2009年4月2日木曜日

『フリースクールからの政策提言』を読む①

1、はじめに

 フリースクールは近代教育制度に対して懐疑的まなざしを持つ。「画一的・均一・規律的」な近代教育制度に対し、フリースクールは「多様性・自由」を重視する。目指すものが違うため、フリースクールについて調べるうちに、近代教育の〈気持ち悪さ〉が見えてくる。自分が自明視していた近代教育の短所が現れるのだ。
 近代教育制度とフリースクール。両者は違う価値観で動いている。従来、近代教育に慣れ親しんだ人びとがフリースクールについて何かを語ることはあっても、フリースクール関係者が近代教育制度に対して何かを語ることはあまりなかった。あったとしても、それが政策提言としてまとめられることは皆無であった。
 本年1月11日から12日にかけて、第1回 日本フリースクール大会が国立オリンピックセンターで開催された。略称をJDEC(ジェイデック)という。この中で『フリースクールからの政策提言』(以下『提言』)が採択された。偶然ではあるが、私もこの場に参加していた(といっても、採択された12日ではなく、一般公開していた11日のみであった)。
 私はこの『提言』がいかなる理由で採択され、そしてどのような内容を持ち、どのように活用されていくのかについて調べてみようと考え、この研究を行うことにした。

2、提言の目的と背景

A 提言の目的

 まずこの提言は何の為に書かれたものであるのか。「はじめに」を見てみる。
言うまでもなく、子どもの存在は多様である。その多様な子どもたちを受け入れる教育の場が必要であることは論を待たない。子どもは多様であるということを踏まえ、世界的にも、多様な教育の場を社会が認め支えていく流れがある。それでは、私たちの社会ではどのように多様な子どもたちを受入れる場を持っていくべきであるのかを真剣に問わなければならない。また、そのような場を親・市民の努力に頼るだけでなく、社会が支える仕組みを整える必要がある。
 この部分には⑴子どもは多様であるということ、⑵⑴ゆえに多様な教育の場を社会が認めるべきこと、⑶親・市民の努力だけでなく、社会が⑵の多様な教育を支える仕組みを作るべきこと、という3点が書かれている。

B『提言』の出された背景

 『提言』より引用する。
フリースクール等の活動が日本でさらに広がり、 深まるよう、2009 年 1 月、 JDEC( 日本フリースクール大会 ) をはじめて開催することになった。これにあわせて、私たちのフリースクール等での活動から見た教育や子どもの状況を改善すべく、すぐに実現にむけて 取り組むべきことをまとめ採択したものが、この提言である。
 フリースクール等の活動の拡大のために書かれたものである。朝日新聞朝刊2009年1月19日付けには「多様な学びの場を学校と並んで教育制度に位置づけ、公的に支援することを求める政策提言」と書かれている。

我慢しないこと。内田樹とフリースクール。

内田樹は「ぼく自身はぜんぜん『我慢』というものをしない人間です」(角川文庫『疲れすぎて眠れぬ夜のために』p31)という。そのため高校を中退して家を飛び出し、受験失敗後には再び家で大検の勉強をし、そのまま大学の寮に移り住んだ。

内田同様、フリースクール関係者も「我慢をしないこと」を重視する。
どのような不登校の始まりでも、
「ゆっくり休む」「学校は行こうとしない」
これがあなたを一番楽にします。
これは東京シューレのwebにある言葉である。ちなみにアドレスは、http://www.shure.or.jp/futoko/iroiro/page4.htm。

現代人は「我慢をすること」「忍耐すること」を重視する。
内田はそれに対し批判的だ。先の本から引用する。

今の自分の状態が分からなくなって、身体が悲鳴をあげていても、それに耳を傾けずに、わずかばかりの欲望の実現のためには耐えきれないほどの負荷を自分の身体にかけることのできる人間は、「私」が極端に縮んでいるという意味では「むかつく若者」のお仲間です。(p18)
続けて内田は、最近の家庭での教育の仕方が「ある条件をクリアーできたら(きちんと排便ができたら、言葉が話せたら、勉強ができたら、**大学に受かったら・・・)、お前を子どもとして承認する、その条件を満たせないようなものは私の子どもとしては承認しない」(p18)ものになっていないか、と問題提起をする。結果的に、無条件に自己を肯定するということが置きづらくなる。

引用を続ける。

繰り返し言うように、人間が使える心身の資源は「有限」です。限度を超えて使用すると、必ずシステム全体に影響が出て、一番弱いところから切れてきます。
「不愉快な人間関係に耐える」というのは、人間が受ける精神的ダメージの中でももっとも破壊的なものの一つです。できるだけすみやかにそのような関係からは逃れることが必須です。(p24)


