2007年7月27日金曜日

このブログ、新たな方向性

別に「教育メイン」といっても、教育論だけというわけではない(もとからそうだ)。

これからは、「勉強法」についても書いていきたい。

2007年7月26日木曜日

リストカット

99ショップで買ったお菓子である。よく買う。

しかし、考えてみよう。

リスカって…

リストカットの省略形だ。
こんなのを社名にするのはセンスを疑う。

ヤンキー先生は議員先生になるか

昨日、高田馬場駅前でヤンキー先生こと義家氏が演説していた。

普通の議員と違い、「とにかく動くぞ」との勢い・情熱を感じた。

「ヤンキー、母校に生きる」も「母校北西余市を去るまで」も、自分は読んだ経験がある。なかなか、いいこと言うなー、と感心したのを覚えている。

しかし、教職と政治は違う。仮に議員になったとき、義家氏はどれだけ働けるのだろう。

義家氏は、周りがいうほど、無責任な人間ではないと思う。

だから結果を残すだろう、とは思う。

「私は教育に救われた人間です」
「子ども達が安心して失敗できる社会に」
「教育再生を」
この3つしか連呼していなかったのは気掛かりではある。設計図をもってるのかな?

握手してもらった義家氏の手は、当たり前だが他の人間の手と同じく、温かくもなく、やわらかくもなかった。

ある思想家の言

人間の生命には「善」もあれば「悪」もある。ゆえに人間は教育によって、善にもなれば悪にもなれる。日本の軍国主義教育がそうでした。悪を引き出し、戦争の道を進んだのです。ゆえに徹して、「人間のための教育」でなければならない。「人間の幸福と平和と自由のための教育」でなければならない。

ある思想家の言

「有能な人は、常に学ぶ人である」(ゲーテ)
(中略)
学ぶ人は偉大である。
学ばない人は卑しい。
そして、学ぶ人は'表現する人'でもある。充電と放電の関係といってもよい。貪欲に学ぶからこそ、沸騰するがごとく表現を欲する。

2007年7月25日水曜日

夏目漱石の言

「学問は綱渡りや皿廻しとは違ふ。芸を覚えるのは末の事である。人間が出来上るのが目的である。」
→学問は、人間形成のためだ!


「何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは10年20年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。」
→自分にもっと適した仕事があるのではないか、と迷うことがある。そのためにあちこちうろうろする。結局、何も掘り当てることなく貴重な人生を費やしてしまう事が多い。だからこそ目の前の課題から逃げず、前進することが必要だ。

電車

電車内では異様に本が読める。逆に自由時間が沢山あっても本はあまり読めない学習も出来ない。

「自由からの逃走」との本がある。自由すぎると逆に不自由をもとめる内容だ。暇過ぎると学問は出来ないのかも知れない。


2007年7月24日火曜日

渋滞2割削減。一体どんな渋滞から削減されるのか。

数値化は確かにわかりやすい。しかしどうやって数値化しているかよくわからないことも多い。

何でも数値にすることは出来ない、との自覚も必要だ。 

教育はとくにそうである。学力低下論争も、学力がそれほど変化していないデータを使わない(そもそも学力は数値化可能かもわからない)。

2007年7月23日月曜日

朝

朝に勝つと気持ちがいい。陰山英夫氏が

早寝・早起き・朝ご飯

を提唱するわけも、単に気持ちいいから、なのかも知れない。早く寝て、早く起き、朝を食べると頭が良くなることには、単に「きちんとした生活習慣のある家庭かどうか」くらいしか意味がない、ときいたことがある。また「朝食をやめて健康になる」との本もある。

陰山氏の活動も、単に気分でやっている、ということはないだろうか?

