2012年2月24日金曜日

チクセントミハイ, 2003,『フロー体験とグッドビジネス 仕事と生きがい』大森弘監訳、世界思想社、2008。

2/4に早稲田で行われたシティズンシップ教育のシンポジウムの運営を行った。
 運営の統括として、司会にキュー出し・机配置の指示など、イベント運営の中心者の仕事であった。
 バタバタはしていたけれど、うまくイベントとして終了させることが出来た。
 その「過程」がとてつもなく充実していたことを覚えている。

 このことは、チクセントミハイがいうところの「フロー体験」である。
 イベントの運営に集中し、時間感覚が狂う体験。
 頭や神経を使うけれど、なぜかワクワクしている感覚。
 通常以上の集中力を発揮する場。
 これらをまとめて「フロー体験」と呼んでいる。
 
 また、仕事それ自体が「報酬」であるという考え方も「フロー」である。
(中谷彰宏の本のテーゼでもある)

以前私は、ブログのなかで
時間というものを失念するという「現在経験」を
誘発するものほどよい「教育」であり「学び」である、
と述べた。http://zaggas379.blogspot.com/2011/09/blog-post_06.html

チクセントミハイの述べる「フロー体験」についてを
私が記していたわけである。
大森荘蔵の「現在経験」を内面的に見た場合、
「フロー体験」と述べることが可能ではないか、と考えられる。

「フロー体験」は、ある意味で客観的理性を失った状態である。
自分がどこにいるか、何をしているかを認識することなく、
「完全にのめり込んでしまう」(48)ことで
ただ対象と合一の状態になることになるためだ。

「世界中でもっとも広く報告されているフロー活動は、よい本を読むこと、つまり、読書中に我を忘れるほど登場人物になりきり、物語に没頭することである」(49)

前に高橋和巳『悲の器』を読んでいた時も、「フロー」が起きた。
東北の帰りのJRの中で読んでいたのだが、
電車の寒さも忘れ、自分がどこにいるのか・自分がリクルートスーツを着て帰ってきていることすら忘れ、
ただ物語に没頭していた。
読み終えた時、自分が電車に乗っている目的を失念していた。

このように「フロー体験」をする対象とは人物でもよい。
フロー体験は子どもと共に過ごしている際の状態にも当てはまるという。

私は「フロー」を誘発する教員になりたい。
学ぶことに「意味」を求めるのも、もともとは違うのかも知れない。
学ぶことそれ自体が「楽しい」というのが「フロー」である。
大学院での研究も、ある意味それでありたいのだが・・・。

2012年2月23日木曜日

ニーチェ『若き人々への言葉』角川文庫、原田義人訳、1954。

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ニーチェ『若き人々への言葉』角川文庫、原田義人訳、1954。

初版は古いが、いまのカバーはすごくポップになっている(萌えキャラが表紙)。
安易な現状への満足をしている姿に、ニーチェが怒らないわけがないと思うのだが…。


「君たちが高く抜き出ようと欲するならば、自分の脚を使え! 人に持ち上げられるな、他人の背や頭のうえに乗るな!」(141)

「誤り呼ばれている「自由精神」、デモクラティックな趣味とその「現代的理念」との口八丁、手八丁の奴隷どもは、すべて孤独を持たぬ人間、自分の孤独を持たぬ人間、魯鈍でけなげな連中である。彼らには勇気も尊敬すべき道徳も見放されているわけではなく、ただ不自由であるだけである」(169)

「一個の哲学が到達しうる最高の状態。それは、現存在に対してディオニュゾス的に立ち向かうということである。それを表現する私の方式は、運命愛である」(199-200)

現状を肯定し、
自身の運命に対して「愛」をもって挑んでいく。
そういった前進の姿が、道を拓いていくことになる。
ニーチェに学ぶことは多い。

ニーチェの言葉は、力強く生き抜くということを我々に呼びかける。

ニーチェの死は1900年。
ニーチェが死なねば20世紀は始まらなかった。
そう考えると…、なぜかどうしようもなく感銘を受ける。





















2012年2月22日水曜日

ポスター

久々にみたナイスなポスター。

2012年2月21日火曜日

無題ノート

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岡本吏郎, 2009, 『サラリーマンのためのお金サバイバル術 家・車・保険、「人並み」な買い物が破滅を招く』朝日新書。

要は「家は借りて住め、保険は社会保険料以外は火災保険などで十分、車は持たない、不要なものは買わず「人並み」をこだわらない、投資は市場に対してせよ」という本。

2012年2月20日月曜日

ダニエル・ピンク著、大前研一訳『ハイ・コンセプト 「新しいこと」を考え出す人の時代』三笠書房、2006。

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ダニエル・ピンク著、大前研一訳『ハイ・コンセプト 「新しいこと」を考え出す人の時代』三笠書房、2006。

アメリカや日本の「エリート」がしていた仕事を、
インドや中国の「エリート」がより安い賃金でやるようになるという
『Global Auction』の時代。

この時代において、日本やアメリカのやるべき仕事は
いったい何か。
本書では「ハイ・コンセプト」な人を作り出すことを提唱する。
「ハイ・コンセプト」とは「新しいことを考えだす人」(目次)のこと。

本書はこの「ハイ・コンセプト」と合わせ、
「ハイ・タッチ」という能力も重要だという。

「「ハイ・タッチ」とは、他人と共感する能力、人間関係の機微を感じ取る能力、自らに喜びを見出し、また、他の人々が喜びを見つける手助けをする能力、そしてごく日常的な出来事につ|いてもその目的や意義を追求する能力などである」(28-29)

「ハイ・タッチ」な能力を持った
「ハイ・コンセプト」な人材がこれからの時代を
切り開く人となる。

「ハイ・コンセプト」で「ハイ・タッチ」な人間は「右脳主導思考」になる、
ということだ。
著者はこのために下の6つの資質を示す。

それが、
デザイン、物語、調和、共感、遊び、生きがい
の6つである。

「機能だけでなく「デザイン」」
「議論よりは「物語」」
「個別よりも「全体の調和」」
「論理ではなく「共感」」
「まじめだけでなく「遊び心」」
「モノよりも「生きがい」」

今後の生き方を考える上で、
この6つを意識することは重要だなあ、と思った。

特に印象的だったのは、「共感」の能力である。

「インドのバンガロールにいる放射線技師でもX線写真を読むことはできる。だが、光ファイバーでは、共感−−体に触れ、つき添い、慰めを与えること−−を伝えることはできない」(260)

論理ではなく相手を共感し、話を聞く中で問題解決をする力。
教員にとって大事な力だと思う。

2012年2月14日火曜日

森信三, 1989, 『修身教授録−−現代に甦る人間学の要諦』致知出版社.

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森信三, 1989, 『修身教授録−−現代に甦る人間学の要諦』致知出版社.

