2009年1月4日日曜日

岡本太郎『自分のなかに毒を持て』

人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。僕は逆に、積み減らすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。
 人生に挑み、本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。それには心身とも無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでくる。
 今までの自分なんか,蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。
 ふつう自分に忠実だなんていう人に限って、自分を大事にして、自分を破ろうとしない。社会的状況や世間体とも闘う。アンチである、と同時に自分に対しても闘わなければならない。これはむずかしい。きつい。社会では否定されるだろう。だが、そういうほんとうの生き方を生きることが人生の筋だ。(11頁)

 人間は精神が拡がるときと、とじこもるときが必ずある。
 強烈に閉じこもりがちな人ほど、逆にひろがるときがある。
 ぼくだってしょっちゅう行きづまっている。
 行きづまったほうがおもしろい。だから、それを突破してやろうと挑むんだ。もし行きづまらないでいたら、ちっともおもしろくない。(76頁)

 自分はあんまり頭もよくないし、才能のない普通の人間だから何も出来ないんじゃないか、なんて考えてるのはごまかしだ。
 そういって自分がやらない口実にしているだけだ。
 才能なんてないほうがいい。才能なんて勝手にしやがれだ。才能のある者だけがこの世で偉いんじゃない。
 才能のあるなしにかかわらず、自分として純粋に生きることが、人間の本当の生き方だ。頭がいいとか、体がいいとか、また才能があるなんてことは逆に生きていく上で、マイナスを背負うことだと思った方がいいくらいだ。(105頁)
 
 人類は滅亡するかもしれない、と不安げに言う人が多くなった。いや、絶対に滅びない、と頑張る楽観説もある。
 ぼくは両方の説に腹が立つ。
 滅びたっていいいじゃないか。当たり前のこと。僕はそう思う。(中略)
 ぼくがここで問題にしたいのは、人類全体が残るか滅びるかという漠とした遠い想定よりも、いま現時点で、人間の一人ひとりはいったい本当に生きているだろうかということだ。
 本当に生きがいをもって、瞬間瞬間に自分をひらいていきているかどうか。(214〜216頁)

→岡本太郎の言葉を聞くと、「よし、やってやろうじゃないか!」という気になる。熱くなれる。これはすごいことだ。
 自分には力も才能もない。しかし、それがどうしたというのだ。今の自分なんて打ち破れ。闘うのだ。今から、自分の運命を切り返していくのだ。
 失敗しても、下手でもいい。自分は自分の教育学を築くのだ。
 新年早々に岡本太郎を読む利点は決意をできるという点にある。
 この本は読むべきである。自分の人生を生きるためにも。黒澤映画『生きる』も、自己の運命と戦うことで主人公・渡辺は真に「生きる」ことが出来たではないか。

手塚治虫『ガラスの地球を救え』

思えば、『鉄腕アトム』を描きはじめた昭和26、7年ころは、ものすごい批判が教育者や父母から集中し、「日本に高速列車や高速道路なんて造れるはずがない」とか、「ロボットなんてできっこない」とか、「荒唐無稽だ」などと大いに怒られ、「手塚はデララメを描く、子どもたちの敵だ」とまで言われたほどでした。(14頁)

なにが必要な情報か、ということですが、ぼくはとどのつまり、生命の尊厳を伝える情報が最も必要でかつ重要な情報だと思います。(113頁)

もし輪廻というものがあるなら、ぼくの来世はミジンコかもしれないし、それこそオサムシかも知れません。そう思うと、どんな生き物も同じ重さに思えてくるのです。それに、もう二度と人間には生まれてこれないかもしれない。虫には虫の、鳥には鳥の、そして人間には人間のもっともふさわしい生き方があるはずです。(186頁)