よく考えると、いじめられるのが分かっていながら〈がんばって〉登校してしまう小中学生もそうだ。不登校を〈悪いことだ〉と思ってしまい、「不愉快な人間関係に耐え」てしまう。結果、心身の限界が来て引きこもったり、鬱になってしまう。

内田の文章からの2つの引用をした。ここで述べられていることは、不登校の子どものメンタリティーとも符合するのではないか。

追記。
…それにしても、日々思うことや考えたこと・発見したこと・学んでいたことをテーマに分けてブログに書いていく。そうするだけで自然と卒論が完成していくような気がしてきた(そうだといいな、という願望とともに)。

さらに追記(09年7月26日未明)。
 内田樹にハマったころのこの文章。いま私は宮台に夢中である。宮台の著書『14歳からの社会学』にも、本稿にある「承認」論が描かれている。
 内田の文章から「ある条件をクリアーできたら(きちんと排便ができたら、言葉が話せたら、勉強ができたら、**大学に受かったら・・・)、お前を子どもとして承認する、その条件を満たせないようなものは私の子どもとしては承認しない」という部分を本稿で引用していた。内田のいう無条件の承認が行われていた時代は過去のものとなった。それを受ける形で、宮台は〈どうすれば承認されるようになるか〉を示している。
 宮台は『14歳からの〜』中で「試行錯誤」を行うことが必要、と語る。
《他者たちを前にした「試行錯誤」で少しずつ得た「承認」が、「尊厳」つまり「自分はOK」の感覚をあたえてくれる》(32頁)
 これは面倒くさいことだ。けれどこれをせずに歳をとってしまうと、「死んだときに誰も悲しんでくれる人がいない」という悲劇を味わうこととなる。「承認」され「尊厳」を得る努力を怠ると、不幸になってしまうのだ。
 それゆえ宮台は〈幸せになりたいなら、勉強だけしていればいいわけじゃない〉と本書で伝えているのだ。もはや勉強だけ出来れば幸せになれる時代は終わったのだ。
 『14歳からの〜』を読み、私の物の見方が180度変わった。パラダイム転換とでも呼ぶべきか。大学でろくに勉強をしない人間を無意識下でバカにしていた自分の方が、実はバカであったことに気づいたのだ。勉強をしていると、いまの社会では褒められ、評価される。けれど、その評価は未来に渡ってのものではない。現体制で褒められる言動が、これからの社会でも同じ評価を受けるわけではないのだ。いまの社会では勉強だけすることに評価が与えられる。けれど宮台のいう新たな社会では、勉強よりも他者から「承認」される能力・技術が必要となる。「大学でろくに勉強をしない人間」は、実は来るべき社会の「勝者」となる可能性を秘めているかもしれないのだ。「パラダイム転換」と私が言ったのはこの点だ。
 勉強だけやるのはもうやめよう。寺山修司ではないが、『書を捨てよ町へ出よう』だ。

フリースクール全国ネットワークの提言。

本年1月12日。フリースクール全国ネットワークが提言を出した。

朝日新聞の記事にはこうある。

各地のフリースクールやフリースペースなど67団体からなるNPO法人「フリースクール全国ネットワーク」は、多様な学びの場を学校と並んで教育制度に位置づけ、公的に支援することを求める政策提言を採択した。
詳しくは下を参照。
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200901180174.html
ここも参考になる。http://blogs.yahoo.co.jp/mytown_8/24887111.html

重要なのは、フリースクールの側が「公的に支援を受けること」を要望した、という点だろう。フリースクールの独自性を守るため体制から離れる、というよりも〈支援を受けるが、魂はとられない〉方法をとろうとしている。

なお提言はこちらのフリースクール全国ネットワークwebサイトからpdf版をダウンロードできる。


ところで、来週発表のゼミで何をしたらいいか考えあぐねている。

そのため、この『フリースクールからの政策提言』を検討して見たいと思う。
提言の考察と要約を発表し、「フリースクールの立場から、現存の教育制度への提言を出す意味」を調べるのだ。

歴史的な提言である(と思う)ので、意味のないことはないだろう。

2009年3月31日火曜日

こいのぼり

落書きしないでね

これは落書きに非ずして何なのだ?