森信三が大阪天王寺師範学校にて「修身」の授業を受け持った際の講義録。
ソシュールなどの著作と同じく、生徒の筆録によって本になっている。

世の中が教科書ベースの「徳目主義」の修身授業を行う時代。
森信三はそんな際、自分が疑問に思うこと・考えていることをベースにした修身の授業をした(講義録は昭和12−14年の内容である)。
血の通った人間としての「生き方」の授業を森信三は行い続けた。

この本はそんな「生きた」修身の授業の模様が描かれている。
森信三のアドバイスは一つ一つ具体的。

例えば。
「これはたぶん相手の人が知っていないらしい、と思われる事柄について話す場合には、「ご承知のようにー」とか「ご存知のようにー」とかいう前置きをして話すということです。でないと相手としては、面と向かってお説教をされるような気持ちになるからです。この辺のところに、会話上のこつとか呼吸というものがあると思うのです」(201)

そのため非常に面白い。

以下は抜粋集。

「いやしくも教師たる以上、通り一遍の紋切型な授業ではなく、その日その日に、自己の感得した所を中心として、常に生命の溢れた授業を為さむと心掛くべきなり」(47)

「人間が真に欲を捨てるということは、意気地なしになるどころか、それこそ真に自己が確立することであります」(85)

「私の平素申していることは「常に書物を読んで、卒業後独力で自分の道を開いていけるような人間にならねばならぬ」ということです」(138)

「どこまでも仕事を次つぎと処理していって、絶対に溜めぬところに、自己鍛錬としての修養の目標があるということを、深く自覚することです」(179)

「最初はまず実例から入り、さらには実行から入るというのが、われわれ日本人の入り方ではないかと思うのです」(181)

「人は真に謙遜ならんがためには、何よりもまず自己というものが確立している事が大切だと言えましょう。すなわち相手が目下であるからとて調子に乗らず、また相手が目上なればとて、常に相手との正しい身分関係において、まさにあるべきように、わが身を処するということであります」(206)

「真の「誠」は、何よりもまず己のつとめに打ち込むところから始まると言ってよいでしょう。すなわち誠に至る出発点は、何よりもまず自分の仕事に打ち込むということでしょう。総じて自己の努めに対して、自己の一切を傾け尽くしてこれに当たる。すなわち、もうこれ以上は尽くしようがないというところを、なおもそこに不足を覚えて、さらに一段と自己を投げ出して|いく。これが真の誠への道でしょう」(253-254)

「われわれは苦労することによって、自分のおめでたさを削りとってもらうんです。現実の世界は決してお目出たくはないのです」(271)

偉業をなす人の風格
①「自分のやりたいことはすぐにやる」「たとえば本が読みたくなれば、たとえそれが真夜中でも、すぐに飛び起きて読むといった調子です」
②「夢中になる」
③「最後までやり抜く」(385)

「この世の中を愉快に過ごそうと思ったら、なるべく人に喜ばれるように、さらには人を喜ばすように努力することです。つまり、自分の欲を多少切り縮めて、少しでも人のためになるように努力することです」(462)

2012年2月10日金曜日

中根千枝, 1977, 『家族を中心とした人間関係』講談社学術文庫.

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中根千枝, 1977, 『家族を中心とした人間関係』講談社学術文庫.

古くなった感はあるが、日本人論の古典。

助成に関する記述は中根の時代より大きく前進した気がする。
しかし、まだまだ課題も大きい。

日本の「ウチ」について。
「家族のソトは「トナリ」であり「シンルイ」であって、「家(ウチ)」とは質的に異なりま|す。ここにウチとソトの明確な一線がひかれています。さらに「トナリ」や「クミ」はムラのなかでサブ・グループを構成しますから、その集団が機能の高いばあいには、一般のムラの人に対して、それがウチになります。さらに一つのムラは他のムラに対してウチということになります。こうして、ウチとソトの関係は段階的に認識されています。それぞれの段階でウチは明確な集団として閉鎖性をもつということになります。したがって、ムラは二段階のウチの集合体となります」(150-151)

「日本の家は、むしろベースキャンプとしての働きを顕著にもっています。家族成員がそれぞれの活動にでかけるための根拠地としての役目ですから、ソトの人との接触はそれぞれの活動の場でするということになります。ベースキャンプはつねに留守番が要るように、母(妻)がその役に当っています。ベースキャンプはその成員の活動が活発であればあるほど、|みんな出はらっているときが多くなります」「このことが既婚婦人の社会的進出を阻む大きな要因となっていることはいうまでもありません」(160-161)

「日本の家族の特殊性は、全体の論述をとおしても浮かびあがってきますが、とくに最終章で考察したように、その孤立性に求められます。実はこの集団の孤立性こそが、さきに私が分析・理論化した「タテ社会」の母体になっています」(167)

それにしても、日本の外で読む日本人論は大変面白いなあ、とベトナムで打っていて思う。

後世への最大遺物

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後世への最大遺物

トインビーはボケが入っていても、本に目を通そうとしていた、という。
死ぬ間際に、その人の生き様や価値観が明解に描かれる。

花谷弁護士も言っていたように、私も死ぬ頃にも本に目を通そうとしていたい、と思う。

私は文をもはや理解できていないかも知れない。しかし、「読む」姿勢や「学究心」だけは後世に残すことが出来る。
「後世への最大遺物」は「良き生き様だ」とは内村鑑三もよく言ったものだ。

私も「後世への最大遺物」として、ぼけても本を読む姿勢を持ちたい。

それこそ、我が教え子への人生最後のメッセージではないか。

アンドレ・モーロワ, 1939, 中山真彦訳『人生をよりよく生きる技術』講談社学術文庫。

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アンドレ・モーロワ, 1939, 中山真彦訳『人生をよりよく生きる技術』講談社学術文庫。

ベトナム行きの機内において読了。
モニタではベルリン・フィルの素晴らしい演奏(とその映像)。

そんななか読むフランスの翻訳文庫。
自分が蓮實重彦になった気分がすごくする。

閑話休題。


(人のゴシップや噂について「「知りません」というこの簡単なひこことをいつも口にするように心がけたら、世間の会話の平均的価値はおどろくほど向上することだろう」(26)

「情報は教養ではないのである。教養人の頭の中では、個々の事実が有機的に結びつき、一つの生きた世界をつくり、それが現実世界の映像となる」(48)

「行動する人にとり、思考は行為と一体になっている」(48)

「しかしもっと強い恋をする人たちは、必要に応じて自分を新しくすることを知る」(84)

「人生の戦術もまた、攻撃点を一つえらび、そこに力を集中することにある」(102)

「そしていったん決定を下したら、「実行に移れ!」である。後悔は無益であり、変更にはきりがない」(103)

「汝のいまなすべきことをなせ。一心こめてそれにかかれ。全身全霊を目的と|するものに捧げよ。その目的を達したあかつきには、歩いてきた道を立ちもどって、先に横切ったもう一つの道を歩くのもよかろうし、あたりの景色を眺めるのもよかろう。だが仕事ができ上がらないかぎり、道草は許されない」(103-104)

●教育について
「生徒の仕事の第一は、勉強するくせをつけることである。精神を養うまえに、まず意志の力を養わなければならない」(27)
「苦労せずに覚えたことは、すぐに忘れてしまうものだ。同様の理由で、生徒自身は何もしなくともいいただ講義だけの授業は、まずほとんどつねに意味がない。若い頭脳の上を空滑りするだけである。聴くことは勉強することではない」(128)
「アランが述べているとおり、教育は断固として時代おくれでなければならない」(130)