東京駅・原首相遭難現場

ちなみに南口である。

学び続ける

学ぶことが重要なのではなく、学び続けることが重要なのだ。

高校卒業、その前に

私の高校の寮には「良書百選」というものがあった。読むべき名作のリストだ。私はここの3分の1はようやく読めた。『三国志』『戦争と平和』などなかなか骨が折れる。

高校卒業前、私の友人Iはこの百選読了に挑戦していた。それも卒業まで残り百日のタイミングである。彼は推薦で大学に行けることが決定している男だった。

Iはそんなに勤勉でない者である。けれど決意し挑戦を始める。

卒業前日になっても彼は挑戦をやめなかった。ひとり和室であぐらをかき、岩波文庫を開く姿が思い起こされる。

結局、彼は10冊ほどを読み終え卒業式に出た。達成する/しないに関わらず、彼の挑戦する姿が未だに忘れられない。

目標を立て挑戦する。それが達成しようとしなかろうと人に感動を与えるものだ。

ちなみにIは今アメリカ留学に行っている。百選読了の取組が契機となっている気がする。

電車マナー

電車があまりない地域の方が電車マナーが悪い。座席を詰めない人、改札前でタバコを吸いつつ並ぶ人をJRの加古川駅で見た。歌舞伎町側の駅でもあまり見ない光景だった。

東西の化粧について

関西と東京とでは女性の化粧の仕方が異なるようだ。JR加古川線に乗って感じた。

アンケート

新宿区のアンケートに答えた。都のアンケートに謝礼はなかったが、新宿にはあった。

アンケートに答える人にもメリットのあるアンケートがいい。新たな知識・図書券など形態はいろいろだが。

2009年1月3日土曜日

ダイソー

ダイソーにいく。

100円でないものが多い。300円・1000円・2100と数多い。

インフレ対策を知らぬ間に行っているようだ。

漢字ドリル。ハングルでもタイトルがあり、購買層が子どもばかりでないことを示している。

小6や中学生対象のドリルも売っていて驚いた。ただ思うのは、安すぎる問題集にはかえって有り難みがない気がしてしまう、ということだ。

じゃあどうしろと

前からいつも思っていたが、この看板をみてどうすればいいというのか。

トレパ以外流すな、といわれて「排泄はどこでするのか」と思ってしまう。

2009年1月2日金曜日

故郷

故郷、というと中学校国語の小説を思い出す。

いま私は故郷兵庫にいる。静かだ。流れる水の音。コツッコツッと靴の音が響く。

「しんしんと雪が降る。その間に人間は生活しているのです」(『やまびこ学校』)

この詩を思い出す。

2008年12月28日日曜日

メール転送

メールの転送機能。

送る側・送られる側相互が相手に《転送》する設定のときどういうことがおこるのだろう。

メールの無限増殖が際限なく続くか、あるいは《スパムメールだ》として排除されるか。いつか実験してみたいものだ。

映画

2008年は邦画の魅力に気付いた年だった。黒澤の偉大さ、小津の面白さをようやく知った。

いままでは洋画中心主義。チャップリンに惹かれて映画を見始めたが故の行動だ。

気軽に映画を観賞できる大学生活の有り難さ。就職活動はいいや、院に行こう。

タバコ

タバコの煙りMAXの環境から抜け出て、落ち着くためにはコーヒーの香が必要だ。リセッターとして珈琲が機能している、とでもいえようか。

2008年冬の帰省は新幹線自由席の喫煙シート。喫煙所で3時間座り続けることがいかに過酷かよく分かった。頭の働きがかなり悪くなっている実感がある。

もう2度と喫煙シートには座らぬ誓いを立てた。

2008年12月25日木曜日

お昼の争い

スタジオALTAの上に みのもんたの看板がある。お昼の争いはここでも行われているのだ。

2008年12月23日火曜日

2008年12月18日木曜日

フィンランドとコーヒーと学力

世界でもっともコーヒーを飲むのはどこの国の人であろうか?

正解はフィンランド(一人当たり)。一日に5杯以上飲む人もザラだ(『フィンランド 豊かさのメソッド』)。

ピサ調査世界一の学力の秘密もコーヒーの大量摂取にあるのかも知れない。

神秘主義

私は神秘主義が嫌いだ。

ときどき教育学の中に「宇宙との一体感を感じる」などと書くものが存在する。シュタイナー教育だけでなく、わりあい´ヒューマン`な教育学理論にも見受けられる。「宇宙との一体感」以外にも「人類みな兄弟」という形で現れることもある。

他人の信仰や主義に対し意見をいう気はさらさらない。意見を言いたくなるのは「さも当然」とばかり神秘主義的価値観を《押し付けて》くるときだ。

「たしかにおっしゃるとおり、そういう考え方もありますなあ。でも私はそうは思いませんよ」


このように言いたくなるのだ。

書評:ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』

書評:ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』*
 読まないで本書の書評を書いてみようと思ったが、それはやめることにした。
 この本はいわゆるハウツー本でも、トンデモ本でもない。れっきとした文学の本である。そもそも、『読んでいない』といっていながら、《読んだが忘れてしまった本》として著者自身の本を挙げている。
 読んでいない本についてコメントしなければならないことは、意外にある。バイヤールはこの行為を否定的に見るのでなく、逆にポジティブに見ていくことを提唱しているのだ。

