2012年3月22日木曜日

生徒も「わくわく」を求めている。

From Evernote:

生徒も「わくわく」を求めている。

小阪裕司は「顧客のニーズなんかない。顧客はわくわくを求めている」と述べる。(『「惚れるしくみ」がお店を変える!』)

これは教育にも言えることだ。

ハッキリ言って、生徒は「学びたがっている」ことなんて、ない。
学びたいものもない。
「ほしい物」がはっきりしない分、「受験」をテーマに授業をすることになる。
そして「ニーズに応えている」と受験校の教員は述べる。

しかし、それは本当だろうか、と感じた。

内田樹は〈学びというのは「贈与」であり、学ぶまでは自分が何を学びたがっているか分からない〉と述べる。
何を学ぶか、なぜ学ぶか分からない状態から学習は存在すると言っているのである。

生徒は学びたがっているわけはない。
生徒は「わくわくすること」を求めている。
学校もひとつの総合サービス業である。
であれば、生徒の「わくわく」を誘発する「しくみ」を作らねばならない。

それが「この内容は面白い」「楽しい」ということが伝わる授業であろう。

私はかねがね、「ドラクエ並みに面白い微積の学習教材が開発されれば、日本の国富が増大する」と思っているが、
これも「楽しい」「わくわくする」状態を学校のなかに取り入れることになると考えられる。

昔のマグネットスクールの発想である。
学校に生徒自らが「惹きつけられる」状態を理想とする、ということだ。

この「惹きつけられる」状態、生徒に「何を学びたい?」と聞いても教えてくれるわけはない。
それはデパートの店員がお客に「何を売って欲しいですか?」と聞くことと同じである。
お客は思いつきのアイデアを述べはするが、それで売上が高まるわけではない。
顧客は自分の「欲しい物」を知らないためである。

日本人で理数が嫌いな人が多いのも、「あ、難しそう」と逃げてしまうからだろう。
案外やってみると、面白かったりする。

教員という仕事は、生徒が何をわくわくするか、見極めながら授業をすべき、
恐ろしく高度な「総合サービス業」なんだなあ、とつくづく思う。

もっと修行せねば。

2012年3月20日火曜日

映画『だんらんにっぽん』

From Evernote:

映画『だんらんにっぽん』

愛知にある、南医療生協について取り上げた映画。

組合員の出資と運営で成り立つ医療福祉制度である。

興味深いのはリアリティに関する話。
三菱重工でロケットを開発していた技術者の男性が、
ある日痴呆になる。
その人は毎日会社に行くと考えているため、デイサービスセンターに行くときも
以前の職場の前を通って行く。
そしてデイサービスの場でも「はやく会社に行かないと」とスタッフに話しかける。

スタッフは彼との関わり方を考える。
出張が多かった彼がお土産をよく買いに行っていたことに注目する。
そのため、観光地的なスーパーまで来るまで行き、彼に食材を選んでもらうようにしたのだ。
彼は自分のリアリティを周りが尊重してくれていることに感謝し、おとなしくなる。

見ていて気づいたのは、他者のリアリティをなるべく受け入れ、それを生かす努力をスタッフがしている点である。
企業人であった利用者が、仕事の誇りを持ち続けられるよう、周りが合わせているのだ。

この姿勢、重要だなあ、と思った。

2012年3月19日月曜日

私が早稲田で学んだこと。

私が早稲田で学んだのは「偽の二項対立をするな」ということだった。
 たとえば高校生時代の「切実な」悩みは「部活と勉学をどうやって両立するか」だった。
 この背景には、「部活もやりたい。でも受験で結果も出したい。どうやったら両方うまく行くのだろうか」という思いが存在している。
 この「悩み」を解決する方法は、当時の私が考えたもので3つある。

  ①部活のみに力を注ぐ。
  ②勉強のみに力を注ぐ。
  ③部活と勉強、両方に力を注ぐ。

 ①の場合、受験勉強がうまく行かなかった場合、その「後悔」を感じないか、というリスクがある。
 私の高校はある大学の「系列校」(付属校みたいなものだが、学校法人が違う)であった。
 私の同期生はみなその系列の大学に「推薦入学」する。
 それでいいのであれば、①の選択は可能であった。

 ②の場合。①の逆であるが、そもそも私の高校では「勉強」しかしない人に対する評価はあまり高くなかった。
 むしろ生徒の委員会活動や部活動、文化祭などに強く関わることが評価されていた。

 ③の場合。両方やるというのはもっともリスキーだ。
 なぜならば、両方ダメな結果しか残せない場合があるからだ。
 プロセスに満足できるなら、③が薦められる。
 
結局私は、③をやる形となった。厳密には私は生徒会活動が「両立」の一方の軸であった。
③の解決策こそ、「たいへんだけど、自分を成長させる」ものだと信じたからだった。
 じっさい、私の高校の友人達の間でも、③の選択肢がもてはやされていた。

 早稲田に入って学んだのは、①②③とも違う④の選択肢の存在だった。

  ④部活も勉強も、両方やらない。

 ④の選択肢の「すごさ」は、①〜③の前提をすべてひっくり返すところにある。 
 はじめは④を「不真面目」と思ってしまうことと思う。しかし、「そもそも、部活も勉強も、そんなに大事なのか」という問いかけをする点に、意味があるのである。

 ①〜③は「何かをしないといけない」という強迫観念に駆られた選択であった。
 しかし、④は「それ以外にもやり方があるんじゃないの」という思いを提示するものだった。

 ④の発想を一度することで、①〜③の選択肢が生きてくる。
 それは、①〜③は「何かをしないといけない」というマイナス志向から発している点である。
 ①〜③すべて、「まわりの評価」を求めている点では共通である。
 つまり、何かで結果を出し、「まわり」から評価されたい、という思いが表れているものなのである。
 「自分が本当に何をやりたいのか」が問われていないのだ。

 学習心理学では、「内発的動機づけ」と「外発的動機づけ」という概念を用いる。
 昔、「テストで100点とったら、ゲーム機を買ってあげるわよ」と親に言われた経験を持つ人はいないだろうか。
 残念ながら私の親はそうではなかったのだが、この場合が「外発的動機づけ」である。
 つまり、「誰かに何かをもらえるから」勉強する、という態度である。
 「誰かにほめられるから」「評価されるから」学ぶという態度だ。
 この「外発的動機づけ」、はじめは効果を発揮する。
 しかし、勉強して「ゲーム機を買ってもらった」あとには、効果がなくなる。
 ただそれだけの効果しかない。
 一方、「内発的動機づけ」は異なる。
 自分が「これを学びたい!」という思いから発している。
 「これを学び、仕事に役立てたい」という思いからの学習である。
 心理学的には「外発的動機づけ」よりも「内発的動機づけ」の方が効果的だ、という。

 ④の選択肢を考えることは、「内発的動機づけ」について考えることでもある。
 つまり、「本当に受験も部活も、やる価値があるのか」という問い直しが可能になる。
 今だから言えるが、高校生の時の私はまわりの「すごい」友人にコンプレックスを持っていた。
 自分も、まわりから「すごい」と言われるようになりたい。
 そんな「他人からの評価」が欲しくてたまらない弱い人間であった(今もそうかもしれない)。
 そのため、受験も部活も、「本当に」やりたいことだったかと言われると疑問を感じてしまう。
 ただ「東大に合格する自分」が、友人たちから「評価」されることだけを求めて、私は受験勉強をしたのであった。
 受験勉強で結果を出しながらも、部活でも結果を出すことで「すごい」と言われたかっただけなのであった。
 生徒会活動に精を出したのも、もとはといえば「すごい」と評価されたいだけであった。
 ④を考えるまで、私は厳密な意味で受験勉強をやる意味や部活動をやる意味を考えていなかったことに気づいたのであった。
 