「傾聴すべきはゲーテの言葉である。いわく、「心穏やかで、なすべきことが決まってるときには、孤独はいいものだ。」したがって、孤独を求める前に、その孤独の中でなすべき務めをはっきりさだめることがだいじである」(140)

「命令のいちばん大事な点は、明快さである」(247)
「人は、うまく指図さえすれば、その指図を受け入れるものだ。指図されるのを望むものだ、とさえいえる」(184)

「指導者は、みずからをその地位にふさわしいものにするよう日々努めてこそ、その権力を保つことができるのである」(195)

●解説より
「「仕事」の中にこそ、「生きる技術」の精髄がある」(284)


追記
・フランスやアメリカの文章は、事例が具体的に出てくる。
この表現法を私も学びたいと思う。



2012年2月9日木曜日

竹田青嗣, 2009, 『人間の未来−−ヘーゲル哲学と現代資本主義』ちくま新書。

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竹田青嗣, 2009, 『人間の未来−−ヘーゲル哲学と現代資本主義』ちくま新書。

 学部時代まで、私はイリイチをごく素朴に認識していた。
 いま、思想上の問題としてその傾向性を「精算」している。

 教育学関連でいえば、①「脱学校」といえば何らかの意味があった時代は1980年代に終わったこと、②いまは「学校」的でない「学校」実践が多く存在していること、③「脱学校」を超えた「再-学校」論とでも言うべき教育思想の構築が求められていること、④私自身がこの4月から教員として実践者となっていくことの4点が理由である。

 思想関連で言うと、①近代のすべてを否定する発想はもう時代遅れであるということ(ポストモダンも古くなった)、②反国家・反近代うんぬんの前に、皆が納得できる形での思想形成が求められていることの2点が理由である。

 イリイチ思想に染まった自分自身の精算が必要であるのは、端的にいえば竹田青嗣の著作および思想に触れたことがきっかけとなっている。イリイチは中世への回帰を訴えるばかりで、現実社会での実現可能な方策については各個人の「アンプラグ」を示す程度である。アンプラグとは、いわば現代の資本主義ゲームから自発的に「降りる」こと。「都市型狩猟採集生活」であったり、自給自足のライフスタイルを形成したりと、個人レベルでの運動にとどまる(いまの段階でもできることがある、という意味ではすごく好きな発想だ)。

 『人間の未来』は『人間的自由の条件』(2004)の続編。皆が納得できる形での社会設計の原理論を提示している。

 全部を紹介できるほど能力が高くないので、抜粋式に示す。

「「近代(市民)社会」の核心的理念は何かと問えば、社会から「暴力原理」を完全に排除し、これを純粋なルールゲームに変える試みだった、と答えるのがその本質をもっともよく表現する」(131)

「「国家」の本質は、なによりもまず普遍的暴力の制御という点にある。言いかえれば、一社会の共同的な自己防御ということが第一義である。どんな国家も一体的な「共同的幻想」を作り上げるが、それは本来「覇権の原理」が不安定であるために(それは最強者=王の原理だから、より強い者が現われれば現在の王の正当性は失われる)考えだされた、秩序安定のための工夫で合って、「一体性幻想」は国家の本質ではなく属性にすぎない」(162)
→国家は「暴力装置」である。しかし、これは「国家」がなければ存在した公的ルールに基づかない暴力・収奪を防ぐ働きがある。その側面をさしおいて国家の暴力性をのみ訴えるのはフェアではない。

「近代社会の根本理念は「自由の相互承認」にもとづく「普遍ルール社会」を目標とするところにあった」(272)

 本書ラストで著者は地球レベルにおいて「資源」の「希少性」による「普遍闘争」状態が起きる可能性を示す。その解決策として、国家レベルでの納得の行く資源配分のルールの措定を述べる。もはやポストモダン論を述べる時代ではなく、今後の社会を万人に「よい」社会とするために思想家・哲学者は智慧を集める時代である、という訴えである。

 読み間違いがあったらごめんなさい。

2012年2月6日月曜日

ネコ型人材の時代。

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ネコ型人材の時代。

ツリー状の時代において、イヌ型人材が求められた。
つまり、指示を忠実にこなす人材だ。

しかし、いまは時代が変わった。
大組織の時代ではなく、
少人数グループによるクリエイティブ能力の時代になった。

ネットワークを用い、
自分で仕事を作り、
自分で課題を見つけ、
自分の生き方を捜す
ネコ型人材の時代となった。

ネコは面倒くさがりである。
だからこそできるだけ無駄を省く。

ネコは気分屋である。
だからこそ自分が好きな事だけをやる。
自分の好きなことのプロフェッショナルである。

ネコはさみしがりやである。
だからいろんな場所に出入りし、いろんな人とネットワークを作る。

ネコは遊び好きである。
だからあちこちウロウロ、動き続けている。

私はネコ型人材になりたいと思う。

注 本内容はネコワーキングでの会話を基に構成しています。

2012年2月3日金曜日

ルドン展に行く。

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ルドン展に行く。

 友人の勧めで、丸の内の三菱一号館でやっている「ルドン展」にいった。

 ルドンをブリタニカ百科事典で引くと、次の通り。

フランスの画家,版画家。ボルドーで修業し,1871年パリに出る。 J.L.ジェロームや R.ブレダンの影響を受け,初期には単色のリトグラフ (石版画) で幻想的,神秘的な世界を生んだ。 S.マラルメ,J.K.ユイスマンス,E.A.ポーなど象徴主義作家の影響を受ける。 90年頃までもっぱら単色で制作したが,その後,夢幻的世界の効果を増すために色彩を採用し,文学的,神話的主題を華麗な幻想に高めた。晩年はパステル,水彩による作品を多く描き,特に花の絵でも名高い。世紀末の象徴主義者としてシュルレアリスムにも影響を与えた。主要作品はリトグラフ集『夢のなかで』 (1879) ,『ベニスの帆船』 (1906) ,『アネモネの花』 (08) 。

 ちなみに彼の自画像が下のもの。

 
ルドン(自画像,1904,個人蔵)

 展示の中では「初期」の「単色のリトグラフ」が興味深かった。
 目玉が画面中央に置かれ、危うい雰囲気を出している。
 危うい目玉が、ふわふわとした気球に描かれてもいた(タイトルは忘れた)。
 
 社会学と人類学と心理学の黎明期。そんなイメージを誘発する展示だった。

 たとえば「永遠を前にした男」はサルがヒトへと進化し、立ち上がる瞬間が描かれている。
 立ち上がるという「永遠の一瞬」が、今の我々に続いている。
 立ち上がることは文明の発展を招いたが、同時に人間の苦悩が招かれる結果にもなっている。
 そんなことも含めての「永遠を前にした男」なのだろうと思う。