EXILE

交差点で停止中、EXILEのデコトラが騒音を出しつつ新曲を流していた。

間違ってもEXILEのCDだけは買わないことを決意した。

私がしかめ面をしているまわりで、人々は気色満面にEXILEのトラックを見つめていた。

O先生からのコメント。フリースクールのあるべき姿。

国民国家なんか永遠に続くわけありません。でも、だからといって、今すぐ廃絶するわけにもゆかない。いずれ終るけれど、今はまだある。社会制度というのは全部そういうものです。だから、どう手直しして、次の制度ができるまで使い延ばすか、どこまで腐ったら「次」と取り替えるか、というふうに議論は進むべきなのです。(内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』p209)
先日、大学のゼミでO先生にコメントをいただいた。ちなみにその際、私の行った発表はこちら。

「フリースクールは制度化された教育からフリーということだ。教育にはいろいろな形態があっていい。日本の学校は水道の数からして全て決まっている」
「日本にはフリースクールといっても、大きく2つの流れがある。東京シューレのようにアメリカ的なフリースクールと、シュタイナーやニイルなどの思想家が考えだしたフリースクールである。多様な選択肢を提示するところに、フリースクールの意義はある」
「いずれ公教育は無くなる。もともと日本の公教育は100年ほどの歴史しかない。国が造ったものは、いずれ壊れる。国家も然りで、200年ももたないのだ。日本はまだだが、アメリカは建国200年以上が過ぎ、だいぶ壊れかかってきている」
「制度を超えるものがないといけない。だから僕はフリースクールは一つの挑戦だと考えている。国や地方公共団体に頼らず、自分たちが賢くなるという動きがフリースクールの発想の中にある」
「選択肢があることが社会の豊かさの証しである。フリースクールもこれを目指していくといい」
「フリースクールが公的支援を使うことよりも、そういったものを一切なしにして、寄付やボランティアでフリースクールが成立することが大切だ。いまフリースクールに関わって社会に出た人がどんどん増えている。そういった人たちが広まったとき、フリースクールへのサポートが大きくなるのではないか」

 やはりO先生は偉大だと実感した。
 最近読んだ内田樹の文章にもあった〈社会制度は永続しない〉という発想。オルタナティブスクールの研究を志すものとしては自覚していかねばならぬ。

内田樹に読んで、読まれて。

「この人しかいない!」
そんな作家に出会ったとき、私はその人の書を貪り読む。自分にとっての「バーチャル師」(内田樹ならこういいますね)を見つけたときである。

見つけたならば、ほぼ毎日のようにその人の本を読みあさる。そのうちに、「同じことを何度も言うのだな」と感じてくる。おそらく、私の脳内に「バーチャル師」が居座り始めるのだろう。

齋藤孝に始まり、野口悠紀夫(以上、大学2年生まで)・灰谷健次郎(大学3年生まで。しかし灰谷の本はかなり読んだものだ)・そして内田樹(現在進行形)に行き着いた。

内田との出会いは『寝ながら学べる構造主義』。あざやかな説明に感銘し、自分も文章を書いた(『高校生と語るポストモダン』)。ほとんど内田の受け売りに終った観もある。

私はさきほど『子どもは判ってくれない』(文集文庫)を読み終えた。いささかの衒学趣味(やたらにカタカナ言葉を使うのは、内田の嫌う石原都知事と同じニオイを感じてしまう)を我慢しながらではあるが。

この本からのメッセージは要言すれば次の二つの命題に帰しうるであろう。
一つは、「話を複雑なままにしておく方が、話を簡単にするより『話が早い』(ことがある)」。
いま一つは、「何かが『分かった』と誤認することによってもたらされる災禍は、何かが『分からない』と正直に申告することによってもたらされる災禍より有害である(ことが多いい)」。(pp329~330)


ちなみに、私の所蔵する内田作品は下の通りである。市場に出てるくらいは全て読んでしまいたいと思う。内田の文章は彼のブログ『内田樹の研究室』に死ぬほど書かれているのだ。市場に出ていない彼の文章すらある。

『寝ながら学べる構造主義』(三読)
『先生はえらい』(二読)
『街場の教育論』(二読)
『大人は愉しい』(一読)
『子どもは判ってくれない』(一読)
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(一読)
『知に働けば蔵が建つ』(一読)
『私の身体は頭がいい』(挑戦中)
『狼少年のパラドクス』(一読)
『こんな日本でよかったね』(一読)
『下流思考』(一読)


