモデルがアルセーヌ・ルパン、つまり「一世」「おじいちゃん」なのである。準拠点がそうなっているからこそ、非合理にも「予告状」(時代錯誤を感じさせる)を出す。すべて祖父以上を目ざしたいのだ。
 しかし、祖父は帰るべき家でもある。アジトはあっても「自宅」のないルパン(おまけに通常の意味での平々凡々な「生活」もない)にとって、祖父という「理念」だけが寄る辺なのである。過度に女を求めるのも、過程を欲する証拠なのである。
 岸田秀的には、ルパン三世はよっぽど深刻な精神異常者なのであろう。

2011年2月17日木曜日

若林幹夫(1995):『地図の想像力』、講談社選書メチエ。

若林幹夫(1995):『地図の想像力』、講談社選書メチエ。

 地図が「発明」されたとき、人間の認識能力は大きく変わったのだろう。それは今ある世界が記号化=情報化されることであるからだ。空間を平面上に再現する営み。地図を持ち歩くとき、空間も持ち歩くことになる。本書を読み、そのようなことを考えた。
 地図という「客観的」に見えるメディアには、共同幻想が見せる恣意的なメッセージを伝える働きが存在している。

●序 帝国の地図

●第一章 社会の可視化

「地図という表現は、人間の歴史の中で様々な時代に、様々な場所で独自に「発明」されてきた。地図を作り、利用することは、人間の社会に相当に普遍的に見られる現象なのである。」(28)

「環境に対して自身が疎遠な「他者」であったり、ある環境に関する情報をその環境を知らない「他者」に伝達しようとする時に、地図的空間は現れるのである。」(38)
→地図を見るときは環境に対して自身が「他者」であるとき。馴染みの空間は「自己」になっている。いわば空間からの「疎外」を回復するために地図が必要とされるわけだ。

「重要なことは、地図という表現がそのような想像的な視点による空間の像を、実際に目に見える形で表現すること、したがって人びとは地図を媒介にしてこの想像的な視点から見た空間の像を、実際に取りうる視点から見た像であるかのごとき経験をするということだ。この意味で、地図的な視点が人間の経験に代補する世界の全域的なリアリティもまた、想像的であり、超越的である。」(42)
→ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』にも、国家の可視化という意味合いで地図が出ていた。

「そのようにして社会が可視化される時、「社会」という存在が湛えるリアリティは、個々の人間の個別的・局所的な経験を超えた超越的で想像的な位相、それゆえ他者と共有され伝達されることの可能な位相を内包している。地図を描き、それを通じて世界を見るという営みは、人間がけっして見晴らすことのできない世界の全域的なあり方を可視化する一つの方法、世界の空間的なあり方に関してそれを可視化し、了解し、その中に自己と他者とを位置づけようとする営みなのである。」(45)

「「科学的」で「客観的」な地図の存在を支えている「科学」や「客観」も、それが世界を記述し理解するための記号による意味の体系であるという点では「神話」や「主観」と変わりがないのだ。」(53)

「地図とは世界に関するテクストである」(54)

「社会や世界の全域的な広がりについて語り、思考する時、私たちはあたかも地図を見るかのようにしてそれを対象化し、思考し、言語化しているのである。」(59)

●第二章 拡張される世界

「帝国や文明圏という存在も、それらが地理的領域を覆うという事態も、結局のところ想像的な全域に関わる事柄としてのみ個々の人びとの了解の中に現れてくるということだ。そこでは、帝国や文明の地理的広がりは、そのような地理的広がりを概念・イメージとして生産し、流通させ、受け入れてゆく社会的な営みと相関することによってはじめて「真実」としての資格を得る。/言いかえれば、帝国や文明という社会は、そのような概念・イメージと相関し、それを支えうるシステムとして貢納や徴税、用役や教育、行政文書や経典等の関係や実践、地の体系を作り上げ、その中で帝国や文明に関するイメージを再生産してゆくのである。」(96)