 作品展の至る所に描かれた〈ダイスを背負った男〉のイメージは、
 運命を背負わされている人間の苦悩を感じる。

2012年1月30日月曜日

埼玉の定時制高校への見学。

先週金曜日、ある先生のご好意から埼玉にある定時制高校の授業の見学に伺った。

高校3年生の日本史の授業。
マンガを交えたプリントから、室町時代の経済について学習できるようにされていた。

定時制高校の面白い点として、雑談は確かにあるが雑談組は教室の後ろに固まり、教室前方には「ちゃんと授業を聞く」人たちが固まっていた。

定時制と全日制とが併設された学校の場合、定時制の授業は全日制の生徒の教室をそのまま使う。
結果的に、席は自由になるのだろう。

参観した授業の担当はベテランの先生。
生徒の私語を授業に織り込みつつ、授業をしていた。

また、生徒と会話をしつつ授業をしている。
こういったワザを、私も学びたいと思う。

なお、授業の後、「大学生」として生徒の前でお話をさせていただいた。
ただ、ハッキリ言って、私に話せることはあまりないなあ、と感じた。
私の高校は皆が大学に行くのが当り前。
定時制のように高卒就労や専門学校進学などがメインになる場所において、何も実際的なアドバイスをすることは出来なかった。

自分の人生経験の狭さを感じる。
「早くから就活の準備をしよう」くらいしか述べることがなかったからだ。

2012年1月22日日曜日

悩み事解決用アプリ

悩み事解決用アプリを誰かに開発してほしいなあ、と思う。それは、カーネギー『道は開ける』の4つのステップをただ打ち込んでいくだけのものだ。

誰かにフリーでマック用アプリを作ってもらえないだろうか。
to-doリストへの対応が出来ると、考えた対策をすぐリスト化できて便利だろうなあ。

参考;カーネギー『道は開ける』における「悩みの追い払い方」(78)
①悩んでいる事柄を詳しく書き記す。
②それについて自分にできることを書き記す。
③どうするかを決断する。
④その決断を直ちに実行する。

2012年1月21日土曜日

遠隔教育のパラダイム転換

 本日、戸田文化会館でおこなわれた「埼玉県県立高等学校学力向上基盤形成事業 平成23年度報告会」に参加した。協調学習について興味があり、この4月から教員になるものとして視野を広げようと思ったからだ。

 面白かったのはロボット(アンドロイド)を用いての学習、という内容だった。グループ学習において、遠隔操作するロボットを介入させると、学習効果が上がった、という点である(真新しいイベントだから、集中度が上がっただけの可能性も考えられるが)。
 はじめ、かなり違和感があった。それは「そこまでしなくてもいいのでないか」という発想からである。しかし「可能性としてはありだな」と話を聴いていて思うようになった。例えば、長期入院者もアンドロイドの遠隔操作によって授業に参加することも可能になるたえである。

 シンポジウムを見ていて、遠隔教育の新たな形として、アンドロイドやロボットを通しての学習があるのだなあ、と分かった。遠隔教育の新たな形態が出来つつあるのだ。
 いままでの遠隔教育は、eラーニングなどIT技術を用いて離れた場所で学習をすることを意味した。これからはアンドロイドの遠隔操作により、アンドロイドを介しての学習を行うことが「遠隔教育」のメインテーマになるかもしれない、と思った(実際、eラーニングを用いる大学の授業ではBBSを活用する。これは離れた場所での会議であるが、アンドロイドを集め一箇所でBBS的な議論が可能となるだろう)。
 このような遠隔操作による学習の場の形成。モチベーションを上げ、社会性を身につける機会があるのなら、物理的に集まるのも最小限でいい。イリイチの言う「脱学校」的な学習の場を、IT利用による遠隔教育によって成立させることが今まで以上に可能になったように思える。

 アンドロイドを用いる時代になると、通信教育の意味合いが一段と高まるように思われる。遠隔教育と、通常の学習(学校に行き一箇所に集まっての授業)の意味合いがそれほど変わらなくなっていくからだ。

注 現在、インターネット上で授業を受講する遠隔教育においても、時間を定めて(例えば火曜日20:00-23:00の間だけ受講できるなど)受講するシステムをもつところが多くなっている。各人が好きな時にテキストを用いて学習する場合、縛りが弱いため学習者がかえって学習できなくなるところがあるからだ。そのため、「いつでも・どこでも」学習できるということが、遠隔教育のメリットというよりも「学習が進まなくなる」という意味でデメリットだと考えられてきている。実質、「いつでも・どこでも」学習できるという「自由」の重みが個々人の負担になっている。

2012年1月13日金曜日

自分を支えてくれる「実践コミュニティ」の形成

仕事で「つぶされない」ために、自分を支えてくれるコミュニティを作っておこう。

これはウェンガーのいう「実践コミュニティ」である。勝間和代が『ズルい仕事術』で上げた「レバレッジ力」も、つまるところ自分を支えてくれる人びととの良好な人間関係の形成について述べたものだ。

「支え」というセーフティネットが日本にないことを批判する声が多い。ないならば少なくとも自分の周りにつくる。それが大切だろう。

2012年1月11日水曜日

瀧本哲史, 2011, 『僕は君たちに武器を配りたい』講談社。

「労働者の賃金が下がったのは、産業界が「派遣」という働き方を導入したのが本質的な原因ではなく、「技術革新が進んだこと」が本当の理由だからだ」(65)

1999年のiMacというカラフル+スケルトンボディのパソコン。
「アップルの苦境を救ったのもスペックや機能ではなく、「色」や「デザイン」だったのである」(142)

起業するなら、「自分が働いている業界について、どんな構造でビジネスが動いており、金とモノの流れがどうなっていて、キーパーソンが誰で、何が効率化を妨げているのか、徹底的に研究するのである」(172)

「起業家が新しいビジネスを見つけるときの視点として、「しょぼい競合がいるマーケットを狙え」という鉄則がある」(175)
→自分の会社について「その会社が潰れる前に退職し、その会社を叩き潰す会社を作るのである」(178)

☆イノベーション(技術革新)とは「実は「新結合」という言葉がいちばんこの言葉の本質を捉えた訳語だと私は考えている。既存のものを、今までとは違う組み合わせ方で提示すること。それがイノベーションの本質だ」(183)

「つまりリーダーには、優秀だがわがままな人をマネージするスキルも大切だが、優秀ではない人をマネージするスキルのほうが重要なのである。ダメなところが多々ある人材に、あまり高い給料を払わずとも、モチベーション高く仕事をしてもらうように持っていくのが本当のマネジメント力なのだ」(190)

「資本主義の社会では、これまで述べたように、自らが会社を興して事業を営むか、あるいは自分が株主として会社の利益に応じて報酬を得られる仕組みを構築することが大事となる。その場合に欠かせないスキルが、人をどうやってマネジメントするか、というリーダーシップのとり方なのである」(191-192)

「資本主義の国で生きる以上、株主(投資家)の意思のもとに生きざるを得ない、ということなのだ。それならば、自分自身が投資家として積極的にこの資本主義社会に参加したほうが良いのではないか、というのが私からの提案なのである」(217)

「「自分でリスクが見えて管理できる状態」とは、何らかの仮説に基づいて投資を行った後で、その仮設が間違っていると気づいたら、いつえも手仕舞いできる準備をしておく、ということである。
 自分がとろうとしているリスクの大きさを、正確に見極めよ。そのリスクに責任がとれると踏んだならば、臆せずに投資せよ。それが投資家として生きる上での鉄則なのである」(232)