追記
●このブログのようにやたら( )でツッコミを入れるのも、内田樹が書籍でやっていることの受け売りである。
●『街場の教育論』を手に取ったのは『R25』に内田のインタビューが掲載されていたからだ。そこから、次々と内田「先生」の本を読むようになっていたのである。
●そのうち、内田樹論を書こう。「師弟論」の観点から。

2009年3月30日月曜日

2枚の写真(2)

2枚の写真(1)

眼鏡

本日より、メガネに復帰。

よく「タバコを始める」という言葉を聞く。それよりは価値的な行為だろう。

眼鏡をかけて見える世界。裸眼とはまったく違う。看板の見え方、人の見え方。鏡を通しての自分の姿。

眼鏡をかけて見える世界と、裸眼の世界。同じはずなのだが、少し違って見える。余計なものがみえてしまう。

モンゴルの大草原などで育った人の視力は6.0であることもあるようだ。そんな人たちの見る世界はゆたかな世界なのだろうか。少なくとも、東京で視力が「よすぎる」と無駄な看板/人ごみで吐き気を催す。

雑念集

●一日中/学問やって/過ごしたい/家に行けども/お留守のときは

●人間一人の小さな動きが、歴史を作っているのではないか。ちょうど、トインビーの「水底の小さな動き」のように。

●ジョセフ・ナイの言葉「リーダーは天性の資質だけで深まるのではなく、主としてつくられるものであり、リーダー・シップは学習可能である」

●一人で演劇にいくと寂しい。自分が舞台に立ちたくなるからだ。それは一体何故だろう?

●演劇は常に暗闇になるところから始まる。

●劇場の広大な空間に一人座っている小宇宙としての「私」。

●「学校に感じる気持ち悪さは何だろうか」。私がフリースクールを大学院で研究したい理由。

●小林秀雄の『考えるヒント』に、〈書く前に内容を考えるのではなく、書きながら考える〉とあった。ブログを書く身として共感した。

●メガネをつけると、まるで写真のように夜景が見える。

●「どうして〜何だと思う?」と、相手の発言から相手の本当の弱点を気づかせていくという対話法があることをYさんとの会話で実感した。

悪について

他人の真心/思いを感じられないこと。これは悪だ。

今日、後輩のG君の合唱祭にいった。不覚にも泣いてしまった。

G君の合唱祭への意気込みについては、何度も何度も聞いていた。会うたびに彼はそのことを私に語ってくれたのである。

「来てくれた人を、必ず皆元気にします」

彼はそう決意していた。


今回、このG君の思いを私が聞いていたからこそ、このように感動を受けたのであろうと思う。けれど、仮に私が一流の人間であるならば、G君の話を聞かずとも感動できたのかもしれない。

私の考える一流の人間とは、「他者への想像力をもてる人」である。

自分が見ていないところで、他者は何を考えているのか。何をしているのか。これについて想像できるということだ。

追記

私は劇場でアンケートを求められると何故かしら酷評してしまう癖がある。

「こんな歌、人に聞かせるな」とか、「途中で寝てしまいました」とか。

意味なく酷評するのは悪に通ずる。


2009年3月29日日曜日

劇場にて。

劇場においては我々は謙虚になる。黙って席に座り、携帯も切る。

劇場空間の公共性があれば、学校が騒がしくともいいのではないか。

ファウストな夜

昨夜、劇団地上3mmの『ファウスト 第一部』を見に行った。

戯曲を黙読するのと役者が演じるのは全く趣が違っていた。

ファウストの苦悩に学者を目指す自分としては「将来こうなるのだろうか」と感じた。

初めに行為ありき、だ。今日も動こう。

今日は後輩の合唱を聴きに行く。

2009年3月27日金曜日

王子駅にて。雑念集。

駅前の白い服を着た老人が、カーネルサンダースに見えた。

乗り換えるべき駅が、馬込か駒込か、分からなかった。

『がんばらない』の鎌田實が「みかんの皮が剥けるようになったら大人だ」と言っていたが、知らないことが多すぎる自分はまだ「みかんの皮が剥けない」子どもなんだと思った。