 ここまで考えれば、①〜③の選択肢の「甘さ」が見えてくるはずである。
 なぜ「部活」か「勉強」かということで悩まないといけなかったのか、という根本原因が見えてくる。
 それが早稲田で学んだ④の選択肢である。
 要は私は他者からの評価をもとめていたのである。
 「外発的動機づけ」でしか動いていなかったのだ。
 
 この文章を読んでくださっている方には、あまり④の選択肢の意味が伝わっていないかも知れない。
 しかし、④を一度考えることはすごく重要なのだ。
 ④を考えた後、①〜③の選択肢を見ると、①〜③の内容をさらに深めることが出来る。
 やってみよう。

①' 部活が楽しいから、部活に力を注ぐ。
②' 学習するのが楽しいから、学習に力を注ぐ。
③' 部活も勉強も両方楽しいから、両方やって両方とも楽しむ。

 要は他人の評価のために一生懸命やる必要はなかったのだ。
 早稲田で学んだ④の選択肢は、①〜③の内容を豊かにしてくれたのだ。
 ④の選択肢のお陰で「部活か勉学か」という「偽の二項対立」を乗り越える事ができるんのだ。
 
 ④の選択肢の存在は、私の持つ、物事への見方を大きく変えてくれた。
 これが「大学」に行く意味であるし、学問をする意味なのだなあ、としみじみ思う。

2012年3月18日日曜日

金銭やものを媒介にしての教授でなければ、人は学習しないのではないか仮説。

From Evernote:

金銭やものを媒介にしての教授でなければ、人は学習しないのではないか仮説。

論語にはこうある。

「先生がいわれた、「乾肉(ほしにく)一束を持ってきたものから上は、[どんな人でも]わたしは教えなかったということはない」(金谷治訳注『論語』岩波文庫, 130頁)

ここを大幅に飛躍して解釈すると、
人に物を教える際、必ず何か「代価」を払わせるということが重要、とは言えないか。

学ぶモチベーションを簡単に上げる方法。
それが相手から幾ばくか金を取る、ということだ。
孔子の場合は目上の人へ教わる「礼」として、「乾肉一束」がルールであった。

このように何かを受け取るからこそ、学び手の側に「学ぼう」というモチベーションが起きたのではないか。

無料でやる芝居は客の反応が薄くなる、という。
たとえ500円でも払わせないと、客は主体的に芝居に関わろうとしない。
「金を払っているのだから、もとをとろう」と主体的になる。
だから無料で芝居をしてはならないのである。

教育もそうである。
授業は一方的な「贈与」であると解されている。
それゆえ、生徒は「受け身」になる。
教室でただ受け身で授業を聞くだけならば、本当につまらない。
「内職」だってしたくなるし、そもそも授業に出る意味がわからない。
(厳密にはちゃんと「授業料」が親なり、地方自治体からなり払われているのだが、生徒から直接払われていないため、リアリティがない)

しかし、仮に授業の際に500円を払うなり物納を義務付けるとどうなるか。
生徒は少なくとも「もと」を取ろうとする。
教員に多くを求めるようになる。
「授業」に値しない授業を堂々と批判できるようになる。
これは教員にとっても、授業実践に反省的関わりをすることを求めさせる(佐藤学のいう「反省的実践家」としての教師、である)。
教員の「自己研修」の必要性が高まる。
「お金をとれるほどの授業をしているのだろうか」と自己を振り返ることになるからだ。
(余談だが、私の勤務校でははっきりと「あなたの授業は商品になるか」を教員に求めている)

私は今までいろんな授業を受けてきて、「授業」に値しない無意味な授業も多く経験してきた。
そういった教員に反省を求めることも、「金銭」や「もの」を授業に際し受け取ることで可能となる。

内田樹は「不快貨幣」についてを述べる。
いまの「若者」がだらだら授業を聞き、だらだら過ごすのは、意識的に「自分は不快だ」という思いを相手に伝えるためだ、
と述べる。
これは「つまらない授業をなぜ私は受けないといけないのか」という思いに対する返礼である。
「つまらない授業」を一方的な「贈与」として受け取る分、何かを反対給付剃る必要がある(モース『贈与論』以来のテーゼだ)。
それが「不快貨幣」だ、と内田樹は説明するわけである。

この内田樹の説明を「乗り越える」には、授業に対し授業料をその場で払うか、物納をするということがあげられるだろう。
これにより、少なくともこの授業に対し自分は幾ばくか金を払っているのだ、という認識を与えることが出来る。
だからこそ、「役に立たない」授業・「つまらない」授業(両者は微妙に違うのだが、ここでは一括する)を生徒自身が見極めることができるはずである。

孔子だって、無料では相手に教えていない。
「労働」である以上、これは仕方ない。
しかし、「金が取れる」ような授業をしているかどうかは教員が常に自覚的であるべきであろう。

2012年3月16日金曜日

デュルタイ『教育学論集』日本デュルタイ協会訳, 以文社, 1987。

From Evernote:

デュルタイ『教育学論集』日本デュルタイ協会訳, 以文社, 1987。

17世紀の普遍妥当的教授学「われわれの知性が完成していく自然の歩みは教授を通してであり、そしてこの教授は経験から抽象的な真理へ、生き生きとした言語からその規則へ、子どもの最も身近な環境から遠方にある物の定位へ、と進行していくのである」(23)

「教育はそれ自体目的なのではなく、手段として心的生の発展に資するものだからである」(30)

「われわれの本質の、全然言い表されない不調和はすべて、この根源的な多様性に拠るのである」(34)

「教育は、成人した者が時代を担う者の心的生を形成する計画的な活動を意味する。他の目的に向けられた活動であっても、副次的に結果として教育にいたるときには、より広い視点から、教育という表現が用いられる」(39)

「教育の使命は、意図的体系的手段によって、個人が自主的に自らの決定したことを遂行できる状態にまで、個人を発達させることである。それゆえ、人間の運命に関する一切の経験に応じて、個人がもっている情緒や意志や観念の世界を発達させることが、すべての教育の究極的目標なのである」(62)

「個人が自己の全心情力をもってこれらの世界に完全に入り込み、つまり適切なる場において、自己の能力に応じて、自己の満足と全体の利益のために、この文化および文化の使命に関与すること、これが教育の最高の使命である」(63)

「個人は社会のなかにあってのみ性格の統一へと形成される|し、個人においてこうした陶冶が可能であるがゆえにこそ、人類もまたその性格の統一を得ることができるのである」(151-152)

「教育学は目標を立てることによってのみ有りうるのである。目標は倫理学がこれを説くが、しかし倫理学は普遍妥当的ではない」(174)

「すべての国民および時代に対して教育問題を規定することを決定することを決定しうるような普遍妥当的な教育学は、ひとつも存在しないのである」(183)

「教育史の基礎的な研究のいずれもが教えるところだが、真の改革は教室での普段の骨の折れる教育活動を介してのみ成就されるという命題は、人々の騒々しくさわぎたてるなかでは聞きとられない」(193)

●解説
「スペインの思想家オルテガ・イ・ガセットはデュルタイの主要な理念を明白に要約した。彼はいう、「デュルタイによれば、人間は何一つ本質というものをもたない。人間がもっているものは歴史だけである」と」(244)