「貨幣と測量とは、社会の構成要素を単一の指標によって通約的に把握し、それによって社会的な諸関係を交換可能な量からなるものとして組織するという、同一の精神を体現しているのである。」(104)

「測量する視点とはいわば「権力の眼」なのであり、この眼を通じて土地と社会との関係が「数量」として客体化され、客観化されて、一義的に確定されてゆくのである。」(106)

●第三章 近代的世界の「発見」

●第四章 国土の製作と国民の創出

●終章 地図としての社会 地図を超える社会

「近代的地図が「世界」として描き出す範域の拡張と正確な測定、そしてそれらの範域の領域国家による属領化は、領域的な主権国家と資本主義、そして近代的な科学技術という近代的な社会を支えるシステムの地球的な規模での展開と対応していた。それは、特定の様式をもった知、生産と流通、統治権力、およびそれに相関する身体技術や時間システム等の社会的諸関係を秩序づける諸様式の地球的な規模での普遍化=世界化、私たちが「近代」と呼ぶ社会の普遍化=世界化と対応していたのである。」(212)

●あとがき
「地図の歴史や文化史、地図的な表現をめぐる考察等を読んでいるうちに、「社会」と「空間」についてだけでなく、「社会という経験」そのものについても、地図という表現を触媒にして考えることができるのではないかという気がしてきたのである。」(255)

ピエール・ブルデュー(1977):原山哲訳『資本主義のハビトゥス』、藤原書店、1993。

 貨幣文化が導入・普及する等、「資本主義のハビトゥス」が人びとに共有されるようになる様子を、アルジュリアでのエスノグラフィーをもとにしてブルデューが描く書。「貨幣」制度が入ることで文化が貧しくなる傾向があるということをアルジュリアの例を通して語っているように見える。バタイユの「蕩尽」や「贈与」の議論を思いだす(『呪われた部分』)。実際、ブルデューは「反対給付」などの言葉を使っている。これ、バタイユが先かブルデューが先か…。まあ、どちらもモースの『贈与論』を元にしている点では同じである。

●序論 構造とハビトゥス

「経済的行為の主体は、ホモ・エコノミカスではなく、現実の人間なのであるが、その現実の人間は経済によってつくられているのである。」(11)

●第一章 単純再生産と周期的時間

 貨幣文化の普及により「人々は、それ自体では、なんの喜びももたらさない記号について、考えるようになるのだ。」(29)。つまり、貨幣という記号をありがたがるハビトゥスが形成されるのである。
 このハビトゥスは「時間」概念も変化させる。「前資本主義的経済が要請する時間の経験の特殊性は、つぎの点にある。つまり、その時間の経験は、いくつかのなかの選択された、ある一つの可能性として提示されるのではなく、その経済によって、唯一可能なものとして課せられるものなのである。」(36)。
 また「公平」の感覚も、資本主義のハビトゥスが入る以前と以後とでは変わってくる、とも指摘している。
 

「農民は、厳密な意味では、労働することはしない。彼は、労苦にたずさわるのだ。」(47)
「労働は、本来、目的ではないし、それ自体、徳であるわけでもない。価値あるとされているのは、経済的目的に志向した行為ではなく、活動そのもので、それが、経済的機能から独立し、社会的機能をもつかぎりにおいてなのである。」(48)

「時間的継起の組織化の原則は、性による分業を決定する原則と同じである」(54)
→イリイチのシャドウ・ワークの根拠でもある。

●第二章 矛盾する必然性と両義的行動

(ダニエル・ラーナーからの引用)
「近代社会によって発展する行動のモデルは、感情移入、すなわち、他者に応じて自己のシステム(self-system)をすばやく再組織する能力によって特徴づけられる。伝統的社会の孤立した共同体が、非常に拘束的なパーソナリティに基づいて機能していたのにたいして、近代社会の諸部分が相互依存しあう事態は、広範囲の参加を要求し、このような参加は、開放的で、適応的な自己のシステム、つまり、新たな役割を取り込み、個人的な価値を公共的な問題に一致させることができる自己のシステムを必要とする。このこと故に、社会の近代化は、われわれが心理的流動性とよぶ大きな心理的変化にかかわっていた。」(61)