スペアキー

早稲田駅前の鍵屋さんで、我が家のスペアキーを作った。

オリジナルを元にして、おじさんが機械で削る。その時間、3分弱。

あっという間にスペアキーができた。

不思議なことに、スペアの方がオリジナルのキーよりも鍵の開閉が楽なのだ。今ではもっぱらコピーを愛用するようになった。オリジナルの方がスペアになったのだ。

 スペア(コピー)の方が、オリジナルよりも価値的。
 考えてみれば不思議だが、現実社会でもオリジナルよりコピーの方が扱いやすいことが多いのではないか。タブローに描かれたモナリザも、印刷され人びとの手元に美術集として掲載された方が多くの人に見てもらえる。多くの人が芸術に親しめる。案外、遠くにあるものよりも手身近なもののほうが価値を感じるようだ。
 昨日、やはり早稲田駅前の あゆみBOOKS で『叶恭子写真集』が売られているのを目にしたが、これも写真で鑑賞する方がオリジナルの叶女史よりも美しいのではないのだろうか。
 モーセがシナイ山にいるあいだ、イスラエルの民衆は「遠くの目に見えない神より、近くの神がいい」といって金の子牛を作った。オリジナルの神よりコピーの方が価値的だと感じたのだ。
 コピーがあるにもかかわらず、「オリジナルの方が価値が高い」とされるのは何故だろう。コピー/オリジナル問題は、オリジナルのもつカリスマ性を認知されるか否かにかかってくる。



 話は変わるが、私の座右の書『小論文を学ぶ』には、コピー/オリジナル論が出ている。そこには「オリジナルとコピーの境界がなくなるとき、それはオリジナルの権威も失墜することを意味する」(p110)とある。
「オリジナル」と「コピー」が融解して何がホンモノで何がニセモノであるかわからないような世界のありかたを、フランスの社会学者のボードリヤールというひとは、「シミュラークル」という概念で言い表そうとしているが、現代はハイパー・リアルな「シミュラークル」化した世界になろうとしているといっていいだろう。(p110)

 作者の長尾氏はオリジナル/コピーが対等であるというシミュラークルを元に議論をしている。
 けれどこの論に【時にはコピーの方が価値が高いことがある】という事実についても含めて、考察をすべきなのかもしれない。
 私の家の鍵のように。

刈谷剛彦『学校って何だろう 教育の社会学入門』

 いい学校に入学できたのは、自分が一生懸命受験勉強をしたせいだけではありません。受験勉強が許される境遇にあったことも、学校での勉強で有利になる家庭に育ったことも、見えないところで貢献しているのです。
 ところが、個人の努力が強調される日本の社会では、どんな家庭に生まれたかではなく、自分がどれだけがんばったのかが、成功のもとだと考えられています。それだけ、自分の成功を自分だけのものだと考えやすいのです。しかし、実際には、どんな家庭に生まれたかが、学校での成功にある程度影響しています。(pp218~219)


 松下幸之助は例外にすぎない。予備校教師で人気の吉野氏も、例外である。ほとんどは①大学に行くのが当然視される環境で、②周囲にも大学にいくことの賛同を受けていて、③塾や予備校・参考書代を捻出する経済的余裕があり、④勉強しやすい環境が整備されている、という条件に適う者のみがいわゆる一流大学に合格するのだ。「自分は実力でいまの立場(一流大学卒の学歴)を手に入れたのだ」と。
 
 「ブスとバカほど東大に行け!」で有名な漫画・『ドラゴン桜』。主人公の高校生男女二人は、いきなり現れた弁護士に「お前を俺が東大に行かせてやる!」と言われその気になった(①の要件)。友人や家族・教員からそれなりに期待されはじめ(②)、「最強」の講師と参考書などは用意され(③)、特進クラスのため少人数授業プラス学習室にもなる教室を整備された(④)。ある意味、「受かりやすい」環境に身を置くところから東大合格の戦いは始まったのである。東大合格を勝ち取ったとき、本人たちの努力もそうだが「環境整備」ということも合格の要因となるであろう。

補足
 ①について。和田秀樹は『受験は要領』のなかで、母校・灘高校の話をする。灘の連中は「ぜったい、無理だろ」というような人も東大を受験する。東大を受けるのが当然の環境にある。だからこそ臆することなく受験し、合格していく、と。

内田樹・鈴木晶『大人は愉しい』

内田
 
インターネットで発信することの余得は、そうでもしなければ誰も聞いてくれないはずのとりとめのない「思い」を受信し、耳を傾けてくれる誰かがいるという期待のせいで、何だか生きている「張りが出て」くるということにある。
 「インターネットは人間を変える」とはこのことである。
 おっしゃる通り、ブログを書きはじめてからこのことを実感している。

2009年3月26日木曜日

パラシュート学習

野口悠紀夫は『超 勉強法』でパラシュート学習について言っていた。
百科事典で分からないものをどんどん調べていくという学習。今やっているところからとりあえず学習し、どんどん先に進んでいく。分からなければ振り返るのではなく、先に行くと分かるようになる、ということだ。

