2012年3月26日月曜日
点Pとしての偉人論
弟子と共に流浪を続け、たまに祇園精舎なり、竹林精舎という原点Oに戻ってくる存在であった。
つまり、ブッダは座標平面上をつねに移動する点Pであった。
キリストもそうであり、ムハンマドも原点Oから追放された点Pである。
流浪し続け(=ノマド)、1点に逗まらないからこそ多様な図形を座標平面上に描くことが出来た。
彼らは、常人には先の読むことのできないグラフを描き続けたのである。
その座標平面上に描かれた図形こそ、「聖書」なり「経典」なりに結実したのであった。
他者救済の要は移動性にある。
要は1点のみに自己を固定せず、常に移動し続ける点Pで在り続けることが求められる。
その過程の中で、哲学的知見なり宗教的着想を得ることになるのだろう。
(カントを除く)偉人たちは点Pであった。
せっかく札幌に行く私も、気分だけでも点Pになりたいと思う。
岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント
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岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント |
岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント
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岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント |
2012年3月22日木曜日
生徒も「わくわく」を求めている。
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生徒も「わくわく」を求めている。 |
2012年3月20日火曜日
映画『だんらんにっぽん』
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2012年3月19日月曜日
私が早稲田で学んだこと。
たとえば高校生時代の「切実な」悩みは「部活と勉学をどうやって両立するか」だった。
この背景には、「部活もやりたい。でも受験で結果も出したい。どうやったら両方うまく行くのだろうか」という思いが存在している。
この「悩み」を解決する方法は、当時の私が考えたもので3つある。
①部活のみに力を注ぐ。
②勉強のみに力を注ぐ。
③部活と勉強、両方に力を注ぐ。
①の場合、受験勉強がうまく行かなかった場合、その「後悔」を感じないか、というリスクがある。
私の高校はある大学の「系列校」(付属校みたいなものだが、学校法人が違う)であった。
私の同期生はみなその系列の大学に「推薦入学」する。
それでいいのであれば、①の選択は可能であった。
②の場合。①の逆であるが、そもそも私の高校では「勉強」しかしない人に対する評価はあまり高くなかった。
むしろ生徒の委員会活動や部活動、文化祭などに強く関わることが評価されていた。
③の場合。両方やるというのはもっともリスキーだ。
なぜならば、両方ダメな結果しか残せない場合があるからだ。
プロセスに満足できるなら、③が薦められる。
結局私は、③をやる形となった。厳密には私は生徒会活動が「両立」の一方の軸であった。
③の解決策こそ、「たいへんだけど、自分を成長させる」ものだと信じたからだった。
じっさい、私の高校の友人達の間でも、③の選択肢がもてはやされていた。
早稲田に入って学んだのは、①②③とも違う④の選択肢の存在だった。
④部活も勉強も、両方やらない。
④の選択肢の「すごさ」は、①〜③の前提をすべてひっくり返すところにある。
はじめは④を「不真面目」と思ってしまうことと思う。しかし、「そもそも、部活も勉強も、そんなに大事なのか」という問いかけをする点に、意味があるのである。
①〜③は「何かをしないといけない」という強迫観念に駆られた選択であった。
しかし、④は「それ以外にもやり方があるんじゃないの」という思いを提示するものだった。
④の発想を一度することで、①〜③の選択肢が生きてくる。
それは、①〜③は「何かをしないといけない」というマイナス志向から発している点である。
①〜③すべて、「まわりの評価」を求めている点では共通である。
つまり、何かで結果を出し、「まわり」から評価されたい、という思いが表れているものなのである。
「自分が本当に何をやりたいのか」が問われていないのだ。
学習心理学では、「内発的動機づけ」と「外発的動機づけ」という概念を用いる。
昔、「テストで100点とったら、ゲーム機を買ってあげるわよ」と親に言われた経験を持つ人はいないだろうか。
残念ながら私の親はそうではなかったのだが、この場合が「外発的動機づけ」である。