「教育学は「教育という現象そのものを提示し、これをできるだけ明らかに心理学的に分析する」学問であり、とりわけ「教師と生徒の関係の叙述」を事とする学問である。そしてまさにこのことがデュルタイの教育学体系の中心課題であった」(254)

2012年3月15日木曜日

リチャード・ワイズマン, 2002, 『運のいい人、悪い人 運を鍛える四つの法則』矢羽野薫訳, 角川書店, 2004。

From Evernote:

リチャード・ワイズマン, 2002, 『運のいい人、悪い人 運を鍛える四つの法則』矢羽野薫訳, 角川書店, 2004。

「運がいい」と思っている人のほうが、相対的に「幸福」になり、「成功」しやすくなる、という本。

著者は「自分は運がいい」と思っている人・「運が悪い」と思っている人を比較軸にし、実験をする。
コイントスやナンバーくじの「当たり」具合をみる。

結果的に、「運がいい」と思っている人も「悪い」と思っている人も、
くじやコイントスに当たる確率に差はなかった。
「運がいい」人に特別な予知能力があるわけではないことを科学的に証明する(そのあたりがアメリカの学者だなあ、と思う)。

しかし、「運がいい」人と「悪い人」には大きな違いがある。
「運がいい」と言っている人は「悪い」という人よりも積極的に挑戦をするのである。

「運がいい」と言っている人の中には、何度も宝くじや抽選に当たる人がいる。
この人たちは、例えば「週に70通は応募する」人がいるなど、非常に挑戦的なのだ。

「運が悪い」といっている人は、そもそも応募もしないし、くじを買うこともしない。
「運が悪い」からと諦めるのだ。
だから結局なにも変わらない。

これは何もくじや抽選のみでなく、たとえばキーマンとの接触についても当てはまる。
「自分は運が悪い」と思っている人は、そもそもキーマンと会っても話しかけようとしない。
しかし、「運がいい」と思っている人はダメモトで話しかけるのだ。
そして運をものにしていく。

要はこういうこと。
「自分は運がいい」と思っている人のほうが、「悪い」と思っている人よりも人生が楽しくなる、ということだ。

「自分は運が悪い」と思っている人は、やる前から「どうせダメだろう」と考える。
だから必死になって努力しない。
うまく行かないのは必然なのだ。

一方、「自分は運がいい」と思っている人は、思わしくない障害があっても積極的に努力していく。
それは「運がいい」からこそ、「必ず乗り越えられる」と確信するからだ。

心理学、意外に面白いもんだ、と読後思う。

2012年3月14日水曜日

子ども虐待について

From Evernote:

子ども虐待について

子どもの虐待を防ぐため、政治の分野を中心に改革をしようとしている友人と飲む。

話は、いかに虐待を防ぐか、というテーマ。

旧共産圏の国のように、
親から教育権を取り上げ、
国が教育をする。
この場合、子どもがきちんと育たないなどの弊害が大きかった。

だからといって、国が許可を得た親のみに
子育てを可能にするというのも弊害が大きい。

この両者から言えるのは、子育ての権利を国が付与するという発想の仕方は難しい、ということである。
だからこそ、親自身が自分の子育てを反省的に考えていく以外にない、ということになる。

その方法を巡り、友人と語り合ったがなかなか面白かった。

私は虐待を行う家庭が貧困家庭が多いため、
貧困家庭を対象とした所得再分配を主張した。

友人はそれに対し「単なる経済の問題で解決できないのではないか」と語っていた。

なかなか、虐待をめぐる議論は難しい。
だからこそ、友人とは今後も色々語っていきたいなあ、と思う。

私は今年4月から通信制高校のサポート校で教員になる。
そのため、低学力層への支援というのを嫌でも考えさせて頂く立場になる。
教員の実践を通し、虐待といった教育問題を乗り越える方途を考えていたいと思った。

アイデンティティに関する一考察

From Evernote:

アイデンティティに関する一考察

知り合いとの話。

アイデンティティの確立についての話。

私の考え。

自己を確立しちゃった人はどんな人か。
それは、「ぼくはどうせ人間関係うまくないから」と引き籠もっている人である。

だから自己の確立を目標にすると、
結局は引きこもるしかない。

新たに人とも会わず、
何もせず、
自分の世界のみに浸ること。
アイデンティティの確立を目標とすると、
結局は自分の中に引きこもるしかないのである。

私は自己複数性としての
自己を作っていきたいと思う。

自分が確立する必要なんて、何もない。
「未見の我」を求め続ける姿、
なんにでも興味を持ってやっていく姿、
その過程を「自分」にしたい。

札幌に「留学」にいくのも、
それが目標だ。

もっと複雑な自己を作っていきたい。
たくさんのキャラを演じられるようになることが
幸福だと感じているからだ。

教育における日常/非日常

From Evernote:

教育における日常/非日常

教育が日常になると、すべてがつまらなくなる。

同じ教室、同じ友人、同じ教員。
マンネリズムに陥っていく。

そんな「終りなき日常」に、人びとは飽きてくる。

だからこそ私は「非日常」を基にした学び・教育を行なっていきたい。

セミナー、イベント、演劇etc.


2012年3月12日月曜日

寺山修司『家出のすすめ』角川文庫。

From Evernote:

寺山修司『家出のすすめ』角川文庫。

「森の石松も沓掛時次郎も、その反逆精神を発露したときには「一人」だったことをおもいだしてください」(136)

「「期待する」ということに期待しすぎると幻滅するものです」(141)

「「ヒーロー」的人物たちはすべて「怒って」いることがわかります。もちろん、それぞれに怒りの対象はちがいますが、ヒーローの最大公約数が「怒り」であることはまちがいありません」(171)

「ぼくは「自由である」と思いはじめてから、自分の可能性がぐんと拡められたような気がするようになりました。ぼくは自分のアパートを引きはらい、少しばかりの持ち物(本箱や下着類)を屑屋に売っ払ってしまったとたんに、ひどく金持ちになったような気がしたのです。つまり「何も持っていないから何でも持っている」という訳でしょうか。
 ぼくの棲家は「東京」そのものです。これは今までの一アパートよりもはるかに間取りが多くてゆたかです。レコードが訊きたいときにも、今までなら、手持ちのたった二枚しかないマル・|ワルドロンとエリッグ・ドルフィをすり切れるまで訊くしかなかったのが、今度からは街のレコード屋が全部ぼくのレコード室に早代わりできるのです。いつでも試聴室でモンクだのチャーリー・ミンガムだのを訊いてしかもタダです。
 自分の財産を眺めたいと思ったらばデパートへゆきます。デパートへ行けば何でもあります。そこでぼくは自分の持ち物の多さについて誇らしく(まるで、ソロモン大王のような気分で)点検を行います」(215-216)
→シンプルライフの極意である。

2012年2月26日日曜日

斎藤喜博, 1963, 『私の教師論』

From Evernote:

斎藤喜博, 1963, 『私の教師論』

ストイックな教師像が強い本である。


●求道者としての教師像

本書の冒頭も次の内容から始まる。

「自分の子どもは教師にはさせたくない。それは、教師の仕事が、画家や小説家や将棋さしの仕事と同じに、絶えざる創造を積み上げない限り、決してできるものではないということをよく知っているからだ。教育が芸術とにていることは、そのどちらもが、「創造」と、「質の高さ」を要求しているということを知っているからだ」(7)