読んでいない本についての言説は、自伝に似て、自己弁護を目的とする個人的発言の域を超えて、このチャンスを活かすすべを心得ている者には、自己発見のための特権的空間を提供する。(中略)読んでいない本についての言及は、この自己発見の可能性をも超えて、われわれを創造的プロセスのただなかに置く。われわれをこのプロセスの本源に立ち返らせるのである。(213頁)

 読書とは、もっと能動的であるべきだ。本を通じ、「みずから創作者になること」(217頁)をしてもいいのではないか。『読んでいない本について堂々と語る』時、頭の中で創作作用が始まる。「読んでいない本について語ることはまぎれもない創造の活動なのである。目立たないかもしれないが、社会的にこれより認知された活動と同じくらい立派な活動なのだ」(217頁)。それはまぎれもなく自分の思考であり、自分自身について語ることになるのだ。

 本を読むという行為のために、逆に自分の考えがなくなってしまうことがある。読むことによって、本質が見えなくなることがあるのだ。書評を書くのも然りである。あまりにも読みすぎた本については、何も言えない。著者が何を意図しているか、考えすぎるとかえって何もかけなくなる。学問も同じである。一年生の頃、「教育学って、要はこんなものだ」と恐れ多くも言えていた。しかし、今は「教育学って、結局何なんだろう」と却って分からなくなっている。レポートを書くときにも感じる。あまりにも多くを調査すると、「先攻研究に書かれていないだろうか」と思い、なかなか書けなくなる。思えば不思議なことである。

2008年12月16日火曜日

シェーン、三十郎、Come back !

~ヒットした映画に潜む、型あるいは図式についての一考察~

 黒澤映画『用心棒』(1961)と『椿三十郎』[1](1962)はリンクしている。もともと『椿三十郎』は「『用心棒』の続編を撮れ」との東宝の依頼で作ったため、当然といえば当然である。黒澤は続編にはせず、別の映画として撮った。しかし、主人公のキャラクターや設定は同一なのだ。[2]三船敏郎(三船美佳の父である)演じる桑畑三十郎(『用心棒』)と椿三十郎(『椿三十朗』)はどちらも≪フラッと来て、問題解決をし、フラッと去っていく≫点でつながりがある[3]。
 アメリカ映画『シェーン』(1953)も、『用心棒』・『椿三十郎』と同じく≪フラッとやってきて、問題解決をし、フラッと去っていく≫図式の映画である。今回は、ここで示した3作品の共通点・相違点を見て行きたい。

 どの作品も、≪フラッと来て≫、〈正義〉[4]の人にお世話になり、〈悪者〉一族を倒し、〈悪者〉の中で特に腕が立つもの―いわばライバル―を1対1で倒し、そしてフラッと去っていく点で共通である[5]。
 共通するそもそもの疑問として、なぜ主人公が旅をしているのか、という点が浮かぶ。主人公は腕の立つガンマンや侍であるのだが、どうして一匹狼・風来人になる必要があったのか。映画では全く描かれない。しかも利益を目的としているのでなく、任侠心からボランティアで、命の危険を冒して〈正義〉を助ける。現代風にあらわすなら、《大企業の妨害行為により、倒産寸前となった零細企業を、フラッとやってきた主人公が建て直しを図る》[6]とでも示せるであろうか。利益のためでなく、《自分の力を社会に役立てたい》との思いから行動しているといえるのであろうか。

 下に、三作品の比較対照表を作ってみた。参照していただきたい。比較してみると、時代設定や場所こそ違えど、共通する要素の多いことがお分かりになるであろう。

 この≪フラッと来て、問題解決をし、フラッと去っていく≫図式のように、ヒットする映画にはある程度の型や図式があるように考える。これから、そういった図式を見つけていきたいと思う。