つまり、「誰かに何かをもらえるから」勉強する、という態度である。
「誰かにほめられるから」「評価されるから」学ぶという態度だ。
この「外発的動機づけ」、はじめは効果を発揮する。
しかし、勉強して「ゲーム機を買ってもらった」あとには、効果がなくなる。
ただそれだけの効果しかない。
一方、「内発的動機づけ」は異なる。
自分が「これを学びたい!」という思いから発している。
「これを学び、仕事に役立てたい」という思いからの学習である。
心理学的には「外発的動機づけ」よりも「内発的動機づけ」の方が効果的だ、という。
④の選択肢を考えることは、「内発的動機づけ」について考えることでもある。
つまり、「本当に受験も部活も、やる価値があるのか」という問い直しが可能になる。
今だから言えるが、高校生の時の私はまわりの「すごい」友人にコンプレックスを持っていた。
自分も、まわりから「すごい」と言われるようになりたい。
そんな「他人からの評価」が欲しくてたまらない弱い人間であった(今もそうかもしれない)。
そのため、受験も部活も、「本当に」やりたいことだったかと言われると疑問を感じてしまう。
ただ「東大に合格する自分」が、友人たちから「評価」されることだけを求めて、私は受験勉強をしたのであった。
受験勉強で結果を出しながらも、部活でも結果を出すことで「すごい」と言われたかっただけなのであった。
生徒会活動に精を出したのも、もとはといえば「すごい」と評価されたいだけであった。
④を考えるまで、私は厳密な意味で受験勉強をやる意味や部活動をやる意味を考えていなかったことに気づいたのであった。
ここまで考えれば、①〜③の選択肢の「甘さ」が見えてくるはずである。
なぜ「部活」か「勉強」かということで悩まないといけなかったのか、という根本原因が見えてくる。
それが早稲田で学んだ④の選択肢である。
要は私は他者からの評価をもとめていたのである。
「外発的動機づけ」でしか動いていなかったのだ。
この文章を読んでくださっている方には、あまり④の選択肢の意味が伝わっていないかも知れない。
しかし、④を一度考えることはすごく重要なのだ。
④を考えた後、①〜③の選択肢を見ると、①〜③の内容をさらに深めることが出来る。
やってみよう。
①' 部活が楽しいから、部活に力を注ぐ。
②' 学習するのが楽しいから、学習に力を注ぐ。
③' 部活も勉強も両方楽しいから、両方やって両方とも楽しむ。
要は他人の評価のために一生懸命やる必要はなかったのだ。
早稲田で学んだ④の選択肢は、①〜③の内容を豊かにしてくれたのだ。
④の選択肢のお陰で「部活か勉学か」という「偽の二項対立」を乗り越える事ができるんのだ。
④の選択肢の存在は、私の持つ、物事への見方を大きく変えてくれた。
これが「大学」に行く意味であるし、学問をする意味なのだなあ、としみじみ思う。
2012年3月18日日曜日
金銭やものを媒介にしての教授でなければ、人は学習しないのではないか仮説。
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金銭やものを媒介にしての教授でなければ、人は学習しないのではないか仮説。 |
2012年3月16日金曜日
デュルタイ『教育学論集』日本デュルタイ協会訳, 以文社, 1987。
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デュルタイ『教育学論集』日本デュルタイ協会訳, 以文社, 1987。 |
2012年3月15日木曜日
リチャード・ワイズマン, 2002, 『運のいい人、悪い人 運を鍛える四つの法則』矢羽野薫訳, 角川書店, 2004。
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リチャード・ワイズマン, 2002, 『運のいい人、悪い人 運を鍛える四つの法則』矢羽野薫訳, 角川書店, 2004。 |
2012年3月14日水曜日
子ども虐待について
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子ども虐待について |
アイデンティティに関する一考察
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アイデンティティの確立についての話。
私の考え。
自己を確立しちゃった人はどんな人か。
それは、「ぼくはどうせ人間関係うまくないから」と引き籠もっている人である。
だから自己の確立を目標にすると、
結局は引きこもるしかない。
新たに人とも会わず、
何もせず、
自分の世界のみに浸ること。
アイデンティティの確立を目標とすると、
結局は自分の中に引きこもるしかないのである。
私は自己複数性としての
自己を作っていきたいと思う。
自分が確立する必要なんて、何もない。
「未見の我」を求め続ける姿、