まさに求道者。
「教師修業は果てがない」のである。


「仕事をすることによって傷を受けないような教師の仕事などあるはずがない。教育の仕事はどこまでも、仕事をしては自ら傷つき、仕事の結果に復讐され、それに堪えながら、歯を喰いしばり自分をむちうって、業のように仕事を続けていかなければならないものである。そして倒れていかなければならないものである。自分をいつわっている偽善的な仕事や、何のうたがいも何の挫折をないままに、事務的形式的にやる仕事からは、自分や子どもの上に、新しいものをつくり出すような仕事など、決して生まれてこないからである」(11)

道を求めるのは、斎藤喜博自身が歌人であり、
土屋文明に30年以上も師事しているということが大きいのだろう。
師を求めないとなあ、と思う。

こういう熱い教育論は、
疲れた教員にヤル気を引き起こすリポビタンDの
働きをする。

「教育は無力であり、教師の仕事は、はかない孤独な仕事である。しかし教師が、そういうはかなさを知り、無力さを知り、教師の孤独さを知ったとき、そこに新しい力が生まれてくる。そこには、思いあがりもなくなり、ムード的なものもなくなり、へんな政治主義もなくなり、教師特有の、うわついた無力感、絶望感もなくなってくる。そして、そういうところから出た教師の仕事は、はかなさを知らず、無力さを知らず、孤独さを知らないでやった場合とは、ぜんぜん異質な強いものになってくる」(13)

「教師は、恥をかき傷つきながら成長し、自分の人間や実践を太らせていくものである。だから、恥をかき、傷を多く受ければ受けるほど、教師としての人間も実践も大きくなり深くたたえたものになっていくし、そうしていかなければならないものである。それが、自分自身の実践での格闘によって受けるものであろうと、仲間との格闘によって受けるものであろうと、子どもから受けるものであろうと、いわれなき他からの悪罵や中傷によって受けるものであろうと、教師はまともにその傷を受け、満身傷だらけになりながら、不死鳥のように再生して立ち上がり、さらに高い実践へと切り込んでいかなければならないものである」(57)

●戦う教師像

「教育は、教師と子どもの苦悶と苦悶の衝突のなかに生まれてくるものである。しかもその苦悶の衝突は、授業展開のすじみちのなかに起こってくるものである。そして授業展開のなかで苦悶と苦悶の衝突が激しく起こるためには、教師の人間全体の大きく豊かな力が必要になってくる。教師に知識とか感覚とか解釈力とか人間の豊かな幅とかがあればあるほど、その教師は、授業展開のなかで、教材や子どもと激しい衝突を呼び起こし、授業を振幅の大きなものにし、そのことによって子どもを変革させ、新しい人間像をそのときどきに創り出すことができる」(25)

「教師の仕事は、創造の仕事であるとともに、一面、勝負師的なところのある仕事でもある。教師の仕事は、一時間の授業のなかで、つぎつぎと新鮮な創造を生み出していかなければならないのだが、そういう創造は、はげしい格闘のなかからしか生み出すことはできないからである。教材とか子どもとかの相手のあるなかで、自分とたたかい、教材とたたかい、子どもとたたかうなかからだけ、新鮮な創造を生み出すことができるからである」(34)

よい実践のため、組合とも行政とも、校内の教員や保護者とも、また自分自身とも「戦う教師」の姿勢が、
斎藤喜博には溢れている。

●具体的事実を基にする教師

「みんなで事実を見つけ合い、事実によって自分や仲間を変える努力をしていかなければならない。事実によって指摘し合い、懸命に自分や仲間を変えていく以外に、人間は自分を変え、自分の実践を変えていくことはできないからだ」(53)

教師が抽象的な言葉・あいまいな言葉で話しがちであることも指摘する。
それでは子どもが混乱をするし、
なにより実践を反省的に振り返ることができなくなってしまう。

人を褒めるときも、具体的事実に基づいて褒めるのが鉄則である、といろんな書物に出ている。
悩みも、できるだけ具体的な方がいい。
(例 ✕なんで不幸なんだろう ◯働き過ぎで肩こりがひどい。どこかで肩こりを治せる場所はないだろうか)

●実践者としての教師

「すぐれた実践は結果的に運動になるものだ。運動論を先に立て、運動だけをしているのは実践者のやることではない。実践者は実践に思いをひそめ、傷つき苦しみながら自分の実践をつくり出せばよい。もしそれがほんとうによいものだったら、その実践が運動を起こしていく」(61)

●驚ける教師

「私は「驚ける」ということは、人間としてもそうだが、とくに教師としては一つの重要な資質を持っているということになるのだと思っている。それは、驚いたり、たまげたりしないということは、その人間が、自然とか人間とかが持っている大きさとか、そのときどきにつくり出している美しさとかに驚かないということだからである」(69)

●「その場」の実践に全力を傾ける教師像

「「中学に行ってどうなるか」とか、「社会へ出てどうなるか」ということを考えないで、いま目の前にいる子どもの上に、瞬間瞬間の美しいものを創り出していくことができるのである。それをしないで、「中学に行ってから」とか「社会に出てから」とかいうことを言っていることは、逆にいえばずるいことにもなる。自分のいまの仕事に全力をかたむけ、そこで証明することをさけているということにもなる。そういうきびしい仕事をしていかないということになる」(171)




教員としての「仕事」を考える上で、
非常に示唆に富む本である。
しかし、本書後半ははっきり言ってだれてくる。
それは後半部分で斎藤喜博が校長を務める
島小の見学者のマナーの悪さ・意地の汚さを
「具体的事実」を挙げて(届いた手紙の引用もする)、
指摘している箇所がだらだら続くからだ。

そのため、同じ教員を目指すものとして、
だんだん読むのが辛くなる。

嫌われるのを覚悟で、
教員としての人間的成長の重要性を斎藤喜博は伝えようとしているのだなあ、と思う。

2012年2月24日金曜日

チクセントミハイ, 2003,『フロー体験とグッドビジネス 仕事と生きがい』大森弘監訳、世界思想社、2008。

2/4に早稲田で行われたシティズンシップ教育のシンポジウムの運営を行った。
 運営の統括として、司会にキュー出し・机配置の指示など、イベント運営の中心者の仕事であった。
 バタバタはしていたけれど、うまくイベントとして終了させることが出来た。
 その「過程」がとてつもなく充実していたことを覚えている。

 このことは、チクセントミハイがいうところの「フロー体験」である。
 イベントの運営に集中し、時間感覚が狂う体験。
 頭や神経を使うけれど、なぜかワクワクしている感覚。
 通常以上の集中力を発揮する場。
 これらをまとめて「フロー体験」と呼んでいる。
 
 また、仕事それ自体が「報酬」であるという考え方も「フロー」である。
(中谷彰宏の本のテーゼでもある)

以前私は、ブログのなかで
時間というものを失念するという「現在経験」を
誘発するものほどよい「教育」であり「学び」である、
と述べた。http://zaggas379.blogspot.com/2011/09/blog-post_06.html

チクセントミハイの述べる「フロー体験」についてを
私が記していたわけである。
大森荘蔵の「現在経験」を内面的に見た場合、
「フロー体験」と述べることが可能ではないか、と考えられる。

「フロー体験」は、ある意味で客観的理性を失った状態である。
自分がどこにいるか、何をしているかを認識することなく、
「完全にのめり込んでしまう」(48)ことで
ただ対象と合一の状態になることになるためだ。

