2008年12月28日日曜日

メール転送

メールの転送機能。

送る側・送られる側相互が相手に《転送》する設定のときどういうことがおこるのだろう。

メールの無限増殖が際限なく続くか、あるいは《スパムメールだ》として排除されるか。いつか実験してみたいものだ。

映画

2008年は邦画の魅力に気付いた年だった。黒澤の偉大さ、小津の面白さをようやく知った。

いままでは洋画中心主義。チャップリンに惹かれて映画を見始めたが故の行動だ。

気軽に映画を観賞できる大学生活の有り難さ。就職活動はいいや、院に行こう。

タバコ

タバコの煙りMAXの環境から抜け出て、落ち着くためにはコーヒーの香が必要だ。リセッターとして珈琲が機能している、とでもいえようか。

2008年冬の帰省は新幹線自由席の喫煙シート。喫煙所で3時間座り続けることがいかに過酷かよく分かった。頭の働きがかなり悪くなっている実感がある。

もう2度と喫煙シートには座らぬ誓いを立てた。

2008年12月25日木曜日

お昼の争い

スタジオALTAの上に みのもんたの看板がある。お昼の争いはここでも行われているのだ。

2008年12月23日火曜日

2008年12月18日木曜日

フィンランドとコーヒーと学力

世界でもっともコーヒーを飲むのはどこの国の人であろうか?

正解はフィンランド(一人当たり)。一日に5杯以上飲む人もザラだ(『フィンランド 豊かさのメソッド』)。

ピサ調査世界一の学力の秘密もコーヒーの大量摂取にあるのかも知れない。

神秘主義

私は神秘主義が嫌いだ。

ときどき教育学の中に「宇宙との一体感を感じる」などと書くものが存在する。シュタイナー教育だけでなく、わりあい´ヒューマン`な教育学理論にも見受けられる。「宇宙との一体感」以外にも「人類みな兄弟」という形で現れることもある。

他人の信仰や主義に対し意見をいう気はさらさらない。意見を言いたくなるのは「さも当然」とばかり神秘主義的価値観を《押し付けて》くるときだ。

「たしかにおっしゃるとおり、そういう考え方もありますなあ。でも私はそうは思いませんよ」


このように言いたくなるのだ。

書評:ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』

書評:ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』*
 読まないで本書の書評を書いてみようと思ったが、それはやめることにした。
 この本はいわゆるハウツー本でも、トンデモ本でもない。れっきとした文学の本である。そもそも、『読んでいない』といっていながら、《読んだが忘れてしまった本》として著者自身の本を挙げている。
 読んでいない本についてコメントしなければならないことは、意外にある。バイヤールはこの行為を否定的に見るのでなく、逆にポジティブに見ていくことを提唱しているのだ。

読んでいない本についての言説は、自伝に似て、自己弁護を目的とする個人的発言の域を超えて、このチャンスを活かすすべを心得ている者には、自己発見のための特権的空間を提供する。(中略)読んでいない本についての言及は、この自己発見の可能性をも超えて、われわれを創造的プロセスのただなかに置く。われわれをこのプロセスの本源に立ち返らせるのである。(213頁)

 読書とは、もっと能動的であるべきだ。本を通じ、「みずから創作者になること」(217頁)をしてもいいのではないか。『読んでいない本について堂々と語る』時、頭の中で創作作用が始まる。「読んでいない本について語ることはまぎれもない創造の活動なのである。目立たないかもしれないが、社会的にこれより認知された活動と同じくらい立派な活動なのだ」(217頁)。それはまぎれもなく自分の思考であり、自分自身について語ることになるのだ。

 本を読むという行為のために、逆に自分の考えがなくなってしまうことがある。読むことによって、本質が見えなくなることがあるのだ。書評を書くのも然りである。あまりにも読みすぎた本については、何も言えない。著者が何を意図しているか、考えすぎるとかえって何もかけなくなる。学問も同じである。一年生の頃、「教育学って、要はこんなものだ」と恐れ多くも言えていた。しかし、今は「教育学って、結局何なんだろう」と却って分からなくなっている。レポートを書くときにも感じる。あまりにも多くを調査すると、「先攻研究に書かれていないだろうか」と思い、なかなか書けなくなる。思えば不思議なことである。

2008年12月16日火曜日

シェーン、三十郎、Come back !