なんにでも興味を持ってやっていく姿、
その過程を「自分」にしたい。
札幌に「留学」にいくのも、
それが目標だ。
もっと複雑な自己を作っていきたい。
たくさんのキャラを演じられるようになることが
幸福だと感じているからだ。
教育における日常/非日常
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2012年3月12日月曜日
寺山修司『家出のすすめ』角川文庫。
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寺山修司『家出のすすめ』角川文庫。 |
2012年2月26日日曜日
斎藤喜博, 1963, 『私の教師論』
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斎藤喜博, 1963, 『私の教師論』 |
2012年2月24日金曜日
チクセントミハイ, 2003,『フロー体験とグッドビジネス 仕事と生きがい』大森弘監訳、世界思想社、2008。
運営の統括として、司会にキュー出し・机配置の指示など、イベント運営の中心者の仕事であった。
バタバタはしていたけれど、うまくイベントとして終了させることが出来た。
その「過程」がとてつもなく充実していたことを覚えている。
このことは、チクセントミハイがいうところの「フロー体験」である。
イベントの運営に集中し、時間感覚が狂う体験。
頭や神経を使うけれど、なぜかワクワクしている感覚。
通常以上の集中力を発揮する場。
これらをまとめて「フロー体験」と呼んでいる。
また、仕事それ自体が「報酬」であるという考え方も「フロー」である。
(中谷彰宏の本のテーゼでもある)
以前私は、ブログのなかで
時間というものを失念するという「現在経験」を
誘発するものほどよい「教育」であり「学び」である、
と述べた。http://zaggas379.blogspot.com/2011/09/blog-post_06.html
チクセントミハイの述べる「フロー体験」についてを
私が記していたわけである。
大森荘蔵の「現在経験」を内面的に見た場合、
「フロー体験」と述べることが可能ではないか、と考えられる。
「フロー体験」は、ある意味で客観的理性を失った状態である。
自分がどこにいるか、何をしているかを認識することなく、
「完全にのめり込んでしまう」(48)ことで
ただ対象と合一の状態になることになるためだ。
「世界中でもっとも広く報告されているフロー活動は、よい本を読むこと、つまり、読書中に我を忘れるほど登場人物になりきり、物語に没頭することである」(49)
前に高橋和巳『悲の器』を読んでいた時も、「フロー」が起きた。
東北の帰りのJRの中で読んでいたのだが、
電車の寒さも忘れ、自分がどこにいるのか・自分がリクルートスーツを着て帰ってきていることすら忘れ、
ただ物語に没頭していた。
読み終えた時、自分が電車に乗っている目的を失念していた。
このように「フロー体験」をする対象とは人物でもよい。
フロー体験は子どもと共に過ごしている際の状態にも当てはまるという。
私は「フロー」を誘発する教員になりたい。
学ぶことに「意味」を求めるのも、もともとは違うのかも知れない。
学ぶことそれ自体が「楽しい」というのが「フロー」である。
大学院での研究も、ある意味それでありたいのだが・・・。
2012年2月23日木曜日
ニーチェ『若き人々への言葉』角川文庫、原田義人訳、1954。
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ニーチェ『若き人々への言葉』角川文庫、原田義人訳、1954。 |
2012年2月22日水曜日
2012年2月21日火曜日
無題ノート
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岡本吏郎, 2009, 『サラリーマンのためのお金サバイバル術 家・車・保険、「人並み」な買い物が破滅を招く』朝日新書。 |
2012年2月20日月曜日
ダニエル・ピンク著、大前研一訳『ハイ・コンセプト 「新しいこと」を考え出す人の時代』三笠書房、2006。
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ダニエル・ピンク著、大前研一訳『ハイ・コンセプト 「新しいこと」を考え出す人の時代』三笠書房、2006。 |
2012年2月14日火曜日
森信三, 1989, 『修身教授録−−現代に甦る人間学の要諦』致知出版社.
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森信三, 1989, 『修身教授録−−現代に甦る人間学の要諦』致知出版社. |
2012年2月10日金曜日
中根千枝, 1977, 『家族を中心とした人間関係』講談社学術文庫.