「世界中でもっとも広く報告されているフロー活動は、よい本を読むこと、つまり、読書中に我を忘れるほど登場人物になりきり、物語に没頭することである」(49)

前に高橋和巳『悲の器』を読んでいた時も、「フロー」が起きた。
東北の帰りのJRの中で読んでいたのだが、
電車の寒さも忘れ、自分がどこにいるのか・自分がリクルートスーツを着て帰ってきていることすら忘れ、
ただ物語に没頭していた。
読み終えた時、自分が電車に乗っている目的を失念していた。

このように「フロー体験」をする対象とは人物でもよい。
フロー体験は子どもと共に過ごしている際の状態にも当てはまるという。

私は「フロー」を誘発する教員になりたい。
学ぶことに「意味」を求めるのも、もともとは違うのかも知れない。
学ぶことそれ自体が「楽しい」というのが「フロー」である。
大学院での研究も、ある意味それでありたいのだが・・・。

2012年2月23日木曜日

ニーチェ『若き人々への言葉』角川文庫、原田義人訳、1954。

From Evernote:

ニーチェ『若き人々への言葉』角川文庫、原田義人訳、1954。

初版は古いが、いまのカバーはすごくポップになっている(萌えキャラが表紙)。
安易な現状への満足をしている姿に、ニーチェが怒らないわけがないと思うのだが…。


「君たちが高く抜き出ようと欲するならば、自分の脚を使え! 人に持ち上げられるな、他人の背や頭のうえに乗るな!」(141)

「誤り呼ばれている「自由精神」、デモクラティックな趣味とその「現代的理念」との口八丁、手八丁の奴隷どもは、すべて孤独を持たぬ人間、自分の孤独を持たぬ人間、魯鈍でけなげな連中である。彼らには勇気も尊敬すべき道徳も見放されているわけではなく、ただ不自由であるだけである」(169)

「一個の哲学が到達しうる最高の状態。それは、現存在に対してディオニュゾス的に立ち向かうということである。それを表現する私の方式は、運命愛である」(199-200)

現状を肯定し、
自身の運命に対して「愛」をもって挑んでいく。
そういった前進の姿が、道を拓いていくことになる。
ニーチェに学ぶことは多い。

ニーチェの言葉は、力強く生き抜くということを我々に呼びかける。

ニーチェの死は1900年。
ニーチェが死なねば20世紀は始まらなかった。
そう考えると…、なぜかどうしようもなく感銘を受ける。





















2012年2月22日水曜日

ポスター

久々にみたナイスなポスター。

2012年2月21日火曜日

無題ノート

From Evernote:

岡本吏郎, 2009, 『サラリーマンのためのお金サバイバル術 家・車・保険、「人並み」な買い物が破滅を招く』朝日新書。

要は「家は借りて住め、保険は社会保険料以外は火災保険などで十分、車は持たない、不要なものは買わず「人並み」をこだわらない、投資は市場に対してせよ」という本。

2012年2月20日月曜日

ダニエル・ピンク著、大前研一訳『ハイ・コンセプト 「新しいこと」を考え出す人の時代』三笠書房、2006。

From Evernote:

ダニエル・ピンク著、大前研一訳『ハイ・コンセプト 「新しいこと」を考え出す人の時代』三笠書房、2006。

アメリカや日本の「エリート」がしていた仕事を、
インドや中国の「エリート」がより安い賃金でやるようになるという
『Global Auction』の時代。

この時代において、日本やアメリカのやるべき仕事は
いったい何か。
本書では「ハイ・コンセプト」な人を作り出すことを提唱する。
「ハイ・コンセプト」とは「新しいことを考えだす人」(目次)のこと。

本書はこの「ハイ・コンセプト」と合わせ、
「ハイ・タッチ」という能力も重要だという。

「「ハイ・タッチ」とは、他人と共感する能力、人間関係の機微を感じ取る能力、自らに喜びを見出し、また、他の人々が喜びを見つける手助けをする能力、そしてごく日常的な出来事につ|いてもその目的や意義を追求する能力などである」(28-29)

「ハイ・タッチ」な能力を持った
「ハイ・コンセプト」な人材がこれからの時代を
切り開く人となる。

「ハイ・コンセプト」で「ハイ・タッチ」な人間は「右脳主導思考」になる、
ということだ。
著者はこのために下の6つの資質を示す。

それが、
デザイン、物語、調和、共感、遊び、生きがい
の6つである。

「機能だけでなく「デザイン」」
「議論よりは「物語」」
「個別よりも「全体の調和」」
「論理ではなく「共感」」
「まじめだけでなく「遊び心」」
「モノよりも「生きがい」」

今後の生き方を考える上で、
この6つを意識することは重要だなあ、と思った。

特に印象的だったのは、「共感」の能力である。

「インドのバンガロールにいる放射線技師でもX線写真を読むことはできる。だが、光ファイバーでは、共感−−体に触れ、つき添い、慰めを与えること−−を伝えることはできない」(260)

論理ではなく相手を共感し、話を聞く中で問題解決をする力。
教員にとって大事な力だと思う。

2012年2月14日火曜日

森信三, 1989, 『修身教授録−−現代に甦る人間学の要諦』致知出版社.

From Evernote:

森信三, 1989, 『修身教授録−−現代に甦る人間学の要諦』致知出版社.

森信三が大阪天王寺師範学校にて「修身」の授業を受け持った際の講義録。
ソシュールなどの著作と同じく、生徒の筆録によって本になっている。

世の中が教科書ベースの「徳目主義」の修身授業を行う時代。
森信三はそんな際、自分が疑問に思うこと・考えていることをベースにした修身の授業をした(講義録は昭和12−14年の内容である)。
血の通った人間としての「生き方」の授業を森信三は行い続けた。

この本はそんな「生きた」修身の授業の模様が描かれている。
森信三のアドバイスは一つ一つ具体的。

例えば。
「これはたぶん相手の人が知っていないらしい、と思われる事柄について話す場合には、「ご承知のようにー」とか「ご存知のようにー」とかいう前置きをして話すということです。でないと相手としては、面と向かってお説教をされるような気持ちになるからです。この辺のところに、会話上のこつとか呼吸というものがあると思うのです」(201)

そのため非常に面白い。

以下は抜粋集。

「いやしくも教師たる以上、通り一遍の紋切型な授業ではなく、その日その日に、自己の感得した所を中心として、常に生命の溢れた授業を為さむと心掛くべきなり」(47)

「人間が真に欲を捨てるということは、意気地なしになるどころか、それこそ真に自己が確立することであります」(85)

「私の平素申していることは「常に書物を読んで、卒業後独力で自分の道を開いていけるような人間にならねばならぬ」ということです」(138)

「どこまでも仕事を次つぎと処理していって、絶対に溜めぬところに、自己鍛錬としての修養の目標があるということを、深く自覚することです」(179)

「最初はまず実例から入り、さらには実行から入るというのが、われわれ日本人の入り方ではないかと思うのです」(181)

「人は真に謙遜ならんがためには、何よりもまず自己というものが確立している事が大切だと言えましょう。すなわち相手が目下であるからとて調子に乗らず、また相手が目上なればとて、常に相手との正しい身分関係において、まさにあるべきように、わが身を処するということであります」(206)

「真の「誠」は、何よりもまず己のつとめに打ち込むところから始まると言ってよいでしょう。すなわち誠に至る出発点は、何よりもまず自分の仕事に打ち込むということでしょう。総じて自己の努めに対して、自己の一切を傾け尽くしてこれに当たる。すなわち、もうこれ以上は尽くしようがないというところを、なおもそこに不足を覚えて、さらに一段と自己を投げ出して|いく。これが真の誠への道でしょう」(253-254)

「われわれは苦労することによって、自分のおめでたさを削りとってもらうんです。現実の世界は決してお目出たくはないのです」(271)

偉業をなす人の風格
①「自分のやりたいことはすぐにやる」「たとえば本が読みたくなれば、たとえそれが真夜中でも、すぐに飛び起きて読むといった調子です」
②「夢中になる」
③「最後までやり抜く」(385)

「この世の中を愉快に過ごそうと思ったら、なるべく人に喜ばれるように、さらには人を喜ばすように努力することです。つまり、自分の欲を多少切り縮めて、少しでも人のためになるように努力することです」(462)

2012年2月10日金曜日

中根千枝, 1977, 『家族を中心とした人間関係』講談社学術文庫.