[1] なお、『椿三十郎』は角川がリメイク版を2007年に出している。
[2] ほかに、『用心棒』・『椿三十郎』はBGMが同じであるという共通点がある。
[3] 『用心棒』は桑畑三十郎が農道を歩くシーンから始まる。その際、三十郎の背中が写るところから始まる。『シェーン』とも共通しているシーンだ。『シェーン』では馬上のシェーンを背中越しにアップするところから始まる。対して、『椿三十郎』では神社の境内で話し合っている武士集団の話を、三十朗が隣の部屋で盗み聞く場面から始まる。『椿三十郎』は≪フラッと来て≫とは言いがたいが、偶然いざこざ(これは主人公が世話になる〈正義〉の集団あるいは個人と、〈悪者〉間のいざこざである。各映画との対応は表を参照のこと)に巻き込まれる。
[4] あくまで、主人公や映画鑑賞者からみて〈正義〉である、との意味で〈 〉を付けている。〈悪者〉も同じである。〈悪者〉から見れば、シェーンや三十郎は《突然やってきて、敵方に味方する、よく分からない変な奴》にしか見えていないのだ。
[5] ほぼ無傷で去る『用心棒』や『椿三十郎』と違い(どちらも「あばよ」と告げて去っていく。背中のアップと共に終わる)、『シェーン』は傷だらけで去っていく(例の「シェーン、カム・バック!」との男の子の声と共に、ふら付きながら馬で去る。死を暗示しているとの見方もある)。
[6] この設定は伊丹十三の『スーパーの女』(1996)に共通している。食品スーパー「安売り大魔王」に押される、「正直屋」の社長・小林五郎のもとに、幼馴染の井上花子がフラッとやってくる。そして彼女の主導の元に「正直屋」を建て直し、「安売り大魔王」に打ち勝つ。最後は彼女と「正直屋」社長との結婚が暗示されるところで終わる。主人公が〈正義〉と一緒になる(ここでは結婚するということ。風来人が〈正義〉と一体化する、ということを意味する)点はシェーンや三十郎と違うが、≪フラッと来る≫点と《別に頼まれてもいないのに、〈正義〉に協力することになる》点は共通している。

無茶をいうな

看板にもいろいろある。なんでも書きゃいいというわけではないのだ。

2008年12月13日土曜日

映画『椿三十郎』

見た。

最近、黒沢映画が面白くてたまらない。

見ないで死ぬのは勿体ない。

いきなりの緊迫シーン。

懐手で歩く時肩を揺らす。このスタイルの格好よさ。
常に落ち着く・堂々とすることの大事さを知る。

椿三十郎の台詞は全てをメモしたくなる。

「岡目八目ずばりだ。見てみな」
「十人だ! てめえらのやることは危なくて見てられねえや」
「間抜けな味方の刀が敵の刀より危ない」
「俺だ、開けろ」

緊迫した合間に、ユーモラスなシーン。

せっかく散々助けてやっているのに、味方が三十郎をうたぐる発言。人間の忘恩を思う。

2008年12月10日水曜日

イルミネーション

今年の冬も、イルミネーションの季節だ。

この省エネブームの世の中で、イルミネーションだけが例外なのは興味深い。

友人との話で気付いた点だ。

2008年12月9日火曜日

映画評論 黒澤明『蜘蛛乃巣城』(1957年)

文豪・シェークスピアの描く悲劇は、現代にも影響を与えている。イギリスには、シェークスピア作品中の言葉だけで、一日の会話を成立させることのできる人もいるという。日本では、少なくとも黒澤明の映画に影響を与えている。この『蜘蛛乃巣城』はシェークスピアの『マクベス』を基にした作品だからだ。鑑賞後、『マクベス』のあらすじを読んでみたが、「そのままじゃないか!」との思いを強くした。ヨーロッパの話を、戦国時代の日本で成立させてしまう、黒澤の力の底知れなさを思う[1]。

 鷲津武時(わしづ・たけとき)という武士が、討伐からの帰路、森の中で「物の怪」(もののけ)に会う。老婆の姿で、物の怪は≪あなたは北の舘の主となり、蜘蛛乃巣城のお城主様になる≫と鷲津に語る。同行していた親友の三木義明に対しても、物の怪は≪あなたは一の砦の対象となり、息子が蜘蛛乃巣城のお城主様になる≫と語った。城主のもとに帰った際、二人は予言の通りの役職に新たに任命される。大して予言を信じていなかった二人の顔が、はっきりと変わる。
 鷲津自体は「北の舘の主で十分。城主を狙うなんてとんでもない」というが、妻の浅茅(あさじ)にそそのかされ、城主を討ってしまう。三木の息子を次の城主にしようとするが、またしても浅茅の説得に負け、三木とその息子を殺そうとする。三木本人は亡くなるが、息子は逃走した。
 城主と親友を殺してしまった鷲津。予言どおり、蜘蛛乃巣城の城主となるが、精神的に不安定になってしまう。部下たちをスパイと疑い、何人も斬ってしまった。
 最終的に、蜘蛛乃巣城を前城主の息子・国丸と、三木の息子・義照の軍勢に囲まれた中、鷲津は家臣たちに雨のように矢を放たれ、殺されてしまう。