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中根千枝, 1977, 『家族を中心とした人間関係』講談社学術文庫. |
後世への最大遺物
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後世への最大遺物 |
アンドレ・モーロワ, 1939, 中山真彦訳『人生をよりよく生きる技術』講談社学術文庫。
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アンドレ・モーロワ, 1939, 中山真彦訳『人生をよりよく生きる技術』講談社学術文庫。 |
2012年2月9日木曜日
竹田青嗣, 2009, 『人間の未来−−ヘーゲル哲学と現代資本主義』ちくま新書。
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竹田青嗣, 2009, 『人間の未来−−ヘーゲル哲学と現代資本主義』ちくま新書。 |
2012年2月6日月曜日
ネコ型人材の時代。
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ネコ型人材の時代。 |
2012年2月3日金曜日
ルドン展に行く。
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ルドン展に行く。 |
2012年1月30日月曜日
埼玉の定時制高校への見学。
高校3年生の日本史の授業。
マンガを交えたプリントから、室町時代の経済について学習できるようにされていた。
定時制高校の面白い点として、雑談は確かにあるが雑談組は教室の後ろに固まり、教室前方には「ちゃんと授業を聞く」人たちが固まっていた。
定時制と全日制とが併設された学校の場合、定時制の授業は全日制の生徒の教室をそのまま使う。
結果的に、席は自由になるのだろう。
参観した授業の担当はベテランの先生。
生徒の私語を授業に織り込みつつ、授業をしていた。
また、生徒と会話をしつつ授業をしている。
こういったワザを、私も学びたいと思う。
なお、授業の後、「大学生」として生徒の前でお話をさせていただいた。
ただ、ハッキリ言って、私に話せることはあまりないなあ、と感じた。
私の高校は皆が大学に行くのが当り前。
定時制のように高卒就労や専門学校進学などがメインになる場所において、何も実際的なアドバイスをすることは出来なかった。
自分の人生経験の狭さを感じる。
「早くから就活の準備をしよう」くらいしか述べることがなかったからだ。
2012年1月22日日曜日
悩み事解決用アプリ
誰かにフリーでマック用アプリを作ってもらえないだろうか。
to-doリストへの対応が出来ると、考えた対策をすぐリスト化できて便利だろうなあ。
参考;カーネギー『道は開ける』における「悩みの追い払い方」(78)
①悩んでいる事柄を詳しく書き記す。
②それについて自分にできることを書き記す。
③どうするかを決断する。
④その決断を直ちに実行する。
2012年1月21日土曜日
遠隔教育のパラダイム転換
面白かったのはロボット(アンドロイド)を用いての学習、という内容だった。グループ学習において、遠隔操作するロボットを介入させると、学習効果が上がった、という点である(真新しいイベントだから、集中度が上がっただけの可能性も考えられるが)。
はじめ、かなり違和感があった。それは「そこまでしなくてもいいのでないか」という発想からである。しかし「可能性としてはありだな」と話を聴いていて思うようになった。例えば、長期入院者もアンドロイドの遠隔操作によって授業に参加することも可能になるたえである。
シンポジウムを見ていて、遠隔教育の新たな形として、アンドロイドやロボットを通しての学習があるのだなあ、と分かった。遠隔教育の新たな形態が出来つつあるのだ。
いままでの遠隔教育は、eラーニングなどIT技術を用いて離れた場所で学習をすることを意味した。これからはアンドロイドの遠隔操作により、アンドロイドを介しての学習を行うことが「遠隔教育」のメインテーマになるかもしれない、と思った(実際、eラーニングを用いる大学の授業ではBBSを活用する。これは離れた場所での会議であるが、アンドロイドを集め一箇所でBBS的な議論が可能となるだろう)。
このような遠隔操作による学習の場の形成。モチベーションを上げ、社会性を身につける機会があるのなら、物理的に集まるのも最小限でいい。イリイチの言う「脱学校」的な学習の場を、IT利用による遠隔教育によって成立させることが今まで以上に可能になったように思える。
アンドロイドを用いる時代になると、通信教育の意味合いが一段と高まるように思われる。遠隔教育と、通常の学習(学校に行き一箇所に集まっての授業)の意味合いがそれほど変わらなくなっていくからだ。
注 現在、インターネット上で授業を受講する遠隔教育においても、時間を定めて(例えば火曜日20:00-23:00の間だけ受講できるなど)受講するシステムをもつところが多くなっている。各人が好きな時にテキストを用いて学習する場合、縛りが弱いため学習者がかえって学習できなくなるところがあるからだ。そのため、「いつでも・どこでも」学習できるということが、遠隔教育のメリットというよりも「学習が進まなくなる」という意味でデメリットだと考えられてきている。実質、「いつでも・どこでも」学習できるという「自由」の重みが個々人の負担になっている。
2012年1月13日金曜日
自分を支えてくれる「実践コミュニティ」の形成
これはウェンガーのいう「実践コミュニティ」である。勝間和代が『ズルい仕事術』で上げた「レバレッジ力」も、つまるところ自分を支えてくれる人びととの良好な人間関係の形成について述べたものだ。
「支え」というセーフティネットが日本にないことを批判する声が多い。ないならば少なくとも自分の周りにつくる。それが大切だろう。