From Evernote:

中根千枝, 1977, 『家族を中心とした人間関係』講談社学術文庫.

古くなった感はあるが、日本人論の古典。

助成に関する記述は中根の時代より大きく前進した気がする。
しかし、まだまだ課題も大きい。

日本の「ウチ」について。
「家族のソトは「トナリ」であり「シンルイ」であって、「家(ウチ)」とは質的に異なりま|す。ここにウチとソトの明確な一線がひかれています。さらに「トナリ」や「クミ」はムラのなかでサブ・グループを構成しますから、その集団が機能の高いばあいには、一般のムラの人に対して、それがウチになります。さらに一つのムラは他のムラに対してウチということになります。こうして、ウチとソトの関係は段階的に認識されています。それぞれの段階でウチは明確な集団として閉鎖性をもつということになります。したがって、ムラは二段階のウチの集合体となります」(150-151)

「日本の家は、むしろベースキャンプとしての働きを顕著にもっています。家族成員がそれぞれの活動にでかけるための根拠地としての役目ですから、ソトの人との接触はそれぞれの活動の場でするということになります。ベースキャンプはつねに留守番が要るように、母(妻)がその役に当っています。ベースキャンプはその成員の活動が活発であればあるほど、|みんな出はらっているときが多くなります」「このことが既婚婦人の社会的進出を阻む大きな要因となっていることはいうまでもありません」(160-161)

「日本の家族の特殊性は、全体の論述をとおしても浮かびあがってきますが、とくに最終章で考察したように、その孤立性に求められます。実はこの集団の孤立性こそが、さきに私が分析・理論化した「タテ社会」の母体になっています」(167)

それにしても、日本の外で読む日本人論は大変面白いなあ、とベトナムで打っていて思う。

後世への最大遺物

From Evernote:

後世への最大遺物

トインビーはボケが入っていても、本に目を通そうとしていた、という。
死ぬ間際に、その人の生き様や価値観が明解に描かれる。

花谷弁護士も言っていたように、私も死ぬ頃にも本に目を通そうとしていたい、と思う。

私は文をもはや理解できていないかも知れない。しかし、「読む」姿勢や「学究心」だけは後世に残すことが出来る。
「後世への最大遺物」は「良き生き様だ」とは内村鑑三もよく言ったものだ。

私も「後世への最大遺物」として、ぼけても本を読む姿勢を持ちたい。

それこそ、我が教え子への人生最後のメッセージではないか。

アンドレ・モーロワ, 1939, 中山真彦訳『人生をよりよく生きる技術』講談社学術文庫。

From Evernote:

アンドレ・モーロワ, 1939, 中山真彦訳『人生をよりよく生きる技術』講談社学術文庫。

ベトナム行きの機内において読了。
モニタではベルリン・フィルの素晴らしい演奏(とその映像)。

そんななか読むフランスの翻訳文庫。
自分が蓮實重彦になった気分がすごくする。

閑話休題。


(人のゴシップや噂について「「知りません」というこの簡単なひこことをいつも口にするように心がけたら、世間の会話の平均的価値はおどろくほど向上することだろう」(26)

「情報は教養ではないのである。教養人の頭の中では、個々の事実が有機的に結びつき、一つの生きた世界をつくり、それが現実世界の映像となる」(48)

「行動する人にとり、思考は行為と一体になっている」(48)

「しかしもっと強い恋をする人たちは、必要に応じて自分を新しくすることを知る」(84)

「人生の戦術もまた、攻撃点を一つえらび、そこに力を集中することにある」(102)

「そしていったん決定を下したら、「実行に移れ!」である。後悔は無益であり、変更にはきりがない」(103)

「汝のいまなすべきことをなせ。一心こめてそれにかかれ。全身全霊を目的と|するものに捧げよ。その目的を達したあかつきには、歩いてきた道を立ちもどって、先に横切ったもう一つの道を歩くのもよかろうし、あたりの景色を眺めるのもよかろう。だが仕事ができ上がらないかぎり、道草は許されない」(103-104)

●教育について
「生徒の仕事の第一は、勉強するくせをつけることである。精神を養うまえに、まず意志の力を養わなければならない」(27)
「苦労せずに覚えたことは、すぐに忘れてしまうものだ。同様の理由で、生徒自身は何もしなくともいいただ講義だけの授業は、まずほとんどつねに意味がない。若い頭脳の上を空滑りするだけである。聴くことは勉強することではない」(128)
「アランが述べているとおり、教育は断固として時代おくれでなければならない」(130)

「傾聴すべきはゲーテの言葉である。いわく、「心穏やかで、なすべきことが決まってるときには、孤独はいいものだ。」したがって、孤独を求める前に、その孤独の中でなすべき務めをはっきりさだめることがだいじである」(140)

「命令のいちばん大事な点は、明快さである」(247)
「人は、うまく指図さえすれば、その指図を受け入れるものだ。指図されるのを望むものだ、とさえいえる」(184)

「指導者は、みずからをその地位にふさわしいものにするよう日々努めてこそ、その権力を保つことができるのである」(195)

●解説より
「「仕事」の中にこそ、「生きる技術」の精髄がある」(284)


追記
・フランスやアメリカの文章は、事例が具体的に出てくる。
この表現法を私も学びたいと思う。



2012年2月9日木曜日

竹田青嗣, 2009, 『人間の未来−−ヘーゲル哲学と現代資本主義』ちくま新書。

From Evernote:

竹田青嗣, 2009, 『人間の未来−−ヘーゲル哲学と現代資本主義』ちくま新書。

 学部時代まで、私はイリイチをごく素朴に認識していた。
 いま、思想上の問題としてその傾向性を「精算」している。

 教育学関連でいえば、①「脱学校」といえば何らかの意味があった時代は1980年代に終わったこと、②いまは「学校」的でない「学校」実践が多く存在していること、③「脱学校」を超えた「再-学校」論とでも言うべき教育思想の構築が求められていること、④私自身がこの4月から教員として実践者となっていくことの4点が理由である。

 思想関連で言うと、①近代のすべてを否定する発想はもう時代遅れであるということ(ポストモダンも古くなった)、②反国家・反近代うんぬんの前に、皆が納得できる形での思想形成が求められていることの2点が理由である。

 イリイチ思想に染まった自分自身の精算が必要であるのは、端的にいえば竹田青嗣の著作および思想に触れたことがきっかけとなっている。イリイチは中世への回帰を訴えるばかりで、現実社会での実現可能な方策については各個人の「アンプラグ」を示す程度である。アンプラグとは、いわば現代の資本主義ゲームから自発的に「降りる」こと。「都市型狩猟採集生活」であったり、自給自足のライフスタイルを形成したりと、個人レベルでの運動にとどまる(いまの段階でもできることがある、という意味ではすごく好きな発想だ)。