「「売り物がある人」は必ず「武器」として英語を身につけるべきだ。まだ「売り」がない人は、英語の勉強をやる前に「自分の商品価値」を作ることが何より大切なのである」(266)

「社会に出てから本当に意味を持つのは、インターネットにも紙の本にも書いていない、自らが動いて夢中になりながら手に入れた知識だけだ。自分の力でやったことだけが、本物の自分の武器になるのである。資本主義社会を生きていくための武器とは、勉強して手に入れられるものではなく、現実の世界での難しい課題を解決したり、ライバルといった「敵」を倒していくことで、初めて手に入るものなのだ。そういう意味で、ギリシャ神話などの神話や優れた文学が教えることは、人生の教訓を得るうえでも非常に有効だと私は考えている」(281)

2012年1月8日日曜日

『僕は君たちに武器を配りたい』

「起業や商品で差をつけることは難しい。差をつけるには、ターゲットとなった顧客が共感できるストーリーを作ること」(瀧本哲史, 2011, 『僕は君たちに武器を配りたい』講談社.pp.145-146)

 教育も物語を共有することが一つのポイントだ。顧客満足度を上げることにもなるし、「高校時代」は繰り返せない。いわば、高校時代という思い出と学歴を購入するのが高校入学なのである。であれば、「この高校だといい物語を共有できる」というモデルを構築することが、高校にとって必要なことだ。わくわくする授業・楽しいイベントでの物語を作り上げる実践をしたいと思う。深夜アニメに高校ネタが多いのは、高校に「物語」を求める人がおおい証拠だろう。

2012年1月5日木曜日

小堀宗実, 2011, 『茶の湯の宇宙』朝日新書.

最近、アニメで『へうげもの』を観るのが好きである。その関係で茶道について若干ながら書物を読むようになった。

 本書はそういった流れで読んでいる。教員の仕事も茶道同様、「芸」である。そのため、本書は教員論として読んだ。

 茶道において、茶会において何が起きるかわからないからこそ、控えの道具など、問題があった時の用意を必ずしておく、という。たとえばお茶を立てるための茶筅(ちゃせん:お茶をかき混ぜ泡立てるのに用いるもの)を万が一落としてしまった時のため、新しい茶筅を予め用意しておく。その際、別の茶筅であることを明確にするため色の違う茶筅を出しているという。

「控えの茶筅や柄杓は、一度も使わないで済むことがよいことです。一生涯使わないかも知れないけれど、水屋(注 茶席の用意をする場所)に控えを用意しておく。これが備えというものです」(58)

 何事も用意が必要である。教育実践においても「用意」が必要だ。何も考えず授業をしてしまうことは1つの暴力である。

 そのため、いまのうちから教員実践の準備をしたいと思う。

2012年1月4日水曜日

コミュニケーション力

 コミュニケーション力が減ってきている人が多い、とよく聞く。しかし、よく考えると「コミュニケーション力がない」と相手に言い切れる人のほうがよっぽどコミュニケーション力がないと思う。

 たとえば取引先が麻雀に詳しいなら誰でも麻雀を勉強してからコミュニケーションしにいく。しかし、若者と会話が上手くいかない時、「若者と会う話題は何か」学ぶ努力をせず、自分の側の努力を棚に上げ、相手がコミュニケーション力がないと決め付ける。

 社会学ではこういった片方が一方的に不利な側を押し付けられることを「権力」と呼ぶが、まさに権力的状況がそんざいしているのである。

2012年1月1日日曜日

マイケル・S・チウェ, 2001, 『儀式は何の役に立つか−−ゲーム理論のレッスン』(安田雪訳, 2003, 新曜社)。

アメリカではアメフトの試合の視聴率はものすごく高い。プロのアメリカン・フットボールチーム全米一を決めるのがスーパーボウルである。毎年2月に開催され、現在までなんと21年連続で視聴率40%を獲得している恐ろしいスポーツイベントとなっている。

 アップル社の戦略について本書はこう述べる。「スーパーボウル放映中にテレビ・コマーシャルを打つことによって、アップル社は、単に視聴者に新型マッキントッシュのことを知らせただけではない。同時に、多くの他の人々も新型マッキントッシュのことを知らされたということを、視聴者に伝えたのである」(13)。
 このように本書では、宣伝というものが「自分以外の人もこれを目にしている」という想像が成立する場合に効果的である、という事実を伝える。「他の人も同じ物を目にしている」という想像こそ、人びとに強烈なメッセージを与えている。そういった意味で宣伝を同じ時に見るということは現代の儀式なのだと本書は述べる。
 「電話を受けた人は、他の人々も同じような電話を受けたか、どれくらいの人が受けたかを知らない。一方テレビ・コマーシャルは、少なくともある程度は共通知識である。なぜなら、テレビ・コマーシャルを見ている人は、他の人々も同じテレビ・コマーシャルを見ていることを知っているからである」(16-17)。

 宣伝というのは個人に打てばいいものではない。むしろ、「他の人も同じ宣伝を見ているのだ」という想像が成立することに意味があるのだ。

2011年12月22日木曜日

カール・シュミット『政治的なものの概念』

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カール・シュミット『政治的なものの概念』

Schmitt, Carl, 1927, "Der Begriff des Politischen", Euncker & Humblot. München.(=1970, 田中浩・原田武雄訳『政治的なものの概念』未来社)

シュミットの有名な「友・敵関係」について述べた書。国家は敵を定めることで「我々」国民を形成する。

「諸国民は、友・敵の対立にしたがって結束するのであり、この対立は、こんにちなお、現実に存在するし、また政治的に存在するすべての国民にとって現実的可能性として与えられているものである、ということは、道理上否定できないのである」(18)

「政治的な対立は、もっとも強度な、もっとも極端な対立である。いかなる具体的な対立も、それが極点としての友・敵結束に近づけば近づくほど、ますます政治的なものとなるのである」(20)

→対立を擬制することで政治はなされる。「だれを敵とみなし、敵として扱うかを決定的に判定する」(52)ことが国家や政治団体の立場である。

「「戦争を追放する」ことは、そもそも不可能である。追放できるのはただ、特定の人びと、国民・国家・階級・宗教等々であって、これらは、「追放」によって敵であると宣言されるのである。このように、厳粛な「戦争追放」も、友・敵区別を解消するものではなく、国際的な敵宣言という新たな可能性によって、友・敵区別に新しい内容と新しい生命を与えるものなのである」(57)

「人類そのものは戦争をなしえない。人類は、少なくとも地球という惑星上に、敵をもたない|からである。人類という概念は、敵という概念と相容れない。敵も人間であることをやめるわけではなく、この点でなんら特別な区別はないからである。戦争が人類の名においてなされるということは、この単純な真理となんら矛盾するものではなく、ただとくに強い政治的な意味をもつにすぎない」(63)




 世界政府の可能性など、なかなか興味深い。シュミットは世界政府が出来、名称としての「戦争」がなくなっても、例えば「平和維持活動」などの名称などの形で戦争がなされることを指摘している(102)。