~ヒットした映画に潜む、型あるいは図式についての一考察~

 黒澤映画『用心棒』(1961)と『椿三十郎』[1](1962)はリンクしている。もともと『椿三十郎』は「『用心棒』の続編を撮れ」との東宝の依頼で作ったため、当然といえば当然である。黒澤は続編にはせず、別の映画として撮った。しかし、主人公のキャラクターや設定は同一なのだ。[2]三船敏郎(三船美佳の父である)演じる桑畑三十郎(『用心棒』)と椿三十郎(『椿三十朗』)はどちらも≪フラッと来て、問題解決をし、フラッと去っていく≫点でつながりがある[3]。
 アメリカ映画『シェーン』(1953)も、『用心棒』・『椿三十郎』と同じく≪フラッとやってきて、問題解決をし、フラッと去っていく≫図式の映画である。今回は、ここで示した3作品の共通点・相違点を見て行きたい。

 どの作品も、≪フラッと来て≫、〈正義〉[4]の人にお世話になり、〈悪者〉一族を倒し、〈悪者〉の中で特に腕が立つもの―いわばライバル―を1対1で倒し、そしてフラッと去っていく点で共通である[5]。
 共通するそもそもの疑問として、なぜ主人公が旅をしているのか、という点が浮かぶ。主人公は腕の立つガンマンや侍であるのだが、どうして一匹狼・風来人になる必要があったのか。映画では全く描かれない。しかも利益を目的としているのでなく、任侠心からボランティアで、命の危険を冒して〈正義〉を助ける。現代風にあらわすなら、《大企業の妨害行為により、倒産寸前となった零細企業を、フラッとやってきた主人公が建て直しを図る》[6]とでも示せるであろうか。利益のためでなく、《自分の力を社会に役立てたい》との思いから行動しているといえるのであろうか。

 下に、三作品の比較対照表を作ってみた。参照していただきたい。比較してみると、時代設定や場所こそ違えど、共通する要素の多いことがお分かりになるであろう。

 この≪フラッと来て、問題解決をし、フラッと去っていく≫図式のように、ヒットする映画にはある程度の型や図式があるように考える。これから、そういった図式を見つけていきたいと思う。



[1] なお、『椿三十郎』は角川がリメイク版を2007年に出している。
[2] ほかに、『用心棒』・『椿三十郎』はBGMが同じであるという共通点がある。
[3] 『用心棒』は桑畑三十郎が農道を歩くシーンから始まる。その際、三十郎の背中が写るところから始まる。『シェーン』とも共通しているシーンだ。『シェーン』では馬上のシェーンを背中越しにアップするところから始まる。対して、『椿三十郎』では神社の境内で話し合っている武士集団の話を、三十朗が隣の部屋で盗み聞く場面から始まる。『椿三十郎』は≪フラッと来て≫とは言いがたいが、偶然いざこざ(これは主人公が世話になる〈正義〉の集団あるいは個人と、〈悪者〉間のいざこざである。各映画との対応は表を参照のこと)に巻き込まれる。
[4] あくまで、主人公や映画鑑賞者からみて〈正義〉である、との意味で〈 〉を付けている。〈悪者〉も同じである。〈悪者〉から見れば、シェーンや三十郎は《突然やってきて、敵方に味方する、よく分からない変な奴》にしか見えていないのだ。
[5] ほぼ無傷で去る『用心棒』や『椿三十郎』と違い(どちらも「あばよ」と告げて去っていく。背中のアップと共に終わる)、『シェーン』は傷だらけで去っていく(例の「シェーン、カム・バック!」との男の子の声と共に、ふら付きながら馬で去る。死を暗示しているとの見方もある)。
[6] この設定は伊丹十三の『スーパーの女』(1996)に共通している。食品スーパー「安売り大魔王」に押される、「正直屋」の社長・小林五郎のもとに、幼馴染の井上花子がフラッとやってくる。そして彼女の主導の元に「正直屋」を建て直し、「安売り大魔王」に打ち勝つ。最後は彼女と「正直屋」社長との結婚が暗示されるところで終わる。主人公が〈正義〉と一緒になる(ここでは結婚するということ。風来人が〈正義〉と一体化する、ということを意味する)点はシェーンや三十郎と違うが、≪フラッと来る≫点と《別に頼まれてもいないのに、〈正義〉に協力することになる》点は共通している。

