フロムの著書『悪について』で提示された概念を整理する。
(1)サディズムの実態について
「サディズムの目標は人間を物体に、生物を無生物に変えることであると言えばよい。なぜなら完全絶対の統御によって、生物は生の本質である自由を失うからである」(Fromm 1964:31頁)。ここから考えると、フレイレの『被抑圧者の教育』に出てくる預金型教育は生徒を客体(つまり、モノ)として扱っているためサディズムに基づく行為といえる。生徒はあくまで知識を入れられる器なのだから。
(2)ネクロフィリアとバイオフィリア
ネクロフィリアとは「死を愛好する」という意味(同:40頁)。ネクロフィリアに基づく人間観について、フロムは次の例をあげる。「スポーツ・カー、テレビ、ラジオのセット、宇宙旅行のほうが、女や恋や自然や食物よりも興味があり、生よりも生のない機械的なものを取扱うことに刺激される男性が、実に多いことは明らかである」・「かれは車を見るような眼で女を見る」(68頁)。オタク系の恋愛ゲームやアダルトソフトを好む衝動は、まさにネクロフィリアな態度である。メイド喫茶や妹喫茶も、きまりきった関係を要求する意味でネクロフィリアな場である。
ネクロフィリアに対立する概念はバイオフィリアである。「生を愛好する」というのが元の意味である。「《バイオフィリアの倫理》は、それ自身善と悪の原理をもつ。善は生に寄与するものすべてであり、悪は死に寄与するものすべてである。善は生を尊ぶことであり、生、生長、展開を促進するすべてのものをいう。悪は生を窒息させ、矮小にし、寸断するすべてである。喜びは美徳であり、悲しみは罪である」(52頁)。イバン・イリイチが人間性の回復を訴えていたととらえているが、この「人間性の回復」という見方は「善」なのである。
(3)教育における、バイオフィリアの必要性
「子供の場合、生の愛好の発達に最も重要な条件は、その子供が生を愛好する人びとと共に在るということである。生を愛好することは、死を愛好することと同じように伝染しやすい」(58頁)
ここから、子どもの教育におけるバイオフィリアの必要性が読み取れる。いきいきとした人間的関係の中での教育こそ必要なのだ。教室が預金型教育の場になっているのであれば、それはネクロフィリアの環境になっている。「生を愛好する」バイオフィリアな環境(ちょうどイリイチのいうconvivialな場でもある)を、教育の中で増やしていく必要がある。
ニンテンドーDSから学習ソフトが出るなど、CAIをめぐる環境は発展を続けている。知識習得型の学びであればCAI機器やテキスト・問題集の自習で構わないという意見もあるが、この学習の仕方はネクロフィリアに基づく教育観である。学校という場は多様な他者と交流をする場であるとの考え方があるが(佐藤学の「学びの共同体」など)、この発想はバイオフィリアの場所としての学校再考の姿勢である。
(4)ネクロフィリア・バイオフィリア概念の意義
よく教育者は「人間的関係」や「人間性」といった言葉で現状の公教育批判を行う。この場合、抽象度が高い議論となってしまう。「人間性」とは何か、イメージできないからだ。この「人間性」という言葉を、プラス面・マイナス面の二項対立図式から描いてくれるのが、フロムのいうネクロフィリア・バイオフィリアの図式である。この図式を用いれば、教育環境について「人間性」という言葉を使わずに議論をすることが可能になる。
(5)フロムへの疑問
『悪について』において、悲しみは悪であるとフロムは語るが、人間にはある程度の「悪」が必要な側面がある。絶望や失望、悲しみ。なるべく経験したくはない感情であるが、これらを体験するからこそ人間性が深まるという働きも存在する。であるならば、一方的に「悪」といって済む問題ではなく、もう一歩考察を深め、人間には悪も必要なのだとの結論に持っていくべきであったと言える。
参考文献
Fromm, Erich(1964):鈴木重吉訳『悪について』、紀伊国屋書店、1965。
1 件のコメント:
Il semble que vous soyez un expert dans ce domaine, vos remarques sont tres interessantes, merci.
- Daniel
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