◯解説より

「シュミットは、「政治的なもの」の究極的な識別徴標を、「友か敵か」すなわち「友・敵関係」として捉える。道徳においては善・悪が、美的には美・醜が、経済において利・害(もうかるかもうからないか)が、それぞれ固有の識別徴標であるように、政治に固有の識別徴標は、「友・敵」関係だ、というわけである」(121)

「シュミットが、例外状況においては、国家は、既存の法体系や慣行・ルールを徹底的に破壊しつくしてしまうことをリアルにえがきだしていることははなはだ興味深い」(127)

2011年12月17日土曜日

コンビニに群れる高校生。

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コンビニに群れる高校生。

 教員採用の関係上、福島県いわき市に行く。帰りに少し時間ができたので(東京での予定がキャンセルされたので)湯本駅まで行った。
 居場所のない高校生たちが駅前コンビニに群れている。

 都会が巨大な娯楽空間になっているなら、田舎においてもその代補的空間が要求されてしかるべきであろう。

 田舎において居場所のない彼らが自ら「居場所」を空間に作り出す。それがコンビニであろう。人間には「清」の姿だけでは生きられない。「清濁あわせのむ」ではないが、「濁」を許す空間も必要なのだ。「濁」的空間が排斥される場合、人々は是が非でも「居場所」を創りだそうとする。
 
 コンビニの前に高校生たちが群れているというだけで批判をするのは、社会の問題点を忘れた姿である。

 帰りの電車でそう考えた。

「おわり」を言う権力性

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「おわり」を言う権力性

 昨日、野田首相が原発事故の収束宣言を出した。今日、たまたま福島県に行ったが、『福島民報』は「ふざけるな」という内容ばかりだった。「おわり」を宣言すると、もうこれ以上の「再建」はなくなる。「おわり」といって終わりにしてしまう暴力性を訴えていたのである。

コンビニに群れる高校生。

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コンビニに群れる高校生。

 教員採用の関係上、福島県いわき市に行く。帰りに少し時間ができたので湯本駅まで行った。
 居場所のない高校生たちが駅前コンビニに群れている。

 都会が巨大な娯楽空間になっているなら、田舎においてもその代補的空間が要求されてしかるべきであろう。

 田舎において居場所のない彼らが自ら「居場所」を空間に作り出す。それがコンビニであろう。人間には「清」の姿だけでは生きられない。「清濁あわせのむ」ではないが、「濁」を許す空間も必要なのだ。「濁」的空間が排斥される場合、人々は是が非でも「居場所」を創りだそうとする。
 
 コンビニの前に高校生たちが群れているというだけで批判をするのは、社会の問題点を忘れた姿である。

 帰りの電車でそう考えた。

2011年11月13日日曜日

三木清, 1954, 『人生論ノート』新潮社。

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三木清, 1954, 『人生論ノート』新潮社。

「幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である」(18)

「日常の小さな仕事から、喜んで自分を犠牲にするというに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるということは幸福の何よりもよく示すことである」(19)

「他人を信仰に導く宗教家は必ずしも絶対に懐疑のない人間ではない。彼が他の人に浸透する力はむしろその一半を彼のうちになお生きている懐疑に負うている」(27)

「すべての人間の悪は孤独であることができないところから生ずる」(43)

「創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造というのはフィクションをつくることである」(43)

「我々の怒の多くは神経のうちにある。それだから神経を苛立たせる原因になるようなこと、例えば、空腹とか睡眠不足とかいうことが避けられねばならぬ」(55)

「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである」(65)

「嫉妬は、嫉妬される者の一に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である」(69)

「一種のスポーツとして成功を追求する者は健全である」(75)

「期待は他人の行為を拘束する魔術的な力をもっている。我々の行為は絶えずその呪縛のもとにある。道徳の拘束力もそこに基礎をもっている。他人の期待に反して行為するということは考えられるよりも遥かに困難である。時には人々の期待に全く反して行動する勇気をもたねばならぬ。世間が期待する通りになろうとする人は遂に自分を発見しないでしまうことが多い。秀才と呼ばれた者が平凡な人間で終るのはその一つの例である」(90-91)

「現代人はもはや健康の完全なイメージを持たない。そこに現代人の不幸の大きな原因がある」(97)

「旅において人が感傷的になり易いのは、むしろ彼がその日常の活動から抜け出すためであり、無為になるためである。感傷は私のウィーク・エンドである」(110)

「行動的な人間は感傷的でない。思想家は行動人としての如く思索しなければならぬ。勤勉が思想家の徳であるというのは、彼が感傷的になる誘惑の多いためである」(110)

「生活を楽しむことを知らねばならぬ。「生活術」というのはそれ以外のものでない。それは技術であり、徳である。どこまでも物の中にいてしかも物に対して自律的であるということがあらゆる技術の本質である。生活の技術も同様である。どこまでも生活の中にいてしかも生活を超えることによって生活を楽しむということは可能である」(121)

「旅は過程である故に漂泊である。出発点が旅であるのではない、到着点が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味うことができない者は、旅の真の面白さを知らぬものといわれるのである」(134)

「永遠なものの観想のうちに自己を失うとき、私は美しい絶対の孤独に入ることができる」(145)


「娯楽が芸術になり、生活が芸術にならなければならない。生活の技術は生活の芸術でなければならぬ」(124)

「我々が旅の漂泊であることを身にしみて感じるのは、車に乗って動いている時ではなく、むしろ宿に落着いた時である。漂泊の感情は単なる運動の感情ではない。旅に出ることは日常の習慣的な、従って安定した関係を脱することであり、そのために生ずる不安から漂泊の感情が湧いてくるのである。旅は何となく不安なものである。しかるにまた漂泊の感情は遠さの感情なしには考えられないであろう」(133)

2011年11月1日火曜日

池上俊一, 2007, 『イタリア・ルネサンス再考−−花の都とアルベルティ』講談社.

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池上俊一, 2007, 『イタリア・ルネサンス再考−−花の都とアルベルティ』講談社.

 筆者は近代の個人主義意識の起こりを万能人アルベルティ(レオナルド・ダ・ヴィンチが劣等感を感じたほどの人物)を参照しつつ論を進めている。

「イタリアで、かように急速に印刷術が普及したのは、ものを書く学者・作家が多く、字の読める層が広範にあり、しかも学校や個人的勉学での使用のほか、仕事(法律家・医者・聖職者)、趣味、敬神などで大量に書物の需要があり、産業として成立する素地があったから|であろう」(76-77)

ルネサンスにおいて「女性が公的空間から排除されたのは、女性の〈名誉〉を守るためでもあった。彼女らの〈名誉〉の中心要素とは、貞淑・純潔えあり、それを失うことは深刻な社会的結果をもたらす。なぜなら〈名誉〉は、個人のそれにせよ家族のそれにせよ、自力だけでどうなるものではなく、他者から見られた社会的価値の相対であったから」(151)

「彼(☆アルベルティ)は、子供は、乳児期には父親の手ではなく、優しく静かな母親に育てられるべきであるとするが、その後の教育は、父親の務めだとしている」(177)