 この物語では、鷲津の妻・浅茅がキーパーソンである。はじめ、鷲津は自分の名誉欲を「主君への忠誠心」で抑えようとした。しかし浅茅によってそそのかされ、主君に槍を刺してしまう。主君のみでなく、自らの出世の妨げになると考え、親友の三木すらも斬ってしまう。人間は周囲に翻弄されてしまうものであるのだ。
 確固たる意志がなければ、人間は不幸になるのかもしれない。鷲津は城主になるという、当初思っても見なかった願望をかなえることができたが、親友を殺し、家臣に信頼をおくこともできなくなってしまった。結局は家臣の手によって放たれた弓に刺されなくなってしまう。これは悲劇である。
 自分は何のために生きるのか。自分なりに考え、答えを求めようとすることだ。鷲津は意志の固い男であるが、浅茅にそそのかされると良く考えもせずに動いてしまった。短絡的行動は、時として自らの破滅を招く。常に自分をメタ認知し、可能な限り考える姿勢を保っていくべきであろう。
[1] シェークスピアの生没年は1564~1616年なので、年代的には日本の戦国時代にあたる。そのため、シェークスピアの物語とこの『蜘蛛乃巣城』は同時代性を持っている。

就活できる幸せ

私の同期の人間は、「就職活動が大変だ」というが、仕事を選べるという事はそれだけで「幸せ」なことではないか。

私の中学の友人は、高卒あるいは高校中退で、結構働いている(世間的にはフリーターな友人もいるが)。
いくら不況でも、仕事はある。そうでなければ求人雑誌は廃刊してしまう。

仕事はあるのだ。「選んでいる」からみな苦労して就活をしている。それで鬱になっている。

むしろ、「仕事を選べる」幸福を考えるべきではないだろうか。

プラス思考の有無で、人生は大きく変わるという。ならば、就活もそうである。俺は大学院の準備をしているが、プラス思考と「選択できる贅沢な悩みを持つ幸せ」を噛み締めていくべきだと自分自身に思う。

社会貢献の道を考えていくべきだ。浜口直太の本に(『勉強のルール』)「世のため・人のための思いで学べ! その人が一流になる」とある。よく自己啓発本には「自己実現こそが人生の目的」とあるが、それはおかしい。人生の目的は、どれだけ他人のために尽くせたか、他人のために行動できたかではかられるべきだ。
私も、浜口と同じ決意で、人々のために役に立つ教育学者になる。そして私の師匠にお応えをするのだ。断じて、戦いきるのだ!

教育にゴールはあるのか

教育を考える者は、「教育された姿」をイメージするが、教育にゴールはない。

学校教育で完璧を目指す事はできず、個人が「他人のために行動しよう」という意識を持ち、「そのために、学ぼう」としていけるかが大切だ。

皆、ベルトコンベアー式に、「こんな子どもに作り上げたい」と考えるが、それは無理な話であるのだ。

2008年12月4日木曜日

自己の弱い命と向かい合え!

がうじやう(強盛)にはがみ(切歯)をしてたゆむ心なかれ、例せば日蓮が平左衛門の尉がもとにて・うちふるまい・いいしがごとく・すこしも・をづる心なかれ(『兄弟抄』)

日蓮の権力との戦いは、それはそれは熾烈であった。

日蓮の文章を学ぶにつれ、自己の弱い命と向かいあう必要性を感じてくる。

もっと、強くなる!

2008年12月3日水曜日

冬の朝

冬のは世界が青い。

西武新宿線各停

6時前の西武新宿線(小川から乗る)に乗った。席はすでに半分くらい埋まってる。余裕で座れるが、俺よりはやく生活が始まる人の多さに改めて気付いた。