無茶をいうな

看板にもいろいろある。なんでも書きゃいいというわけではないのだ。

2008年12月13日土曜日

映画『椿三十郎』

見た。

最近、黒沢映画が面白くてたまらない。

見ないで死ぬのは勿体ない。

いきなりの緊迫シーン。

懐手で歩く時肩を揺らす。このスタイルの格好よさ。
常に落ち着く・堂々とすることの大事さを知る。

椿三十郎の台詞は全てをメモしたくなる。

「岡目八目ずばりだ。見てみな」
「十人だ! てめえらのやることは危なくて見てられねえや」
「間抜けな味方の刀が敵の刀より危ない」
「俺だ、開けろ」

緊迫した合間に、ユーモラスなシーン。

せっかく散々助けてやっているのに、味方が三十郎をうたぐる発言。人間の忘恩を思う。

2008年12月10日水曜日

イルミネーション

今年の冬も、イルミネーションの季節だ。

この省エネブームの世の中で、イルミネーションだけが例外なのは興味深い。

友人との話で気付いた点だ。

2008年12月9日火曜日

映画評論 黒澤明『蜘蛛乃巣城』(1957年)

文豪・シェークスピアの描く悲劇は、現代にも影響を与えている。イギリスには、シェークスピア作品中の言葉だけで、一日の会話を成立させることのできる人もいるという。日本では、少なくとも黒澤明の映画に影響を与えている。この『蜘蛛乃巣城』はシェークスピアの『マクベス』を基にした作品だからだ。鑑賞後、『マクベス』のあらすじを読んでみたが、「そのままじゃないか!」との思いを強くした。ヨーロッパの話を、戦国時代の日本で成立させてしまう、黒澤の力の底知れなさを思う[1]。

 鷲津武時(わしづ・たけとき)という武士が、討伐からの帰路、森の中で「物の怪」(もののけ)に会う。老婆の姿で、物の怪は≪あなたは北の舘の主となり、蜘蛛乃巣城のお城主様になる≫と鷲津に語る。同行していた親友の三木義明に対しても、物の怪は≪あなたは一の砦の対象となり、息子が蜘蛛乃巣城のお城主様になる≫と語った。城主のもとに帰った際、二人は予言の通りの役職に新たに任命される。大して予言を信じていなかった二人の顔が、はっきりと変わる。
 鷲津自体は「北の舘の主で十分。城主を狙うなんてとんでもない」というが、妻の浅茅(あさじ)にそそのかされ、城主を討ってしまう。三木の息子を次の城主にしようとするが、またしても浅茅の説得に負け、三木とその息子を殺そうとする。三木本人は亡くなるが、息子は逃走した。
 城主と親友を殺してしまった鷲津。予言どおり、蜘蛛乃巣城の城主となるが、精神的に不安定になってしまう。部下たちをスパイと疑い、何人も斬ってしまった。
 最終的に、蜘蛛乃巣城を前城主の息子・国丸と、三木の息子・義照の軍勢に囲まれた中、鷲津は家臣たちに雨のように矢を放たれ、殺されてしまう。