「見せかけの仕事」(75)。それは「農民社会のように、その成員に労働を与える義務をそなえた社会、そして生産的ないしは営利的な労働を知らず、同時に、労働の稀少性も知らず、失業の意識もない社会、そういった社会では、なにかしたいと思う者には、つねにすべきことがあると考えられていて、また、労働は社会的義務とみなされ、怠惰は道徳的過失とみなされているのである。」(75)。貨幣経済が導入されると、前資本主義的ハビトゥスである「見せかけの仕事」を行う元農民が多く表れてくる。これが人びとの貧困・搾取にもつながってくる。
また、貨幣経済が浸透すると、前資本主義的な家族のあり方が崩れて来る点をブルデューは指摘する。
「測定でき、通訳できる貨幣収入の多様な道の出現は、家族の分裂の可能性をはらんでおり、家長の権威はおびやかされるのである。というのは、他の成員の服従は、衰退するのをやめず、各々の成員は、収入の自分の取り分を主張するようになるからである。」(81)。その結果、「大部分の場合、出費を取り決めたり、その他あらゆることを命令するという、家長の無条件的な権威は、終わりを遂げている。」(85)のである。
 このことは各人の自由の増大を保障することになるが、その反面「家族」や「一族」のあり方が変遷せざるを得なくなる。

●第三章 主観的願望と客観的チャンス

「下層プロレタリアは、教育や職業的資格の欠如―それらの欠如は、同時に、彼らの存在の欠如でもある―の責任が、また、システムにもあるのだという意識に到達することはないのである。」(107)

「要するに、完璧な疎外は、疎外の意識さえも抑止してしまうのだ。」(108)

「常勤の仕事と、規則的な給与が与えられてこそ、開かれた、合理的な時間についての意識が生まれるのである。行為、判断、願望は、生活設計とともに、組織化されるようになるのである。そうなってはじめて、革命的態度が、夢への逃避や、宿命論的なあきらめに取って代わるようになるのだ。」(109)

●第四章 経済的性向の変化のための経済的条件

「最下層の人々は、安定した職業、より厳密に言えば、きまった職業、および、それに到達するのに不可欠な職業的資格と学歴を願望しているのだ、ということを理解しなければならない。守衛、夜警、通信連絡係、監視人といった仕事は、彼らにとっては、「夢の職業」である。というのは、それらは、つらい仕事ではないし、また、学歴、職業教育、資本がなくても得られる仕事のなかで、最も確実な仕事であるからだ。」(123-124)

「よく言われるように、未来を持つ者は、未来を支配しようと企図出来る者なのだ。」(128)

・148頁あたりで述べられている、スラムからアパルトマンに移る話は、「都市化」をめぐる社会学の議論と同様の構図である。「スラム街の生き生きとした雰囲気は、集合住宅地の表面的で断片的な人間関係に取って代わる」(148)等のように。イリイチの「コモンズの消滅」をめぐる議論を思い起こす。
 都市的住居は費用がかかる。そのため「近代的住居は、近代的生活を可能にするものであるはずが、逆説的にも、近代的な生活に参画することに対する障害となるのである。」(140)

●結論 意識と無意識

「つまり、彼ら下層プロレタリアは、状況の真実を知らないが、その真実を実践しているのであり、言い換えれば、実践することにおいてのみ、その真実を語るのである。」(155)
→無自覚的な実践(プラチック)が構造を支え、再生産させる。

「そして、現在の状況に対する反逆が合理的で明示的な目的に方向づけれられるようになるには、目的についての合理的意識の形成のための経済的条件がなければならない。つまり、現在の秩序が、それ自体、自らの秩序の消滅の可能性を備えており、その秩序の消滅を企図することの出来る行為主体を生産しなければならないのである。」(157)