いま、私は東大大学院の過去問をネットで調べつつ解いているところだ。インターネットの活用。現代版のパラシュート学習だ。

今後の卒論の流れの案。

フリースクールの運営に関する、社会学的考察。


1、3年時の研究を振り返って。

 私は3年生の間、フリースクールを専門に研究をしてきた。フリースクール関連のみの流れを示すと、下のようになる。

①発表および見学
●(2年時の研究)東京シューレ理事長・奥地圭子氏へのインタビュー
●(2年時の発表)フリースクールに関する、教育社会学的考察
→フリースクールの定義と東京シューレの実践例の紹介。
●(発表)八王子市立高尾山学園の事例検討
→フリースクール的手法を取り入れた公立学校の事例紹介。
●(見学)東京シューレ葛飾中学校への見学。
→東京シューレが作った学校。
●(発表)フリースクールきのくに子どもの村学園の事例検討
→ニイル思想にもとづく、学校法人をもつフリースクール。
●(見学)フリースクール夢街道子ども園の見学
→未発表。2008年夏に見学に行く。
●(発表)イリッチのラーニング・ウェッブの研究
→イリッチのいう「学習のためのネットワーク」は現代のブログによって実現可能ではないか、という考察。

②書評
●『教育なんていらない』
→教育こそは権力である。教育関係にある限り、人は他者からの支配から逃れることはできない。この点を著者独特のスタンスから追求する本。
●灰谷健次郎の小説・エッセイ(『灰谷健次郎の幼稚園日記』『いのちまんだら』など)
→子どもへのまなざしや現在の教育への批判、あるべき教育像の考察。
●広田照幸『教育には何ができないか』
→人びとは過去に幻想をもっている。「昔はしつけが行き届いていた」など。けれどこれはあくまで幻想でしかない。現代にないものが過去にはあった、と人びとは思い込んでいる。

2、4年時の研究について

 3年時、いくつかのフリースクールへの見学と、そのフリースクールの見学報告としての発表を行った。実際にフリースクール関係者の話を伺うことで、研究の視点も広まってきた。
 けれど教育学の書籍(特に近代教育批判のもの)は読んできたが、オルタナティブスクールやフリースクールに関する書物はまだまだ読めていない。
 4年時では見学に数多く行くのは当然として、オルタナティブスクールに関する書物を中心的に研鑽していきたい。また4年時からNPO法人フリースクール全国ネットワークの運営をボランティアとして手伝わせて(主に雑用だが)いただくことになったので、そこからも学んでいきたい。

3、卒論の方向性

 現在の日本のフリースクールの取り組みに着目した上で、これからのフリースクール運営のあるべき姿を考察する。
 不登校の子どもなど既存の学校教育があわない子どもは多くいる。けれどその人たちが皆フリースクールに通っている訳ではない。その理由には A,情報の不足(フリースクールを知らない、あるいはどこにあるのか分からない)、B,資金の不足(フリースクールに通いたくとも家に費用がない)、C,設備の不足(フリースクールが近くにない)、D,理解の不足(主に心理面。「フリースクールに通うのは恥ずかしい」など)の4点があると考える(注 A~Dの項目は、ヒト・モノ・カネ・情報という四要素に対応している)。
 子どもの教育権を守るためにも、このA~Dの解決を図っていくべきだ。フリースクールの見学で得た知見や書物による学習、NPOやボランティアについての研鑽を踏まえた上で、卒論ではこの方向性を探っていく。
 全体の構成は次のものを想定している。

⑴フリースクールの定義説明
⑵ ⑴の補足説明のために、フリースクールの実例を紹介する(東京シューレを元にする)。
⑵必要とする子どもがフリースクールに通えるようにするための四要素の提示(上のA~D)。
⑶四要素の解決のための方策の提示。
⑷結論

 なお、現時点ではBを解決するための方法として下のものを考えている。

「B,資金の不足」を解決するために。

①フリースクールの学校化。
 いまの学校行政のシステムでは、私立学校には私学助成が行われる。これを活かすことにより、学校の授業料を減らすことができる。東京シューレ葛飾中学校はこれを活用したため、フリースクールの東京シューレよりも毎月の授業料を1万円近く削減することができた。
 奥地圭子は「東京シューレの葛飾中学校を作って、フリースクールだったら絶対にこなかった親や子どもと関われるようになった」と言っていた。「学校」の名であるので、心理的負担なくフリースクールに関わることが可能になる(Dの解決にもつながる)。