 この物語では、鷲津の妻・浅茅がキーパーソンである。はじめ、鷲津は自分の名誉欲を「主君への忠誠心」で抑えようとした。しかし浅茅によってそそのかされ、主君に槍を刺してしまう。主君のみでなく、自らの出世の妨げになると考え、親友の三木すらも斬ってしまう。人間は周囲に翻弄されてしまうものであるのだ。
 確固たる意志がなければ、人間は不幸になるのかもしれない。鷲津は城主になるという、当初思っても見なかった願望をかなえることができたが、親友を殺し、家臣に信頼をおくこともできなくなってしまった。結局は家臣の手によって放たれた弓に刺されなくなってしまう。これは悲劇である。
 自分は何のために生きるのか。自分なりに考え、答えを求めようとすることだ。鷲津は意志の固い男であるが、浅茅にそそのかされると良く考えもせずに動いてしまった。短絡的行動は、時として自らの破滅を招く。常に自分をメタ認知し、可能な限り考える姿勢を保っていくべきであろう。
[1] シェークスピアの生没年は1564~1616年なので、年代的には日本の戦国時代にあたる。そのため、シェークスピアの物語とこの『蜘蛛乃巣城』は同時代性を持っている。

就活できる幸せ

私の同期の人間は、「就職活動が大変だ」というが、仕事を選べるという事はそれだけで「幸せ」なことではないか。

私の中学の友人は、高卒あるいは高校中退で、結構働いている(世間的にはフリーターな友人もいるが)。
いくら不況でも、仕事はある。そうでなければ求人雑誌は廃刊してしまう。

仕事はあるのだ。「選んでいる」からみな苦労して就活をしている。それで鬱になっている。

むしろ、「仕事を選べる」幸福を考えるべきではないだろうか。

プラス思考の有無で、人生は大きく変わるという。ならば、就活もそうである。俺は大学院の準備をしているが、プラス思考と「選択できる贅沢な悩みを持つ幸せ」を噛み締めていくべきだと自分自身に思う。

社会貢献の道を考えていくべきだ。浜口直太の本に(『勉強のルール』)「世のため・人のための思いで学べ! その人が一流になる」とある。よく自己啓発本には「自己実現こそが人生の目的」とあるが、それはおかしい。人生の目的は、どれだけ他人のために尽くせたか、他人のために行動できたかではかられるべきだ。
私も、浜口と同じ決意で、人々のために役に立つ教育学者になる。そして私の師匠にお応えをするのだ。断じて、戦いきるのだ!

教育にゴールはあるのか

教育を考える者は、「教育された姿」をイメージするが、教育にゴールはない。

学校教育で完璧を目指す事はできず、個人が「他人のために行動しよう」という意識を持ち、「そのために、学ぼう」としていけるかが大切だ。

皆、ベルトコンベアー式に、「こんな子どもに作り上げたい」と考えるが、それは無理な話であるのだ。

2008年12月4日木曜日

自己の弱い命と向かい合え!

がうじやう(強盛)にはがみ(切歯)をしてたゆむ心なかれ、例せば日蓮が平左衛門の尉がもとにて・うちふるまい・いいしがごとく・すこしも・をづる心なかれ(『兄弟抄』)

日蓮の権力との戦いは、それはそれは熾烈であった。

日蓮の文章を学ぶにつれ、自己の弱い命と向かいあう必要性を感じてくる。

もっと、強くなる!

2008年12月3日水曜日

冬の朝

冬のは世界が青い。

西武新宿線各停

6時前の西武新宿線(小川から乗る)に乗った。席はすでに半分くらい埋まってる。余裕で座れるが、俺よりはやく生活が始まる人の多さに改めて気付いた。

速読と熟読

『1分間勉強法』という本に影響を受けた。

1冊を1分で読む方法だ。

ざっと読むにはいい。しかし「血肉にする」読書には使えない。くだらない新書には使えても(『A型自分のトリセツ』など)、自らの人生や考え方を変える可能性のある本には使えない。

佐藤優は正しいわけだ。

2008年12月2日火曜日

コンビニの差別化

コンビニが2店舗あるとき、意思決定の決め手になるのは店の綺麗さである。そうにちがいない。

いやでもコンビニは綺麗にしないといけないのだ。

2008年11月26日水曜日

書評『超「超」整理法』(野口悠紀雄)