●縦走する社会学的実践 訳者解説にかえて

ブルデュー「伝統的な民俗学の方法は、充分なものではなかったので、私は、統計的手法と民俗学的方法とを、組み合わせて、研究しようとしたわけです。」(173)


その他雑記
・本書はやたら句点が入る。「訳者解説」の部分も、不必要な場所でくどいほど句点が入る。『日本語の作文技法』が必要だと思った。

・アルジェリアにすむ下層プロレタリアートの生活世界を事細かに描き、なおかつ統計的手法も用いるブルデューの研究の鮮やかさを見習いたい。

追記

 夢を見るのは子どもと〈現実的な夢を見られない〉大人のためのものであるようだ。本書ではアルジェリアの下層プロレタリアートが〈自分の子どもは弁護士か医者にしたい〉という「呪術的な願望」をしている旨が描かれている。「呪術的な願望は、未来をもたぬ人々に固有の未来なのだ。」(121)。この皮肉さが印象に残った。

2011年2月13日日曜日

橋本治(2001)、『20世紀(下)』、ちくま文庫、2004。

 日本の(そして人びとの)生きた「20世紀」を、各年ごとに見ていく書籍。年ごとの常識や認識枠ぐみのちがい(つまり当時の人びとの生活世界の変化)がなかなかに興味深い。例えば、京王線は1913年に開通するが、東京の郊外化が現実になるのは、つまり「通勤圏として開けるのは、1923年の関東大震災で都心部が壊滅してしまった後」(上137)なのである。1907年開通の渋谷ー玉川を繋ぐ玉電も、「これで玉川の砂利を運び、そのついでに人間も運んだ」(上138)ものであった。
 興味深い点を下から引用。

「「駅前にスーパーがある」と「不便ながらも」を一対の条件のようにして、日本人の住宅エリアは広がって行く。戦後の新しい生活スタイルは、スーパーマーケットと共に、かつての生活習慣を保ったままの住宅街から離れたところで確立された。」(下 80:「1958」)

「1969年に、「思想」はその役割を終えた。「思想」は「豊かさ」を作り、その豊かさの中で「思想」は不必要になった。1970年から始まるのは、「思想」を必要としない「大衆の時代」なのである。時代の中で生まれた「思想」は、まだ続く時間の中で古くなり、時代というものに追い越されて行った。それを自覚しない「思想」の信奉者は痙攣し、その責任と役割を「大衆」にバトンタッチした「思想」は、ゆっくりと終焉を迎えて行く。」(下148:「1969」)

 橋本治の本は幾つか読んでいるが、内田樹の本を一定数読んでから見てみると、内田の文体がいかに橋本の影響を受けているか、「なんとなく」(こういう書き方、ということです)分かってくる。
 他に1960年代が週刊誌の時代だった(1961年に週刊誌が17誌も増えた)ことなど、その時代に生きていない「若手」として非常に興味深い内容が多い本だった。
 本書には言及はないが、オイルショックを「産業構造の変化」で対応できた日本は1974-75年をマイナス成長にするだけで1992年のバブル崩壊まで常に右肩上がりの成長をしていたのであった。その分、大学と企業のつながりは深く、大学生の就職難は問題化しなかった。一方、オイルショックを乗り越えられなかったヨーロッパ各国は、そこから恒常的に若者(大学生含)の就職難が問題化することになった。日本はいわば欧州の認識と遅れて同調したわけだ。現在の日本の就職活動をめぐる問題を見ていると、どうも一国内に終始しており、「ヨーロッパもそうなのだ」という伝え方をしていない。他国に習う発想が、こと就職活動については行われていない。