 『人間の未来』は『人間的自由の条件』(2004)の続編。皆が納得できる形での社会設計の原理論を提示している。

 全部を紹介できるほど能力が高くないので、抜粋式に示す。

「「近代(市民)社会」の核心的理念は何かと問えば、社会から「暴力原理」を完全に排除し、これを純粋なルールゲームに変える試みだった、と答えるのがその本質をもっともよく表現する」(131)

「「国家」の本質は、なによりもまず普遍的暴力の制御という点にある。言いかえれば、一社会の共同的な自己防御ということが第一義である。どんな国家も一体的な「共同的幻想」を作り上げるが、それは本来「覇権の原理」が不安定であるために(それは最強者=王の原理だから、より強い者が現われれば現在の王の正当性は失われる)考えだされた、秩序安定のための工夫で合って、「一体性幻想」は国家の本質ではなく属性にすぎない」(162)
→国家は「暴力装置」である。しかし、これは「国家」がなければ存在した公的ルールに基づかない暴力・収奪を防ぐ働きがある。その側面をさしおいて国家の暴力性をのみ訴えるのはフェアではない。

「近代社会の根本理念は「自由の相互承認」にもとづく「普遍ルール社会」を目標とするところにあった」(272)

 本書ラストで著者は地球レベルにおいて「資源」の「希少性」による「普遍闘争」状態が起きる可能性を示す。その解決策として、国家レベルでの納得の行く資源配分のルールの措定を述べる。もはやポストモダン論を述べる時代ではなく、今後の社会を万人に「よい」社会とするために思想家・哲学者は智慧を集める時代である、という訴えである。

 読み間違いがあったらごめんなさい。

2012年2月6日月曜日

ネコ型人材の時代。

From Evernote:

ネコ型人材の時代。

ツリー状の時代において、イヌ型人材が求められた。
つまり、指示を忠実にこなす人材だ。

しかし、いまは時代が変わった。
大組織の時代ではなく、
少人数グループによるクリエイティブ能力の時代になった。

ネットワークを用い、
自分で仕事を作り、
自分で課題を見つけ、
自分の生き方を捜す
ネコ型人材の時代となった。

ネコは面倒くさがりである。
だからこそできるだけ無駄を省く。

ネコは気分屋である。
だからこそ自分が好きな事だけをやる。
自分の好きなことのプロフェッショナルである。

ネコはさみしがりやである。
だからいろんな場所に出入りし、いろんな人とネットワークを作る。

ネコは遊び好きである。
だからあちこちウロウロ、動き続けている。

私はネコ型人材になりたいと思う。

注 本内容はネコワーキングでの会話を基に構成しています。

2012年2月3日金曜日

ルドン展に行く。

From Evernote:

ルドン展に行く。

 友人の勧めで、丸の内の三菱一号館でやっている「ルドン展」にいった。

 ルドンをブリタニカ百科事典で引くと、次の通り。

フランスの画家,版画家。ボルドーで修業し,1871年パリに出る。 J.L.ジェロームや R.ブレダンの影響を受け,初期には単色のリトグラフ (石版画) で幻想的,神秘的な世界を生んだ。 S.マラルメ,J.K.ユイスマンス,E.A.ポーなど象徴主義作家の影響を受ける。 90年頃までもっぱら単色で制作したが,その後,夢幻的世界の効果を増すために色彩を採用し,文学的,神話的主題を華麗な幻想に高めた。晩年はパステル,水彩による作品を多く描き,特に花の絵でも名高い。世紀末の象徴主義者としてシュルレアリスムにも影響を与えた。主要作品はリトグラフ集『夢のなかで』 (1879) ,『ベニスの帆船』 (1906) ,『アネモネの花』 (08) 。

 ちなみに彼の自画像が下のもの。

 
ルドン(自画像,1904,個人蔵)

 展示の中では「初期」の「単色のリトグラフ」が興味深かった。
 目玉が画面中央に置かれ、危うい雰囲気を出している。
 危うい目玉が、ふわふわとした気球に描かれてもいた(タイトルは忘れた)。
 
 社会学と人類学と心理学の黎明期。そんなイメージを誘発する展示だった。

 たとえば「永遠を前にした男」はサルがヒトへと進化し、立ち上がる瞬間が描かれている。
 立ち上がるという「永遠の一瞬」が、今の我々に続いている。
 立ち上がることは文明の発展を招いたが、同時に人間の苦悩が招かれる結果にもなっている。
 そんなことも含めての「永遠を前にした男」なのだろうと思う。

 作品展の至る所に描かれた〈ダイスを背負った男〉のイメージは、
 運命を背負わされている人間の苦悩を感じる。

2012年1月30日月曜日

埼玉の定時制高校への見学。

先週金曜日、ある先生のご好意から埼玉にある定時制高校の授業の見学に伺った。

高校3年生の日本史の授業。
マンガを交えたプリントから、室町時代の経済について学習できるようにされていた。

定時制高校の面白い点として、雑談は確かにあるが雑談組は教室の後ろに固まり、教室前方には「ちゃんと授業を聞く」人たちが固まっていた。

定時制と全日制とが併設された学校の場合、定時制の授業は全日制の生徒の教室をそのまま使う。
結果的に、席は自由になるのだろう。

参観した授業の担当はベテランの先生。
生徒の私語を授業に織り込みつつ、授業をしていた。

また、生徒と会話をしつつ授業をしている。
こういったワザを、私も学びたいと思う。

なお、授業の後、「大学生」として生徒の前でお話をさせていただいた。
ただ、ハッキリ言って、私に話せることはあまりないなあ、と感じた。
私の高校は皆が大学に行くのが当り前。
定時制のように高卒就労や専門学校進学などがメインになる場所において、何も実際的なアドバイスをすることは出来なかった。

自分の人生経験の狭さを感じる。
「早くから就活の準備をしよう」くらいしか述べることがなかったからだ。

2012年1月22日日曜日

悩み事解決用アプリ

悩み事解決用アプリを誰かに開発してほしいなあ、と思う。それは、カーネギー『道は開ける』の4つのステップをただ打ち込んでいくだけのものだ。

誰かにフリーでマック用アプリを作ってもらえないだろうか。
to-doリストへの対応が出来ると、考えた対策をすぐリスト化できて便利だろうなあ。

参考;カーネギー『道は開ける』における「悩みの追い払い方」(78)
①悩んでいる事柄を詳しく書き記す。
②それについて自分にできることを書き記す。
③どうするかを決断する。
④その決断を直ちに実行する。

2012年1月21日土曜日

遠隔教育のパラダイム転換

 本日、戸田文化会館でおこなわれた「埼玉県県立高等学校学力向上基盤形成事業 平成23年度報告会」に参加した。協調学習について興味があり、この4月から教員になるものとして視野を広げようと思ったからだ。

 面白かったのはロボット(アンドロイド)を用いての学習、という内容だった。グループ学習において、遠隔操作するロボットを介入させると、学習効果が上がった、という点である(真新しいイベントだから、集中度が上がっただけの可能性も考えられるが)。
 はじめ、かなり違和感があった。それは「そこまでしなくてもいいのでないか」という発想からである。しかし「可能性としてはありだな」と話を聴いていて思うようになった。例えば、長期入院者もアンドロイドの遠隔操作によって授業に参加することも可能になるたえである。