 中公新書の名作に『「超」整理法』がある。「押し出し式ファイリング」という整理法を世に提唱した本である。梅棹忠夫の『知的生産の技術』の次くらいに読んだ本だ。当時私は、中学生であった。「超」整理法とは、《紙媒体の情報は、大きな封筒にいれ、本棚の端から順に入れていく。使用するたびに、使った資料を再び端に入れる》という整理法である。項目ごとに袋を作る事をしない。一見、整理しているように見えない。けれど、使ってみれば利便性がよくわかる。
 野口は『「超」整理法』以外にも、多くの著書を持つ。そのなかでは常に、《無意味な事はしない。誤解を起こさない》という原則に従った理論を立ててきたようにみえる。『「超」整理法』では無駄な整理を批判し、『「超」発想法』ではKJ法のような機械的発想法の限界を指摘し、『「超」勉強法』では伝統的学習法を批評した。そしてそれぞれについて、新たな方法論を示した。
 『超「超」整理法』は、情報社会の現代に合う形で、野口が『「超」整理法』を書き直した本である。『「超」整理法』は今から15年前の発行。開いてみると「FAXの活用法」やウインドウズ以前のパソコンを用いた文書作成法について言及されている。
 『超「超」整理法』は、これから研究者を目指す人や知的生産を行っていきたい人にとって、福音の書となる。それは今までの「論文の書き方」や「研究の仕方」といった書籍に書かれていない技法が大量に書かれているからだ。《Gメールを使用し、データをメールするようにすれば、デジタル・オフィスは知らぬ間に完成する》、《「検索力」の重要性》、《これから必要とされるのは、問題設定・仮説構築力・モデルでものを考える力である》などなど。
 個人的に興味深かったのは、次の部分である。

問題を捉え、仮説を立てるには、「考え抜く」しかない。では、考え抜く能力を高める事は可能だろうか? 私は可能だと思う。
 確実に言えるのは、「知識が増えれば、この能力が高まる」ということだ。社会科学、人文科学の分野では、明らかにそうである。ビジネスにおいても、そうだろう。広く、日常的なことについてもそうである。
 検索で得られる個々の「情報」が断片的なフローであるとすると、それらが集積したストックが「知識」だ。その体系は「理論」と言ってもよい。たとえば、経済問題であれば、経済学の知識がこれに該当する。(pp244〜245)

 いくら「検索能力で差がつく」という時代になっても、基本的にはきちっと体系だった学問をしていく必要がある、というのだ。気軽にググれば「情報」は簡単に手に入る。しかし、それらの情報をどのように活用できるかは、体系だった知識があるかどうかによって変わってくる。
 真に「考える」ためには、体系だった勉学が必要なのだと気づいたのであった。
/野口悠紀雄『超「超」整理法』(2008年、講談社)

紅白

今年の紅白は、民放関係のアーティストが多く出る。

ポニョ、羞恥心、相棒・・・

ニュースでは「大連立紅白」としていた。

視聴者が楽しめるなら、自社ブランドにこだわる事なく、各社で協力していく。この発想が、これから重要になるだろう。

そうでないと、テレビ離れはますます進むこととなる。

2008年11月18日火曜日

人間原点に回帰せよ!

書評 神野直彦『人間回復の経済学』(2002年、岩波新書)

 大学に3年間もいれば、いろいろなウワサを耳にする。楽勝授業、「ためになる」授業のほか、アルバイト情報もかなり集まってくる。嘘か本当かは分からないが、「山崎パン」バイトの話として、次の内容を聞いたことがある。《ベルトコンベアの上を流れてくる菓子パンの上に、ひたすらゴマを振っていくだけ》。きいた瞬間、チャップリンの映画『モダンタイムス』を思い起こした。「発狂して人間ではなくなるまで、機械の指示にしたがわざるをえな」(『人間回復の経済学』75項)い仕事、とてもじゃないがやっていられない。しかし、現代の労働実体を調べていくうち、その「やっていられない」仕事をしている人々が実際に存在していることを知った。本書『人間回復の経済学』にも、言及されている。苦痛を感じるほどに非人間的な仕事を要求する、現代の企業。考えるにつれ、「就職したくないな」との思いが強くなる。
 リストラやフリーターの存在無しに、現在の経済を語ることはできない。先日もTVをマレーシア料理店で観ていると「シティ・グループが5万人のリストラ」と報道していた。《現在というきびしい時代においては、「経済」的に見てそれは仕方のないことだ》。私たちは無意識にこう考えているのではないか。著者の神野は「否!」と叫ぶ。

