2007年9月20日木曜日
2007年9月19日水曜日
エルンスト・マッハ
エルンスト・マッハのメモを、自宅で再現してみた。マッハのみた世界、それはマッハにとっての直接経験である。マッハがものを学ぶとき、写真に示した世界を見ているということを意味する。「客観的」だと思われるものも、結局は白黒で示したマッハの写真のように、「主観的」なものが前提になっている。
フッサールは、こうした「主観的」光景こそが根源的だと考え、派生的な「客観性」をこの光景にまで引き戻さねばならない(還元せねばならない)と考えた。この場合、学問的であるためには、なんとしても、この光景に還元せねばならないのである。というのも、私たちは、この光景(あるいは表象)の外に出ることができないからであり、それにもかかわらず、その外に出られると考えるのは、非学問的だからである。谷徹『これが現象学だ』(p47、2002年、講談社現代新書)

ちなみに、右のが私が試みた「私の直接経験」である。マッハの絵をもとにした。
2007年9月18日火曜日
政変と雑誌と平常時
何も事件のないとき、それでも売り上げを高めようとするため、デマやでっちあげ報道をしてでも、マスコミは自ら重要な事件をつくろうとするのかもしれない。
何もないなら、わざわざ雑誌を作らずともよいのではないだろうか。報道自体が自己目的化していないか。
2007年9月17日月曜日
2007年9月16日日曜日
2007年9月15日土曜日
2007年9月14日金曜日
中国
私はいろんな中国論を聞くが、ひとつ重要な点を外した議論が多いと思う。
それは中国には日本の10倍人がいる、という点だ。
中国製品叩きはいま多い。しかし、日本の10倍人がいるのだから日本の10倍不良品が出ても、半ば当然といえるのでないか。
犯罪者が仮に日本の10倍いても当然である。人口が10倍違うのだから。
軍事もしかり。日本はかなりの軍事大国。それでも人口は中国の10分の1。なら中国が日本の10倍の軍事を持たぬかぎり、中国のみを軍事大国と批判することはルール違反のはずだ。
人口が10倍違うのだから、浮浪者も悪人も仮に10倍いて当たり前である。
むしろ逆の面も見るべきだ。人口が10倍違うということは、日本より10倍天才がでて当然である。経済規模が10倍になっても不思議はない。
人口の視点を、我々は発想の根幹に置かぬと、本質が見えなくなるかもしれぬ。
2007年9月13日木曜日
2007年9月12日水曜日
歌と世評
いま、この歌にあった「楽して儲けるスタイル」という風潮は依然として残っている。「この世で大事なものは タイミングに調子いいことに無責任」とあげているが、現代はこれ以上に無思索で短絡的・刹那的な風潮になっていないか。
環境問題とウソ
「環境に良さそう」、とか「リサイクルしよう」等と言われると、ああそうなのか、と納得してしまう。しかし、この本は「その環境政策は本当に理にかなっているのか」ということまで問いかける。そしてリサイクルに7倍のエネルギーがかかることや「実はペットボトルは燃やされている」こと、全く問題のないことをさも大問題であるかのように示しているという事実を突き付ける。環境政策には利権がからみ、本来行うべき石油使用の削減や食糧自給率の向上よりも、危険性や緊急性の乏しいリサイクルやダイオキシン対策へ人を走らせてしまう。部分的真理でなく、本質的な真理にまで真理追究をもとめる重要性を感じる。
筆者はこのような現状の元凶はマスコミと政府や利権団体にある、と指摘。悲しいことに科学的知見よりも「本当のようなこと」に騙される国民の姿を明らかにしている。
以下は本文から、印象的な内容を示したもの。
環境対策も弱者切り捨てである。ゴミ分別が細かくなると、ゴミの日に出せないほど忙しい人や遠くのゴミ捨て場まで歩けないお年寄りは困惑することになる。
環境教育は、誰にリサイクルの利益がくるのか、はっきりさせず、お上の言いなりで行われている。
管理職になる教師の比率
→小学校6% 中4、2% 高2、1%
教頭になる教師の比率も、校長とほぼ同じ。
意外に、管理職になる教師は少ないのである。
平成13年度「学校教員統計調査報告書」より。
ブログ名の考察
理由は3点。
1、井上陽水の同名の曲から。
2、京都の哲学の道は川沿いである。つまり川辺を歩きつつ哲学する道なのだ。私も西田幾太郎のように歩きつつ思索する人間になりたい、と思って。
3、歴史的に真相を明かした河部メモのように、真実を明らかにして残すため。
まあ、しばらく現状維持ですが。
ニッポン無責任時代
植木氏が人気者であった当時、「無責任」はどんな意味を持ったのか。現在、「無責任」はどんな意味をもつのか。映画公開当時の世相と現代を比較してみたい。