藤田英典(1998):志水宏吉編著『教育のエスノグラフィー』、嵯峨野書院。

p54現象学的エスノグラフィー
「後期フッサールやA・シュッツが説いたように、〈生活世界〉は日常生活者によって意味付与され、枠付けられて展開しているのであるから、その意味付与的な行為とその行為を通じて構築され展開している間主観的な意味世界を記述し考察すると言う意味である。また、P・ブルデューの見方によれば、社会は生活者のハビトゥス(行動産出原理としての身体化された心性)によって意味付与され、構造化されており、その構造は実践(慣習的・戦略的行動)のなかに顕現し、かつ、実践を枠付けているのであるから、その実践の展開過程を記述し考察することにより文化社会・生活世界やそこでの諸活動の特徴(構造・機能・意味・性質)を明らかにするというのが、ここでいう現象学的アプローチである。」

2011年2月11日金曜日

真木悠介(1977):『気流の鳴る音 交響するコミューン』、筑摩書房。

 70年代的思想の影響が如実に現れている本。当時はコミューンや疎外論が恐ろしく力を持っていた。時代が生んだ本と言えるが、当時を知らない私としてはかえって新鮮さを覚える本であった。

「「世界」と〈世界〉のちがいについては、それ自体本文の全体を前提するので、あらかじめ正確に記述することはできない。とりあえずこうのべておこう。われわれは「世界」の中に生きている。けれども「世界」は一つではなく、無数の「世界」が存在している。「世界」はいわば、〈世界〉そのものの中にうかぶ島のようなものだ。けれどもこの島の中には、〈世界〉の中のあらゆる項目をとりこむことができる。夜露が満点の星を宿すように、「世界」は〈世界〉のすべてを映す。」(31-32)

「目の世界が唯一の「客観的な」世界であるという偏見が、われわれの世界にあるからだ。われわれの文明はまずなによりも目の文明、目に依存する文明だ。」(82)
「重要なのは見ないことではなく、目に疎外されないことだ。」(85)

 カスタネダという老人の教え
「人間が暗闇の中で走りたくなるのは、必ずしも恐怖に駆られてではなく、「しないこと」を知ってよろこびにわいている身体の、きわめて自然な反応でもありうるのだと言う。」(89)

理系と文系の対話

久々に弟とメールした。その際のやりとりが興味深かったので、少しここに書こうと思う。

・・・・・・・

まずは引用から。

> あれからバスの中で考察したところ、自分は、人間が他の物質や生物とは異なる特別な存在だとする理論が嫌いなのだという結論に至りました。
> 霊魂や前世来世、インテリジェントデザイン、性善説、観測宇宙論といった理論は、人間を特別な存在だと設定する必要があるので、人間もあくまで動物であり自然現象の一部だとする自分の考え方と合わなかったのだと思います。


ここは私も同意見。全ては相対化のまなざしで見るべきであります。

> それと、「観測者が存在しないと宇宙は存在しないも同然」という考え方は、マクロな世界で適用すると哲学的な話になり、反証不可な上に、そこから何も産み出せないという悪質なものだと思います。そもそもの発想の起点が異なるので、物理学とは比較しようがないです。
> こうしてみると、人間を主体として見るかどうかに文系と理系の違いがあるように思います。
> まあ、これはあくまで今の自分が思うことであり、今後に変化することがあります。
> 支離滅裂ですみません、ただ、誰かに言いたかったので…
>
>

実は文系も50年代あたりは理系的だったんですよ。サルトルとかの実存主義がそれですね。知識人の存在意義(レゾンでーテル)は一体何かを考え、今やるべきことを見過ごすやつは「自己反省すべき!」だ、などと言う(今から見ると)「青い」考え方でした。

自分の実存(ここでは「自分という存在があること」とでも考えてください)の絶対性を見るあり方です。これがレヴィ=ストロースらの「構造主義」で完膚なきまでに否定されるわけです。だって、人間ってそんなにすごい存在じゃないですもん。

ところで、実存主義の側からの構造主義批判として「構造はデモに行かない」と黒板に書いてデモに行った高等学校生(フランスではエリートにあたります)の話が時々持ち出されます。「構造主義者は人間を超えた〈構造〉が人間を動かすとか言うけど、〈構造〉は何かアクションできるのかい?
俺は自由意志に基づいてデモに参加できるんだぜ? 俺のどこが構造に従っていると言えるんだよ」ということを示す板書であったわけです。
…これ、よくよく考えると「戦争反対のデモに行くべき」という「構造」にまぎれもなくこの高校生が突き動かされてるだけ、とも言えるんじゃないでしょうか(桜井哲夫のフーコー論の受け売り)。