人間が利己心にもとづく経済人だという主流派経済学の仮説は、人間のある側面を純化した理論的仮説にすぎない。人間が経済人として生きなければならないという行動規範ではない。人間は悲しみや苦しみを分かちあい、やさしさや愛情を与えあって生きている。ところが、いつのまにやら、その理論的前提が、人間は経済人として生きなければならないという行動の規範に仕立てあげられている。(ⅱ項)

 この指摘は非常に興味深い。村上ファンド事件の際、村上氏が「金儲けしちゃダメなんですか?」という発言をしていたのは記憶に新しい。村上氏の言葉には《「経済人」であるのが正しいことだ》、との思いが込められている。村上氏のみならず、現代の資本主義や市場システムを見ていると、社会を動かすのは「儲けたい」という人間の利己心であるかのように感じる。けれど、実際のところ、それは「人間のある側面を純化した理論的仮説にすぎない」のだ。
人間原点という言葉。私の好きな言葉の一つである(余談だが、海外翻訳を読むと「最も~なもののひとつ」という言葉が多用されている。個人的には断言を逃げているようで嫌なのであるが、これも否定的意味での「大人」ワザのひとつであろう。つい使ってしまう)。神野は端的に言えば《経済システムを、もっと人間的なものとすべきだ》と主張する。
 この「人間的」という言葉は、非常に定義しづらい言葉なのである。暉峻淑子[1](てるおか・いつこ)のいう、生活面の「豊かさ」を実現すること、とでも言おうか。
人間が人間らしく生きられる社会の建設を、経済を用いて行う。これが神野のテーマである。そのために「産業社会」を超えた「知識社会」建設を行っているスウェーデンに、日本の未来の方向性を見ている。
 もともと経済という言葉は、「経世済民の術[2]」を縮めて用いられるようになった言葉である。「世の中をよく治めて人々を苦しみから救うこと」が元の意味である。人々を不幸から救うため、との意味があったのだ。現状の《リストラや搾取労働の正当化のための経済学》とは真逆である。本来は人間のため(端的には「苦しんでいる庶民のため」)に経済学があるべきであるのだ。
 経済という言葉が、人間のために作られたのであるならば、今の経済も原点に帰る必要がある。より人間的な経済システム構築を図っていくべきだといえよう。
 次に示す神野の言葉は、人間原点の経済構築を図る上で思想的支えとなるものである。

経済システムの創造主は、人間である。人間は経済システムを、人間の幸福に役立つ方向にデザインすることも、逆に人間を不幸へと導いてしまうこともできる。(185項)

人間は経済人ではない。人間は知恵のある人であることを忘れてはならない。人間の未来を神の見えざる手にゆだねるのではなく、知恵のある人としての人間が、人間のめざす未来を創造しなければならない。(187項)

 神野の姿は、私に《現状の問題を見て、「これは学問的に見て、仕方のないことだ」と思ってはならないこと》を教えてくれた。また《学問は、究極的には人間のため(人間中心主義とは違う!)であること》も伝えてくれた。教育の現状の悲惨さに対し、「仕方がないことだ」と思ってはならない。どうすればより「人間のため」の教育にしていけるのか。このテーマは私のこれから先の問題意識としていこう。(了)

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神野直彦『人間回復の経済学』(2002年、岩波新書)
[1] 岩波新書『豊かさとは何か』の著者。バブル期の日本と西ドイツとを比較し、《日本は物質的には豊かかもしれないが、生活の質の面では豊かであるといえるのか》と問題提起をした。
[2] 『新明解四字熟語辞典』では、次のように説明されている。〔世の中をよく治めて人々を苦しみから救うこと。また、そうした政治をいう。▽「経」は治める、統治する。「済民」は人民の難儀を救済すること。「済」は救う、援助する意。「経世済民」を略して「経済」という語となった〕。