②公立学校にフリースクールの手法を取り入れる。
 公立学校にフリースクールの手法を取り入れることで、フリースクールにかかる費用を削減することができる。公立の学校であるためだ。
 八王子市立高尾山学園という公立学校がある。小四から中学生までが通う学校だ。この学校は八王子の公立校で不登校になった子どもを中心的に受け入れている学校だ。

③フリースクールに現在以上の公的支援を行う。
 地方公共団体や政府からの支援を行う。これについて次の2つの視点から考えていく。

a,税金が学校に使われているという視点から。
 これは【学校に通っている子どもには、年間95万円分、税金が入っている】という点から考えることができる。現在、フリースクールに通う子どもは、この95万円を無駄に使っていると言える。奥地圭子は「フリースクールにも利用可能ならば、学校バウチャー制度を導入すべき」といっていた。
 全てとはいわないまでも、フリースクールに通う子どもに税金が使われなければ、何のために税金を納めているのかが分からなくなる。

b,NPOへの支援としての視点から。
 近年、政府や地方公共団体からNPOの事業に支援が入ることが多くなった。NPO法人が制度で決められてから10年が過ぎ、NPOの重要性が意識されるようになってきたのである。フリースクールをNPOとして運営する所も今は多い(東京シューレや夢街道子ども園など)。NPOの活動へ支援が多くなっている今、フリースクールにも支援が増えていくべきであろう。
 けれど、ただ支援を受ければいい訳でない。委託事業という支援形態がある。資金の支援があるが、「この資金はこの事業に使わなければならない」という資金である。フリースクールがこの資金を受けた場合、本来のフリースクールの運営以外の所に資金を使わなければならなくなってしまう。おまけにこの委託事業は一年単位。継続性が難しい。
 政府や地方公共団体からの支援は必要だが、自覚的に支援を活用しなければ、活動がかえって疎外されてしまう危険性がある。

④寄付/会費を増やす。
 ①~③はいずれも公的支援を受けるための方法である。けれどフリースクール本来の働きを行うためには民間/個人からの寄付を多く集められる運営が好ましい。公的支援を受けると、どうしてもフリースクール本来の活動ができなくなる恐れがあるからだ。自由な活動が制約される恐れがある。
 財政面の安定化のために会費を集める/寄付を多く集められる工夫を行っていくことも重要である。

⑤利用者負担を可変勾配化する。
 保育所の中には入所時に親の源泉徴収を提示する必要のある場所がある。額により、保育料金が変化する仕組みだ。これが可変勾配である。無認可保育園でも、親の納税額にもとづいて可変してくれる。フリースクールでもこれを実践すべきではないか。安易に料金を低く一定化することは必ずしもよいことではない。よい教育に金がかかるのは事実である。これを認めた上でなるべく多くの人が利用できるように考えていくべきであろう。

以上。

人生、うまくいかない

 人生、うまくいかないことの方が多い。早稲田大学に入るまでもそうだし(私は早稲田の教育学部は第5志望だ)、早稲田に入ってからもそうだ。弁護士を目指すも予備校で落ちこぼれた。私の今までの経験からも、また私の見てきた幾多の人びとの姿からも、帰納できることである。

 人生、うまくいかないことの方が多い。
 ずっと勝ち続けることができればいいが、それは理想にすぎない。すっきり「全てに勝った」状態を見たことがない。
 現実には勝利を目指していても一日単位・一時間単位で「もう嫌だ!」と投げ出したくなることがある。

「葛藤しているときが人間はいちばん自然で、いちばん安定しているのです」とは内田樹の言葉だ。

 日蓮は「よからんは不思議わるからんは一定とをもへ」と書いている。

 うまくいかない方が自然だ。こう考えた方がよいのではないだろうか。逆に、順調にいく方がレアなのだ。

 人生、うまくいかないことの方が多い。だからこそ、途中の失敗に恐れないことが重要なのではないか。勝つことよりも、負けないことの方が大事なのだ。仮に負けても、自分には負けない。「どうせ俺はこんな奴だ」と腐らずいくことだ。