人間の自由意思や、人間の主観によって物理的世界を観測しようとする場合、とりあえず自分の「主観」の正しさを信じることになるわけです。ですが、その主観は「構造」を離れることも、あるいは「感情」を離れることもできません(実験室で「ああ、腹減った。もういいじゃん、これで観測結果にしとこうよ」という場合、客観性は担保されるのでしょうか?)。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーの有名な「客観性」論文では(岩波文庫で読めます)、自分の認識(主観のことです)が自分の属性や「構造」に影響を受けているのを認識したうえで、それらの影響が表れない程度まで徹底して現象を記述することで、客観性を担保することを訴えました。実際、私のいる社会学の領域では、学者自身が「社会」のまぎれもない一員ですから、「社会」の「構造」の影響をモロにうけつつ、にもかかわらず「社会」を記述しようというかなりムチャなことをしています。これも、ウェーバーの客観性の基準(厳密にはマンハイムのいう「存在の被拘束性」の基準でもあります)を守ることで「それって、君が思うだけで客観的でないんじゃないの」という批判に答えようとしているのであります。

理系はこの人間の「主観」の問題をあんまり考えてないみたいですね。前に話したクリプキのグル―みたいな概念が実際に存在すると仮定すると、原子やなんかの厳密な認識なんて、出来ないですね。でも、このことは物理学が客観性を満たしていない、ということではないのです。「近代」科学のやり方で十分にメリットはあったからです。ですが、学者の主観性を想定したうえで学問を進めると、さらに物理学が発展すると思います(し、すでにそうなっているのかもしれません)。

メールの返信になっていれば幸いです。

2011年2月10日木曜日

Bourdieu, Pierre/Wacquant,Loïc.J.D(2007):水島和則訳『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』、藤原書店、2007。

 ブルデュー思想を、ロイック・ヴァカンが整理・編集した著作集。読書上のメモの抜粋集としてここに記す。

第Ⅰ部 社会的実践の理論に向けて(ロイック・ヴァカン) 

「ブルデューは方法論的一元論のあらゆる形態、構造もしくは行為主体、システムもしくは行為者、集団もしくは個人のいずれかに存在論的優先性を主張する考え方に反対し、関係というものの優先性を主張する。彼によれば、二項対立のどちらかを選ばせる考え方は社会的リアリティについての常識レベルの見方を反映しており、社会学はそうした見方を取り除かなければならない。」(34)

36頁より:「ハビトゥスと界がこれら諸関係の結び目を示す鍵概念である」

「ハビトゥスは構造を形成するメカニズムであり、行為者の内側から作用する。」(38)

「「実践感覚」はあらかじめ知っている。つまり、現在の状態のなかに、界がはらんでいる未来の状態を読み取る。過去、現在と未来はハビトゥスのなかでお互いに交叉し、相互浸透しているからである。」(43)

*「実践感覚」と書いた後、[勘]と記述されている箇所があった。実戦感覚、つまりハビトゥスは「勘」ということであるのかと気づいた。

「グラムシがすでに理解していたように、科学こそまさに、きわめて政治的な活動なのである。」(78)

「社会学の使命は、行為を規定している制約要因の世界を再構成することによって、行為がなぜなされたか、その「必然性を示す」ことであり、それらの行為を正当化することなく、恣意性から引き離すことである。」(81)

「ブルデューにとって、真の知識人は時の権力、経済的ならびに政治的権力の介入から独立していることによって定義される。」(90)