「ルネサンス分化の精華を生み出した芸術家や思想家の伝記、とりわけアルベルティやギベルティの自伝に表れているのは、とてつもない、己の天賦の才と美徳への賛嘆と自恃であり、これは、「個人主義」の宣言として、ブルクハルトのように読むことがたしかに可能である」(229)

「アルベルティにとっての〈美徳〉は、人間の地上での健全な活動を保障するが、その活動の領域が〈時間〉である。『家族論』のジャンノッツォ(☆アルベルティ『家族論』の登場人物)は〈時間〉について、身体・|魂とならんで、人間が自分の占有物だといえるものだ、としているのは興味深い。ところが他人に与えることのできぬ、という意味ではたしかに自分のものだが、その「使い方」は、その人の意志いかんにかかっている。だから〈時間〉とは、行動の可能性、文化・教養の運用そのものであり、したがってそれは、〈美徳〉の活動領域なのだ。
 〈勤勉〉は、もっぱら市民関係のなかで行われ、家族や国家の繁栄をもたらし、富の花を咲かせる。人間の価値は〈勤勉〉のなかにのみ存する。人間は人間のために役立つよう生まれたのであり、いつも社会で活動しつづけるために生を享けたのであり、怠惰以上の罪はなく、高邁で崇高な目標に向かって努力することで、自らのうちに完全な〈美徳〉を実現できる。〈勤勉〉が実現する〈美徳〉。
 だが、〈無為〉にもじつは二種類あり、悪しき怠惰のほかに、ユマニストのための〈無為〉=〈閑暇〉がある。〈勤勉〉のうち最高のものは、文学研究であり、それは、まさに〈閑暇〉においてしかありえない。自由時間は、〈無為〉でありつつ〈勤勉〉なのだ。こうした〈時間〉の質についての差異化は、ユマニスト特有の考え方だろう」(266-267)

「アルベルティの拠り所は、政治ではなく、家族だけだった。そして自ら家族に与えた新理念のおかげで、権威主義へと落ち込む危険を免れていた。彼の最終的なメッセージは何か。それは家族と都市を同到させること、そして世界中に〈自然〉を模範とする人工の美を押し広めることによって人類を救出することだった。「家族イデオロギー」と「都市イデオロギー」に深くコミットすると見せかけながら、〈普遍〉と〈多様性〉の理念を梃子に、芸術の|〈装飾〉と言葉の〈修辞〉であらゆるイデオロギーを骨抜きにする、これが彼の人生と思考を貫く方法であった」(291-292)

「他のユマニストと異なり、大学で教鞭をとらず、パトロン(権力者)にすがって生きることもなく、最後まで私人として公に尽くす道を探ったアルベルティ、経験主義者であると同時に理想主義者でもあり、深刻な問題を論ずるときも快活で機知に富み、しかも威厳を失うことがないアルベルティ、彼の生き方は、わたしの理想でもあると、告白しておこう」(303)

●解説 山崎正和
「じつは自己顕示は個人主義の産物ではなく、逆に個人主義こそ自己顕示のなかから生まれてきたという経緯だろう。最初に確立した個人があって、それが自己をみせびらかしたのではなく、むしろ見せびらかしの競争のなかで、個人は見せびらかすべき自己を発見して行ったのにちがいない」(319)
→ウェブレンの『有産階級の理論』を思い出す。

2011年10月23日日曜日

坂口恭平, 2010, 『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』太田出版.

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坂口恭平, 2010, 『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』太田出版.

 カウンターカルチャー性が面白い本。ホームレスのほうが実は「自由」で素敵に生きている、という事実を赤裸々に示している。それは炊き出しやゴミのなかから資源を捜すという「都市型狩猟採集生活」が現代日本で可能であるという事実による。なお本文では「ホームレス」とは使わない。
 映画『ダメジン』を思い出す。イリイチ的なコンヴィヴィアルな生活を示した内容。

 ドロボウ市。「開催場所は、南千住駅から徒歩で行ける、山谷地区の玉姫公園周辺だ。山谷地区というのは、台東区泪橋交差点を中心とした日雇い労働者たちが滞在する簡易宿泊所が集中する地域の通称であり、俗に言う「ドヤ街」である。
 市場は、雨の降らないかぎり毎朝五時〜七時の二時間だけ開かれる」(80)

 われわれはどの電化製品がどれくらい電気を食うか、殆ど知らない。しかし「都市型狩猟採集生活における電気との付き合い方は、まるで正反対だ。/一二ボルトで動く小型テレビは、自動車用バッテリー一台を使えば、一日五時間見たとして一〇日間ぐらいもつ。そんな具体的な数字がすらすら出てくる。つまり、電気をモノとして捉えているのである」(94)

「冬の間は、自分でお酒もつくります。スーパーで麹を買ってきて、米を四合炊く。少し水を入れ、そのあとに麹を入れて、場合によってはイースト菌も入れます。それらをかき混ぜ、蓋をしておく。一週間も置いておけば、おいしいどぶろくができあがりますよ」(128)
 なんか伊丹十三の『タンポポ』に出てくる浮浪者集団のようだ。

「水といえば、朝方、植物の葉の上に溜まっている朝露は、ぜひとも一度飲んでみてほしいです。昼は暑くて蒸発してしまいますが、夜になって気温が下がると水分は蒸発せず、朝方になって溜まって出てくる。これは完全に濾過された水であると同時に、植物の体内を通過する際にその栄養分も吸収していて、おいしいんです。これがどういうことかというと、たとえ天変地異が発生して、都市の水道機能が断たれたとしても、飲み水を手に入れる方法はいくらでもあるということです」(133)

「ぼくが繰り返し言う都市型狩猟採集生活というのは、ただの路上生活のことではない。最終的な目標は、自分の頭で考え、独自の生活、仕事をつくり出すことにある。(…)違法行為にならないように距離を取りながら自分なりの本質的な生活を見つけるという作業は、現代の冒険といっても過言ではない」(146)

「彼ら(藤本注 都市型狩猟採集生活者)は、暗黙の了解あってのことではあるが、公有地に住みながらも撤去されることなく、家を建てることに成功している。すでに、ぼくにとって、公園や川沿いに建つ〇(ゼロ)円ハウスはただの路上生活者の家ではなくなっていた。それらは、権力を持たない、力のない人間であっても、都市の中に独自の空間を獲得できるという証明そのものであった。
 ぼくはまた、彼らがそこで生活することの持つ意味や可能性に対して、自覚的であることにも感銘を受けた。
 彼らは、何一つシステムを変えることなく、すべてを自らで決断するという勇気によって、自分だけの家、自分だけの生活を手に入れているのである。つまり、社会がどんな状況になろうとも、そこから独立した生き方をしているために、常に主導権は自分自身の手を離れることがない」(174)

 イリイチ的主張を現代日本で実現すると、そのひとつの形態が「都市型狩猟採集生活」ということになるのかもしれない。

 若干、美化しすぎの気もするが、「カウンター・カルチャー」の初めはそういう過度な美化から「こちらのほうが実はいいのではないか」という感覚を広める必要がある。まあ、仕方ないか。

大村敦志・東大ロースクール大村ゼミ, 2011, 『22歳+への支援 ロースクールから考える大学院生の「支援システム」』羽村書店.

