2009年3月2日月曜日

大学訪問記①玉川大学

 早稲田大学はもともとの早稲田村にできた大学だから早稲田大学という。地名→学校名だ。玉川大学はその反対。学校名→地名である。学校が出来てから、その名称が地名となった。だから学校の敷地でなくても、「玉川学園」が地名として使われる。
 大学名以外にも逆のところがある。例えばキャンパスの広さ。散歩できるほどの広い空間であり、自然が多い。あとは付属の小中高が同じ場所にある点だ。早稲田——特に早稲田キャンパスは——狭く、自然と言えば街路樹くらいで、付属・系列校は大学外に存在する。また両校とも教育学部をもっているが、玉川は教員育成の名門、早稲田は【教育学の研究場所】としての学部である。

 本日3月2日、私は小田急線を使った関係上「フラッと」玉川学園前駅に降り立った。そしてこの真逆である大学に足を踏み入れることになった。守衛さんは小学生に挨拶をするほどフレンドリー。その姿に感心し、コソッと大学に入るのでなしに許可を得て入ることにしたのである。

 玉川大学とはそもそもどんな大学であろうか? 玉川学園のWEBには次のように書かれている。

 玉川学園は、1929年(昭和4年)に創立者小原國芳により「全人教育」を第一の教育信条に掲げて開校されました。生徒数全111名、教職員18名によってスタートした学校は、現在K-12(Kindergarten to 12th) 、大学(文学部・農学部・工学部・経営学部・教育学部・芸術学部・リベラルアーツ学部)・大学院まで約1万人が約59万m2の広大なキャンパスに集う総合学園に発展し、幅広い教育活動を展開しています。
 創立以来「全人教育」を教育理念の中心として、人間形成には真・善・美・聖・健・富の6つの価値を調和的に創造することを教育の理想としています。その理想を実現するため12の教育信条 ―全人教育、個性尊重、自学自律、能率高き教育、学的根拠に立てる教育、自然の尊重、師弟間の温情、労作教育、反対の合一、第二里行者と人生の開拓者、24時間の教育、国際教育を掲げた教育活動を行っています。
(http://www.tamagawa.jp/introduction/history/index.html?link_id=his2)
 
 足を踏み入れてみて、ここに書かれている内容に、よくも悪くも嘘はないように感じた。創立者たる小原國芳はクリスチャン。小原の著書のエッセンスをおさめた『贈る言葉』(注 海援隊にあらず!)という本にも信仰を根底においたがゆえの言葉が書かれている。わざわざ人間形成の中身に「聖」をおくのは信仰故のものであろう。
 今ではほとんど聞かなくなった「熱い」言葉を伝えているのが玉川大学の教育学部であるようだ。「いい」教員になり、子どもに夢を与えよう、子どもによい教育を与えよう。古き良き教員像を見る思いがする。そのために「理想」の教育たる松下村塾や咸宜園(かんぎえん)を学校内に再現してしまっている。本当に教育に「熱い」学校である。
 玉川大学の本屋。「教育学」コーナーには教員養成や授業運営の仕方をキーワードとする本が多い。早稲田は文字通りの「教育学」に関する本しかない。ただ、水谷修の本は早稲田にも玉川にもあった。
 教育への「熱い」言葉の広まっている玉川大学。早稲田大学の教育学部は教員育成を主目的としない分、「いい教員になろう」「いい教育をしよう」ということをあまり伝えてこなかった。「熱い」ものに惹かれる傾向も私にはあり、「この大学で学んでみたい」という思いを久々にもったのである。
 現在は善の言葉がニヒリスティックに見られる時代となった。「正義」や「善人」という言葉や「人のために」という言葉を真正直に口に出すと恥ずかしさを感じる時代だ。教育学の世界でも、この傾向はあったように思う。教育に関しての「熱い」言葉が語られず、いたずらに脱学校論や近代教育批判が展開される。これ自体には何の問題もないが、あまりにも現代の教育批判に汲々としていると教育が本来もっていた「熱い」側面が軽視されてしまう。教育に無限の可能性や輝きがあったのは「今は昔」のことなのか? 本当にこの状態でいいのか?
 ニーチェは「神は死んだ」と言った。そして「神は死んだままだ」と続けた。誰の本だったか忘れたが、ニーチェのこの一連の言葉から、'神は確かに死んだ。まだ死んだままだ。けれど、この状態はいつまでも続いていいわけでない’という解釈をしているものがあった。教育学にも言える。教育における「熱い」言葉は確かに軽視されるようになった(死んだ)。けれど、この状態はいつまでも続いていいのだろうか? そうではないだろう、と。教育学が近代教育批判を躍起になってやりすぎたため、教育が本来もっていた希望や輝きが見えづらくなってしまったのかもしれない。
 
 玉川大学の竹薮に風が通る。3月2日の風は冷たいながらも心地いい。風に揺れた竹が夕陽に輝く。この光景を見ていると、教育への希望があふれてくるように思うのだ。

5 件のコメント:

いしだ・はじめ さんのコメント...

この大学は礼拝堂を持っています。

でも、創立者の小原は釈迦や日蓮などについても賛美する文章を残しています。

直接的に‘お経も読める玉川っ子’という表現が出ています。

懐の深い学校であるようです。

大体、「教育のすばらしさを在学生に伝えたい」思いで松下村塾を校内に再現してしまう学校です。勢いがすごいです。
 実際、玉川大学出版の本を全く使用せずに教育学を学ぶことは不可能となっています。

匿名 さんのコメント...

寛容というのはそれ自体、信頼に足りますね。

信用していいかはまた別問題かもしれないけれど。

教育を考えるひとびとは、みなそれぞれ、何らかのかたちで「駆け込み寺」的存在を必要としているような。これはぼくの個人的な印象ですが。

いしだ・はじめ さんのコメント...

「駆け込み寺」というのは興味深いですね。

フリースクールやカウンセラーの元に行く子どもはあくまで一部です。大部分の子どもは「駆け込み寺」的存在がなくても生きていける気がします。

必要としている子どものために、これらの設備が必要なのかもしれません。

匿名 さんのコメント...

あ、ぼくのいう「駆け込み寺を必要とするひとびと」というのは、むしろ、教師や教育論者たちの側のことを念頭においているのです。

信念が求められる職域だからこそ、それが揺らいだときのケアが大事になってくるな、と。そして、そういう、打ちひしがれた(?)ひとびとを癒して再起させるというシチュエーションにおいてこそ、寛容さはその力を発揮するような気がして。

そういう意味で、玉川みたいな場所が存在しているというのは、学習者の側だけでなく、教育者の側にとっても、救いであると感じた、ということです。

いしだ・はじめ さんのコメント...

教育者にも「駆け込み寺」が必要とのお話、非常に興味深く読ませていただきました。

いま教員の鬱が多くなっているそうですね。ちょっと引用します。


【精神疾患による休職教員数過去最多を更新(2008.12.25):鬱病などの精神疾患で平成19年度に休職した全国の公立学校の教員は、前年度より320人増の4995人で、15年連続で過去最多を更新したことが文部科学省のまとめでわかった。文科省では「子供や保護者との人間関係で自信を失い、ストレスをため込んでいる」と分析している。】
http://kclip.cocolog-nifty.com/kclip/2008/12/20081225-3311.htmlより。

この記事を読むと、自信や意欲を失った教員の「駆け込み寺」の存在が必要であることを実感します。

これから教員免許更新のための「十年次研修」が始まります。そのとき、「駆け込み寺」的な研修になるといいのですが・・・