 シンポジウムを見ていて、遠隔教育の新たな形として、アンドロイドやロボットを通しての学習があるのだなあ、と分かった。遠隔教育の新たな形態が出来つつあるのだ。
 いままでの遠隔教育は、eラーニングなどIT技術を用いて離れた場所で学習をすることを意味した。これからはアンドロイドの遠隔操作により、アンドロイドを介しての学習を行うことが「遠隔教育」のメインテーマになるかもしれない、と思った(実際、eラーニングを用いる大学の授業ではBBSを活用する。これは離れた場所での会議であるが、アンドロイドを集め一箇所でBBS的な議論が可能となるだろう)。
 このような遠隔操作による学習の場の形成。モチベーションを上げ、社会性を身につける機会があるのなら、物理的に集まるのも最小限でいい。イリイチの言う「脱学校」的な学習の場を、IT利用による遠隔教育によって成立させることが今まで以上に可能になったように思える。

 アンドロイドを用いる時代になると、通信教育の意味合いが一段と高まるように思われる。遠隔教育と、通常の学習(学校に行き一箇所に集まっての授業)の意味合いがそれほど変わらなくなっていくからだ。

注 現在、インターネット上で授業を受講する遠隔教育においても、時間を定めて(例えば火曜日20:00-23:00の間だけ受講できるなど)受講するシステムをもつところが多くなっている。各人が好きな時にテキストを用いて学習する場合、縛りが弱いため学習者がかえって学習できなくなるところがあるからだ。そのため、「いつでも・どこでも」学習できるということが、遠隔教育のメリットというよりも「学習が進まなくなる」という意味でデメリットだと考えられてきている。実質、「いつでも・どこでも」学習できるという「自由」の重みが個々人の負担になっている。

2012年1月13日金曜日

自分を支えてくれる「実践コミュニティ」の形成

仕事で「つぶされない」ために、自分を支えてくれるコミュニティを作っておこう。

これはウェンガーのいう「実践コミュニティ」である。勝間和代が『ズルい仕事術』で上げた「レバレッジ力」も、つまるところ自分を支えてくれる人びととの良好な人間関係の形成について述べたものだ。

「支え」というセーフティネットが日本にないことを批判する声が多い。ないならば少なくとも自分の周りにつくる。それが大切だろう。

2012年1月11日水曜日

瀧本哲史, 2011, 『僕は君たちに武器を配りたい』講談社。

「労働者の賃金が下がったのは、産業界が「派遣」という働き方を導入したのが本質的な原因ではなく、「技術革新が進んだこと」が本当の理由だからだ」(65)

1999年のiMacというカラフル+スケルトンボディのパソコン。
「アップルの苦境を救ったのもスペックや機能ではなく、「色」や「デザイン」だったのである」(142)

起業するなら、「自分が働いている業界について、どんな構造でビジネスが動いており、金とモノの流れがどうなっていて、キーパーソンが誰で、何が効率化を妨げているのか、徹底的に研究するのである」(172)

「起業家が新しいビジネスを見つけるときの視点として、「しょぼい競合がいるマーケットを狙え」という鉄則がある」(175)
→自分の会社について「その会社が潰れる前に退職し、その会社を叩き潰す会社を作るのである」(178)

☆イノベーション(技術革新)とは「実は「新結合」という言葉がいちばんこの言葉の本質を捉えた訳語だと私は考えている。既存のものを、今までとは違う組み合わせ方で提示すること。それがイノベーションの本質だ」(183)

「つまりリーダーには、優秀だがわがままな人をマネージするスキルも大切だが、優秀ではない人をマネージするスキルのほうが重要なのである。ダメなところが多々ある人材に、あまり高い給料を払わずとも、モチベーション高く仕事をしてもらうように持っていくのが本当のマネジメント力なのだ」(190)

「資本主義の社会では、これまで述べたように、自らが会社を興して事業を営むか、あるいは自分が株主として会社の利益に応じて報酬を得られる仕組みを構築することが大事となる。その場合に欠かせないスキルが、人をどうやってマネジメントするか、というリーダーシップのとり方なのである」(191-192)

「資本主義の国で生きる以上、株主(投資家)の意思のもとに生きざるを得ない、ということなのだ。それならば、自分自身が投資家として積極的にこの資本主義社会に参加したほうが良いのではないか、というのが私からの提案なのである」(217)

「「自分でリスクが見えて管理できる状態」とは、何らかの仮説に基づいて投資を行った後で、その仮設が間違っていると気づいたら、いつえも手仕舞いできる準備をしておく、ということである。
 自分がとろうとしているリスクの大きさを、正確に見極めよ。そのリスクに責任がとれると踏んだならば、臆せずに投資せよ。それが投資家として生きる上での鉄則なのである」(232)

「「売り物がある人」は必ず「武器」として英語を身につけるべきだ。まだ「売り」がない人は、英語の勉強をやる前に「自分の商品価値」を作ることが何より大切なのである」(266)

「社会に出てから本当に意味を持つのは、インターネットにも紙の本にも書いていない、自らが動いて夢中になりながら手に入れた知識だけだ。自分の力でやったことだけが、本物の自分の武器になるのである。資本主義社会を生きていくための武器とは、勉強して手に入れられるものではなく、現実の世界での難しい課題を解決したり、ライバルといった「敵」を倒していくことで、初めて手に入るものなのだ。そういう意味で、ギリシャ神話などの神話や優れた文学が教えることは、人生の教訓を得るうえでも非常に有効だと私は考えている」(281)

2012年1月8日日曜日

『僕は君たちに武器を配りたい』

「起業や商品で差をつけることは難しい。差をつけるには、ターゲットとなった顧客が共感できるストーリーを作ること」(瀧本哲史, 2011, 『僕は君たちに武器を配りたい』講談社.pp.145-146)

 教育も物語を共有することが一つのポイントだ。顧客満足度を上げることにもなるし、「高校時代」は繰り返せない。いわば、高校時代という思い出と学歴を購入するのが高校入学なのである。であれば、「この高校だといい物語を共有できる」というモデルを構築することが、高校にとって必要なことだ。わくわくする授業・楽しいイベントでの物語を作り上げる実践をしたいと思う。深夜アニメに高校ネタが多いのは、高校に「物語」を求める人がおおい証拠だろう。

2012年1月5日木曜日

小堀宗実, 2011, 『茶の湯の宇宙』朝日新書.

最近、アニメで『へうげもの』を観るのが好きである。その関係で茶道について若干ながら書物を読むようになった。

 本書はそういった流れで読んでいる。教員の仕事も茶道同様、「芸」である。そのため、本書は教員論として読んだ。

 茶道において、茶会において何が起きるかわからないからこそ、控えの道具など、問題があった時の用意を必ずしておく、という。たとえばお茶を立てるための茶筅(ちゃせん:お茶をかき混ぜ泡立てるのに用いるもの)を万が一落としてしまった時のため、新しい茶筅を予め用意しておく。その際、別の茶筅であることを明確にするため色の違う茶筅を出しているという。

「控えの茶筅や柄杓は、一度も使わないで済むことがよいことです。一生涯使わないかも知れないけれど、水屋(注 茶席の用意をする場所)に控えを用意しておく。これが備えというものです」(58)

 何事も用意が必要である。教育実践においても「用意」が必要だ。何も考えず授業をしてしまうことは1つの暴力である。

 そのため、いまのうちから教員実践の準備をしたいと思う。