2007年7月22日日曜日

対話

今日一日、誰とも話さなかった。

何と言うか、ひたすら虚しい。これが1週間続けば気が狂ってしまう。

人のことを人間と書く。もとは「じんかん」とよんだらしい。文字通り、人が社会的存在であることを示す文字であると言えよう。人の間、と書くのだから。

その社会を成立させているのは、人と人との会話・対話である。

今日が虚しい理由は、対話不在にある。

現在、社会のあらゆるところに対話の不在を感じる。対話が不在のとき、空虚さを感じるわけがわかった気がする。

2007年7月21日土曜日

理性

腹が減ると、理性が麻痺する。

ひとり暮しをして、実感したことだ。

よく我々は

恵まれない子どものため、寄付を!

というが、このようなとりくみも、実感として餓えた経験がもとになっていないと、「先進国としてのエゴ」に犯されるのではないか。どんな崇高な取り組みも、「何のため」という活動の根本がズレたとき、方向性が悪くなる。

飢えた実感が、正しい援助につながる。今一度、自分の在り方を振り返りたい。

ここにいたのか、寺脇氏。「ゆとり教育」の顔。

「ゆとり教育」と教育改革の行方:1(寺脇教授)http://www.asahi.com/edu/university/kougi/TKY200707210220.html

 寺脇氏。文科省でゆとり教育を進めた人物。そして失権した人物。いま、大学教授をしていたとは思わなかった。
 
 彼は「単純に学力が低下したといってはいけない」というような発言をする。私も、確かにPICAの点数が下がったくらいでびくついていては、確固たる人間形成を教育でおこなえないと思う。また、確かに教育はそんなすぐに結果の出るものではないとは思う。
 しかし、寺脇氏の見方も、浅はかである。氏は、「ゆとり教育で、全員に百点を取らせて見せます。そうできなければ先生方の教え方がまずいといえます」などと発言していた。が、やがて前言を撤回している。
 単純に、教える量を減らせば子どもは学ぶようになる、という驕りが、寺脇氏に感じられてならない。子どもはそんなに単純な頭脳構造をしているわけではない。また学びの習慣化は、そんな簡単に発生するわけではない。佐藤学氏のいうように、子ども一人では理解の及ばない教材でも、他者とのふれあいの中で急速に学力が向上することもある。教師の言を聴けば、もっと手っ取り早く、「教える量の削減≠学びの習慣化」であると分かるはずである。
 寺脇氏には、ずるさを感じる。自分は正しい、という姿勢を崩すべきである。教育行政の実験台にされた子どもたち(いま大学2年の私もそうだ)がかわいそうではないか。一国の教育行政を背負っていた人物であるなら、もっと自分の行動に責任を持つべきだ。
 結論。教育行政は、早急に方向性を決めていいわけではない。また、この行政がきちんと子どものためになっているのか、考えていくべきである。失敗から学ぶ、とはきれいごとである。子どもの子ども時代は、二度と帰ってこない。新たな教育政策をするなら、「本当に子どもたちのためになるのか」よく考えてから行っていくべきである。

妹を食べる話

サントリー烏龍茶の広告。
萌えブームの中で見ると、危ない話にしか見えない。大手企業が新聞広告でいうほどのことなのか?

インディアン

努力、ウソつかない。

インディアン、ウソつかないのもじり。


不良言葉

勉強しねーと、見えねーもんがあんだよ。

不意に頭に浮かぶ。しかし本質をついてはいる。

河合氏、死去と兵庫県の反応

教育で先駆的取り組み 博学、ユーモアたっぷり
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000471677.shtml

 河合隼雄さんが、19日に死去。自分は兵庫出身ながら、河合氏が兵庫出身だと知らなかった。自分が中学時代に経験したトライやるウィーク(中学校での体験学習。地域の商店や企業に行き、職場体験を行う学習形態。兵庫県から実施)についても、かかわりがあったとは。

トライやるウィークって知ってますか?http://www.wmstyle.jp/archives/2004/11/29_102343.php

 人間、死んでから初めて「あ、あの人こんなことしてたんだ」と気づかれることがあると実感。

 教育界にも業績のあった、河合氏。しかし、何も知らない人に「ハヤオさんが亡くなった」といえば、宮崎駿を意味してしまう。…不謹慎ながら。

重複・大量、1人で73人分の合格実績。

73人分合格、実は1人が受験・大阪の私立校、優秀な生徒に依頼 http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070720STXKF052720072007.html