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大村敦志・東大ロースクール大村ゼミ, 2011, 『22歳+への支援 ロースクールから考える大学院生の「支援システム」』羽村書店.

大村敦志・東大ロースクール大村ゼミ, 2011, 『22歳+への支援 ロースクールから考える大学院生の「支援システム」』羽村書店.
修士課程2年 藤本研一


 良くも悪くもロースクールの院生がつくった、という感じが強い本。この程度の水準・内容で出版できる事自体驚きであるが、帯紙に「ロースクール白書」と書いてしまうことに笑ってしまう。
 アンケートも、例えばパーセンテージや総数を表示していないなど初歩的ミスが目立つ。また、東京大学ロースクールのゼミの有志で作成されているため、自分たちへの支援を呼びかける口調となっている。ゼミ調査の文献でなければ読まなかった本である。
 内容はインタビュー集である。普段、どのように生活しているかわからないロースクール生に対し、勉強の仕方・学費・生活費・子育て支援など、院生目線で見たリサーチである。
 インパクトが強いのはロースクールのシステムの特異性である。「司法試験を目指すロースクール生にとっては、終了後の5月に試験、9月に合格発表というスケジュールになっており、修了後の住居をどうするのか、その間の住居費はどうやって捻出するのか等の問題を抱えてい」(74)る点が特に大きい。学生寮の場合、大学院修了とともに出ていくことが必要である場所も存在するため、大学院生向けの住居支援の仕方に再考を促す内容となっている。
 また、専門職大学院の一つであるため、社会人経験者や子育てを平行して行う院生も存在するため、保育園設備の重要性を訴えるなどの内容が記載されている。
 細かく見ていくと冗長なため、結論部分のみを見ていく。

「本書で見てきた支援制度を前提にすると、ロースクール生に対する公的な支援は、学生一般または研究者養成のための支援の一環として行われているにすぎない現状があります。そしてその結果として、新しい法曹養成制度との関連で支援の空白期間(藤本注 上記のロースクールの日程を参照)が生じることになったり、支援不足のためにロースクールに通いたくても通えない人がいる可能性があります。一方、財団による奨学金に代表されるような私的な支援はそれぞれの理念に基づいており、ロースクール生に対象を絞った法曹関係者による支援なども存在します。これらの私的支援制度が公的支援の不足部分を穴埋めしているという側|面があると考えられます。(…)新しい法曹養成制度と連動し、ロースクール生のための公的支援が必要であると言うことはできないでしょうか」(118-119)

 ロースクールは通常の大学院と異なる、という指摘である。そのため今までの大学院生支援と同じ発想で考えてはならない、という主張をしている。同様の主張には次のものもある。

「ロースクール生は修了後すぐに法曹として働き収入を得るということができません。にもかかわらず、大学院を修了しているため奨学金の返還義務が生じます。したがってロースクール修了後、法曹になるまでの間、奨学金を返還しながらどのように生活していくのかが大きな課題となります」(70)

 ロースクールの特殊性を鑑みた上での奨学金制度の設備が必要であるようだ。
 その後、筆者たちはロースクールの知見を広げ、大学院生一般に話を敷衍する。

「他の分野の大学院まで見渡したうえで、「大人」ではあるけれど経済的自立のできていない大学院生とはどのような存在であるか、それに対する現在の支援制度はどのように作られているのか、今後さらなる検討が必要です」(122)

 なんとも私にとって耳の痛い内容であるが、疑問も感じる。ロースクールは本書にもあるように、学業に追われるためアルバイトをしにくい状況にある。その点、(われわれ)一般の文系大学院生とは少し異なっている。
 大学院生に対する支援、という発想を本書から私は得ることができた。しかし、本書は院生目線のため、「支援しなければならない」という主張をしている。その支援理由は社会的弱者にも法曹になる「機会の均等」の実現から論を導いている。この論理から、例えば殆ど就職先のない大学院(哲学・倫理学など)に対しても「機会の均等」の上から支援が必要であると本当に述べることが出来るのか疑問である。大学院生への支援が本当に社会的に必要であるのかの議論が更に必要であろう。「モラトリアム」として大学院に入る院生が存在する(66)ことを想定する必要がある。
 他の本書の不備として、基本的情報の記載がなされていない点があげられる。例えば東大ロースクールの学費が幾らかは当然視されているためか記載されない(筆者は110万円前後であったと記憶している)。
 本書は東大ロースクールを目指す人にとっては代え難い貴重な資料集となるであろうが、私にとってはミニコミ誌にすぎなく感じられた。
 以上。

2011年10月16日日曜日

本川達雄, 1996, 『時間ーー生物の視点とヒトの生き方』NHKライブラリ.

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本川達雄, 1996, 『時間ーー生物の視点とヒトの生き方』NHKライブラリ.

 時間の多元性を生物学の観点から語った本。子どもは大人と違う時を生きている等、なかなかに興味深い。
 人間は「本能の壊れた動物」であると岸田秀は言う。本書でもそれを証明しているようだ。

「東京ほどの高密度で住んでいる哺乳類は、どの程度の大きさのものになるのでしょうか。計算すると体重が六グラム、哺乳類として一番小さいトガリネズミのサイズです。では日本の全国平均の人口密度で住んでいる動物はどうかというと、体重が一四〇グラムですから、ドブネズミ程度。いずれにしても日本に住めばネズミ小屋暮らしになってしまうのですね」(11)


「生きものには生きものの時間があるのです。ならば当然、生きものを理|解するには、その時間を使わなければいけないでしょう」(46-47)
「子供はエネルギーをたくさん使って時間が速く進むから、一日二四時間という同じ絶対時間の間に、子供は大人よりもいろいろなことをやってたくさんの経験がもてます。だから逆に子供では一日が長く感じられるのではないでしょうか」(154)
→これは生き物全般、赤ちゃん-幼児-子ども-若者-大人-老人の時間の違いを認識することの指摘でもある。

 動きまわるのが少ない生物ほど、エネルギーの消費が少なくて済む。また寿命も伸びる。そういったエネルギー的観点から、人間の生き方を探った本である。

「日本の人口密度はネズミ程度だと冒頭で申し上げましたね。ネズミ小屋の中でゾウなみのエネルギーを使っている、これが日本人の生活ということになります」(121)

「現代人も縄文人も、体自体に大きな違いはなく、私たちの体のリズムは昔のままなのです。とすると、体の時間は昔と何も変わっていないのに、社会生活の時間ばかりが桁違いに速くなっているのが現代だということになります。
 そんなにも速くなった社会の時間に、はたして体がうまくついていけるのでしょうか? 現代人には大きなストレスがかかっているとよく言われます。そのストレスの最大の原因は、体の時間と社会の時間の極端なギャップにある、と私は思っています」(140)
→人間の動物性である。

 読んでいて思うのは、動物の悲しさである。動けば動くほど、エネルギーが必要になり多くを食する必要がある。そのため、一生に費やすエネルギーを早く使いきってしまい、寿命を迎える。一方、ほとんど動かない動物(ex. ナマケモノ)や植物はエネルギー消費が少ない分、長く生きれる。頑張ることや一生懸命さというものを問い直すことが必要だと思った。