*アメリカのダウンタウンのボクシングジムの事例を出すヴァカン。このあたりは、彼のエスノメソドロジー実践を示している。

「結論としていえば、それが示唆しているのはブルデューの社会学が彼がこの言葉に与えた意味でのひとつの政治として読まれるべきだということだ。つまり、われわれを構築したものの見方を変える企てとしてである。それゆえに社会学は、合理的に、そして人間的に、社会学を、社会を、そして究極的にはわれわれの自己を形づくることができるのだ。」(93)


第Ⅱ部 リフレキスヴ・ソシオロジーの目的(ヴァカンの質問にブルデューが答える)

「あらゆる社会学は歴史学的であり、あらゆる歴史学は社会学的であるべきなんです。事実、私の提案している界の理論の機能のひとつは、再生産と変動、静態と動態、あるいは構造と歴史の間の対立を消滅させることです。」(124)

「界という観点から考えるということは、関係論的に考えるということです。」(130)
「ヘーゲルの有名な言葉をもじって、実在するものは関係であるといってもいいでしょうね。社会学的世界の中に存在するものは、関係です。行為者同士の相互行為でも間主観的な結びつきでもなく、マルクスがいったように「個人の意識や意志からは独立して」存在する客観的諸関係なのです。」(131)

「界の概念の主な利点は、それぞれの界について、境界は何か、他の界とどのように「接合」されているのか、といった点をつねに自問するよう強いることです。それは実証主義的経験主義の理論不在に陥ることではなりません。現実に対して立てられる、繰り返し立ち戻ってくる問いの体系を扱うということです。」(147)

「ハビトゥスとは知覚図式、評価図式、行為図式の体系、持続が可能で組み替えの可能な体系ですが、この体系は社会的なるものが身体(あるいは生物学的個体)のなかに成立した結果です。界は、さまざまな客観的関係からなる体系ですが、この体系は社会的なるものが、物のなかに、あるいは物理的対象とほぼ同じリアリティを有するメカニズムのなかに成立した産物です。さらにはいうまでもなく、社会科学の対象はこの[リアリティと界との]関係から生まれたものすべて、すなわち社会的実践や表象、あるいはそれらが知覚され評価されるリアリティの形態として現れたものである界をも含みます。」(168)

「ハビトゥスは特定の状況とのかかわりのなかでしか現れません。」(177)

「私の研究活動においては、もっとも重要だと私が考える理論的アイディアを見つけだしたのも、聞き取り調査を実施したり質問票の集計をしたりすることによってだったのです。」(208)

「保護されていた結婚制度から「自由交換」への移行は犠牲をつくり出します。」(214)
→現在の「婚活」の発想を、ブルデューは1989年の時点で指摘していた。

「社会学者とは、街頭に出かけていって誰にでもインタビューをし、人々の話に耳を傾け人々から学ぼうとする人たちです。これはソクラテスがいつもやっていたことです。」(256)

*第Ⅱ部ではブルデューのハビトゥスや界の概念がいかに安易に解釈され、誤解されてきたかを示している。そして、その誤解を訂正する内容のやり取りが多く行われている。

第Ⅲ部 リフレクシヴ・ソシオロジーの実践

「私がみなさんに教え込みたいと願っている姿勢のなかに、研究を合理的計画としてとらえる能力があります。研究を一種の神秘的な探究として大げさに語るのは、自分を安心させるためなのでしょうが、逆に恐れや不安を大きくするだけです。研究を合理的な企てとみる現実主義の姿勢は(…)はるかに深い失望を味わうことのないよう身を守るための、おそらくは最良の方法であり唯一の方法なのです。」(271-272)
→だからこそ「研究者が淡々と自分の仕事をこなしていく」ことを否定的にみないのが重要である。ウェーバーの『職業としての学問』にあった「日々の仕事(ザッヘ)へ帰れ」も、要するに淡々と研究することであろう。

「他のどんな思想家以上に社会学者にとっては、自分自身の思考を思考されざる状態に放置しておけば、自分が考えているつもりの当の対象に道具として使えてしまうことになるのです。」(293)
→これはマンハイムの「存在の被拘束性」ということとしても説明できる。また、ウェーバーの「客観性」論文も、同様の内容である。研究者自身の認識枠組みやハビトゥス・界に自覚的であることが必要だと名高い社会学者たちは語っているといえる。