じっくり学ぶ、ということ

私は、じっくりと学んでいきたい。熟読すべき本、初めて読む分野の本は、意味を理解しようと読む。インターネットを辞書とする。そして血肉にするため、打っていく。ブログや書評にしていく。そうして、教育学の本質を捉え、自ら学校を作り、教育実践を本格的にしていきたい。

本屋に並ぶ「勉強法」の本は、こういった「ゆっくりとした学び」は意図していないようだ。「すぐに結果が出る」勉強、「試験に受かる」勉強本が流行する。『収入10倍アップの勉強法』なる本があるが、高度経済成長の時代でもないのに、あたかも「学べば収入が上がる」という風に思えてしまう。思うに、学んだ結果というものはそんなすぐに出るものではない。個人的思いだが、カネのためには勉強したくはない、と思うのである。学ぶのは自分のためである。その「自分のため」とは、純粋に貨幣のための学びではない。

社会的アンバランス。

あの右翼新聞たる産経に、ほのぼの漫画『ひなちゃんの日常』が載り、主義主張の不明瞭な「中間」を自称する毎日に、風刺が強めの『アサッテ君』が載っている。同様の傾向は続き、左翼の強い朝日には『ののちゃん』という関西弁のキツい「日常」系の漫画が連載されている。読売はいわずと知れた『コボちゃん』。これは『ののちゃん』的要素と『アサッテ君』的要素が混在している。
 漫画と新聞は、必ずしも連動していない。いわば「社の良心」であるか、「無法地帯」かのどちらかである。

2008年11月17日月曜日

子どもであることの損さ

「子どもである」というだけで人間はだいぶ不利益を被っている。しなくてもいい苦労をすることになる。
例えば夜の外出。子どもを「保護しよう」としすぎると、子どもの自由は吹き飛んでしまう。中高生の不満の大部分は、電車や映画館では「大人」扱いされるにもかかわらず、社会において、また家庭においては相変わらず「子ども」と扱われるために発生する。これはどうしようもない事なのだろうか? 「大金を子どもが持つな」というのもそうである。大人は、普通に会社でジュースを飲むけれど、子どもは授業中に飲んではいけないというものそうである。
子どもであることへの不満が、非行や反社会的行動として現れる。子どもの非行は、大人を目指すだけの事なのではないか。酒・タバコは大人もする。犯罪は普通の大人が行う。万引き主婦すらいる中で、なぜ子どもだけは必要以上に処罰されるのだろうか? 大人が同様の事をしても、「この人の行く末が心配だ」とはならない。その分、社会的信用はなくなる。子どもは社会的信用のみならず、「この子の将来が心配だ」と時にはその子どもよりも道徳性の低いように見える教員によって罰される。
どうも子どもが子どもである事が難しい時代のようだ。俺はどちらかと言えば戦後までの「子どもを放っておいてくれる時代」の方が気楽であった気がする。中世的な「小さな大人」である方が楽そうである。
こういうことを西武バスの中で思った。子どもが優先席に座っており、「なんでそこに座っているのだ」との大人の視線が感じられた瞬間の着想である。

2008年11月15日土曜日

駅と交番の関係

駅のそばに必ず交番があるのは何故であろうか?

ウェブ時代のメモ術

ウェブ時代、こまごました報告メモは主語をはっきりさせてGメールに携帯から送る。

検索ワードをかければ必要な情報がすぐにでる。この日、どこにいったか、誰とあい何を話しか。

仕事の終わる度にメールすれば、PDCAサイクルもまわり始める。書く段階で思い出すからだ。

往々にして、せっかくの報告書は活用されずに死蔵される。

しかし検索できるGメールなら全ての情報が検索とともに蘇るのである。

切る喜び

この言葉には言外に「着物の着付けをマスターできないような人は『切る』という喜び」がある。