 人生、うまくいかないことの方が多い。だからこそ、負けないことが大事なのだ。途中の勝ち負けを気にせず、次の勝利を目指すのだ。

2009年3月25日水曜日

電子レンジとオレンジランプ

私の実家にあった電子レンジは、温めているときランプがつかなかった。

ランプがつかないと、温まっている実感がないにも関わらず、やはり温まっている。

人間の感覚では、「ランプがつくから温まる」と思ってしまい、マイクロ波はやはりオレンジ色である気がしている。けれど現実にはマイクロ波は目には見えるわけがないのだ。

2009年3月23日月曜日

内田樹『街場の教育論』抜粋

内田樹
「人間のすべての感情は葛藤を通じて形成される。不思議な話ですけれど、葛藤しているときが人間はいちばん自然で、いちばん安定しているのです。」p255

2009年3月22日日曜日

存在するものを、しないかのように扱う

存在するものを、しないかのように扱う。これらは、悪に通じている。

近くは我が家の空き缶・ペットボトル、遠くはナチスのホロコースト。存在しているのにも関わらず、しないかのように扱うとき、例えばペットボトルは回収する意識にならず、「コンビニ行ったとき、ついでに捨てよう」という安易な考えになる。

また、スケジュール帳に勉強する時間も書かないで「絶対、この資格を取ろう!」と決意しても実現できるわけがない。本来、学習には時間というリソースが必要だ。けれどそれを自覚しない上で決意しても何にもならない。

存在するものを無視しない。これにつきる。

追記
例えば自分が何らかの役職をもっている。その役職には部下や後輩がいる。その際、自身の役職の権限を放棄して担当する部下たちを「存在しないかのように」扱う。これは悪であろう。

再記
この文章を膨らませて、ちょっとしたエッセイを書く予定。

中井孝章『学校身体の管理技術』

管理システムの浸透は、日常の生活環境だけにとどまらない。山田陽子が指摘するように、「現在の精神医療の現場では薬物療法や生物学主義への変調が色濃く、精神的な苦悩や人生における迷いに診断名をつけ、薬物によって解決する傾向が顕著になっている。(pp7~8)

2009年3月21日土曜日

アドレスの分散

aaaaaaから初めていって、zzzzzzzzzzが50個くらい続くアドレスまで全てのアルファベットや数字・記号の組み合わせの表を作る。その後ろに、@gmail.comをつけていく。

実際に使用者のいるアドレスには必ず至る。けれどこの分散の仕方は素数と同じく、まったく読めない展開が待っているはずだ。

パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育』より

 未来とは受け取るべく与えられるものではなく、人間によって創造されるべきものである。
 いずれのタイプのセクト主義者も、同じように歴史を独占的にとりあつかい、けっきょくは民衆不在で終ってしまう。(pp7~8)

 銀行型概念では、暗黙裡に人間と世界の二文法が仮定されている。すなわち、人間は世界や他者とともに存在するのではなく、たんに世界のなかにあるにすぎない。人間は再創造者ではなく、傍観者にすぎないのである。(p73)

 要するに、銀行型の理論と実践は静止させ固定化する力であり、人間を歴史的存在として認めることができない。課題提起型教育の理論と実践は、人間の歴史性を出発の原点とする。課題提起教育は、何ものかになりつつある過程の存在として、すなわち、同様に未完成である現実のなかの、現実とともにある未完成で未完了な存在として、人間を肯定する。実際、未完成であるが歴史をもたない他の動物とは対照的に、人間は自分自身が未完成であることを知っている。かれらは自分の不完全さに気づいている。この不完全さとそのことの自覚にこそ、一人人間だけの表現としての教育の根がある。
 この人間の未完成な性質と変化しうるという現実の性質が、教育がたえず進展する活動でなければならないことを不可避的に要求する。
 教育はかくして、実践のなかでたえずつくりかえられる。(pp88~89)

2009年3月14日土曜日

川柳

返す人
いない幸せ
ホワイトデー

2009年3月12日木曜日

小浜逸郎『先生の現象学』(1995、世織書房)

近代ヒューマニズムの信奉者が自明なことと考えている「教育は子どものためにある」というテーゼは、別に少しも自明なことではないといいたいからである。
 教育は、もともと子どものためを思って意図されたのではない。それは発生的には共同体の維持の必要から生まれたのであって、子どもを共同体のシステムに引き込むのが目的だったのである。
 もちろん、発生期の事情が、複雑な社会構成をもつ現代にもまったくそのまま単純に当てはまるというわけにはいかない。その複雑さを考慮に入れた上で強いていうなら、「教育は、大人(の作っている社会)と子どもとの関係のためにある」ということになるだろうか。ただ、それは、近代社会が生み出した人間の実存の分裂したありかたに対応して、一つに絞り切ることができずに、「国家や社会のため」と、「個人の自由と幸福の追求のため」という二つに分かれて追求されざるを得ないのである。(pp100~101)


→内田樹のいう「既に始まっているゲームに参加させられる」状況に類似している。