訳者あとがき

「相手を対象化しようとうる動機(社会学に惹かれる人間につきまとう動機)それ自体が当人に自覚されない限り、人は相手について語っているつもりでつねに自分について、あるいはその相手と自分との関係について語ってしまう、という洞察に立脚するものだったのである。」(338)

「誤解を恐れずにいえばブルデューの学問的営為を「異文化体験の現象学」と形容できるのではないだろうか。ここで「現象学」という言葉は、本書で用いられる客観主義と対置されている主観主義という意味ではなく、志向性という概念を軸に「知る者―知られる者」のあいだにある「関係」を考察の焦点とするという本来の意味で用いている。」(339)

*本書冒頭ではヴァカンが「この本にはブルデューの著書のダイジェストでもなければ、ブルデューの社会学の体系的解説もふくまれていない」(10)と断わりを述べている。しかし、結果的に本書がブルデュー入門になっているのは興味深い点である。また、ブルデューの学問観や学者に求める姿勢が非常に参考になる。

*本書は竹内洋『社会学の名著30』のトリを飾るものである。

危ない栞

この栞の示す状況はなかなかにリスクがある。

2011年2月6日日曜日

シャドウ・ワークと冷却作用Cooling-Out(ゴフマン)の連結について。

 人びとが現在の体制を支える形で行う他律労働。それがシャドウ・ワーク(イリイチ)である。これが学歴社会と繋がった際、竹内洋がいう形の冷却作用が成立するのではないか。
 『臨床社会学のすすめ』で大村英昭がいうように、「鎮欲のエートス」(大村2000 :231)が冷却作用にはある。これはイリイチのいうシャドウ・ワークの一つの形ではないか。
 どちらも人を他律的に働きかけるという共通点がある。
 この構造を一体化させられればなかなか興味深い気がするが、さてどうしようか。

今週の早稲田教会

相変わらずポップな早稲田教会の公演テーマ。

2011年2月3日木曜日

本を読むという、「主体」の行為

 本を読むとき、私は本の「装飾」をはぎ取る(=stripping)。本のカバー、帯(まさに裸にしているわけだ)、「愛読者カード」や新刊紹介文を投げ捨て・打ち破り・テープで本にとめている。
 いわば、食材たる本を消化可能な状態にまで下ごしらえをするわけだ。松岡正剛が本年(2010年)11月の「週刊読書人」インタビューで書いていたが、本を読むのはグルメや映画・演劇同様の行為である。後生大事に本を扱うのでなく、本をエンタテイメントとして享受可能な状態にまで変化(=メタモルフォーゼ)させる必要があるのである。
 私は本を「他者」の比喩で扱っている。他者を理解可能な形態にまで変形あるいは変化させるわけだ。これは通常、主体である「私」の変容モデルにおいて示すこともできるが、本においては「他者」自体の変容モデルでいうことができる。松岡がいうのは読書行為における「編集」作業の重要性である。本のカバーを捨てるのも、松岡のいう「編集」である。
 他者を理解可能な形態に変形させることは、「オリエンタリズム」(サイード)でもある。理解不可能な形態であったものを、「私」という主体が理解可能な状態にすることになるわけであるためだ。しかし、読書行為についてまでオリエンタリズムを敷衍させることは無理があるだろう。
 書籍はいわば「恋人」である。肝心な部分は装いに隠され、「主体」が少しずつ核心に近づいていくしかない。他者たる書物は「謎」めいた主体でもある。strippingする「楽しみ」は「恋人」にもあるし、「書籍」にもあると言えるであろう。このことを「まどろっこしい」と感じるか、「楽しい」と感じるかで、本を恋人にできるか否かが決まってくる。

2011年2月1日火曜日

男の世界地図

通販カタログより。

馬鹿馬鹿しい。