 確かに高校の受験実績の「~人」って、案外一部の生徒の実績だったりしますもんね。これを学校側が組織的に行っているのは、面白いことです。
 開成高校とかでやると、全校生以上合格者が出て、もっと面白いことになるかもしれません。すでに開成だとこうなっているのかもしれませんが。

2007年7月20日金曜日

人材

私の高校の先生はこう言った。

「私が見て来た人の中で、多くの人間が堕ちている。私が人材と思ったうちの半分は女で堕ちた。
残りのうちもう半分は金で堕ちた。残りのさらに半分は仕事で堕ちた。」

人材は数少ない。まして学園を出てから人材として、人生の終までいられる人はかなり少ない。

皆がやっているなら、追い風なら誰でも戦える。ただひとり、逆風で戦えるのは数少ない。

自分も師弟を貫いて行きたい。

2007年7月19日木曜日

甘え

 自分は、ひたすら甘ちゃんだと思う。少しのことで、「自分はすごい」と思い、少しのことですぐに落ち込んでしまう。『タイゾー化する子どもたち』で原田武夫が嘆いた若者になりつつあるようだ。
 甘えを排するにはどうするか。強き一念を定めることである。自分はこれをやるのだ、と強く決意することである。
 

院のあと

 大学院に行ったあと、どうするか。道は、3つ考えた。

 1、教師になる。
 2、教授になる。
 3、国家1種をとり、文科省に入る。

 1以外の2と3は、かなり難しい。教師になれる数と、教授や文科役人になる定員は限られているからだ。他に家庭裁判所調査官というものもある。僕は一体何をすべきなのか。

大学院に、何故いきたいのか。

 教育に関する本は非常に多い。しかし、どこにも「教育とは~~だ」との、明快な答えはない。教育において、長井秀和のネタは成立しないのだ。間違いはたくさんある。

 教育、教育、教育。たしか、ブレア首相の就任演説も教育の連呼だったらしい。答えはよく分からない。それでも、延々と答えを求め続けるしかない。教育とは、そういうものかもしれない。それなのに、私は大学院に行きたいと考えている。何のために? 教育について考えるため? 教育の定義づけのため? よくは分からない。しかし、ただ研究したい。学びたい。深めたい。何か教育学上で、自分の努力を貢献したい。教育について、専門的な立場から話をできる人間になりたい。高等教育を受ける以上、受けられなかった人たちに恩返しをしたい。

 いろいろ、深めていきたい。

人のありがたさ

 一人暮らしをすると、人のありがたさがよく分かる。特にTVもないと、人のありがたみがよく分かる。
 究極の暇つぶしの道具は、他者である。未知の存在、どこまで掘っていっても、完全に相手をすべて分かってしまうことはない。人生経験がまるで違うのだ。どこまでいっても、完全には分かり合えない。しかし、そこが人付き合いのいいところである。

アマラとカマラ

 教育学の本に必ず出てくる、アマラとカマラ。インドで発見された、いわゆる「オオカミ少女」。アマラとカマラは、狼に育てられたらしい。しかし、本当のところ、よく分かっていない。狼の乳には人間には消化不良なものがあるから、らしい。

 真実が分かるたび、ロマンがなくなる気がする。

 でも、原作だとアマラとカマラの「母親」たるメスオオカミや他のオオカミの子どもたちは、射殺されちゃってるんですよね。これって、本当にいいの? こう思ってしまいます。

 原作にある写真。何故かアマラとカマラは、ふんどしをしている。当時のインドの風習なんでしょうか。

本が読めない!

 どうしようもなく、本が読めなくなるときがある。めがねの度があっていないのか、疲労困憊なのか、理由もなくそうなっているのか、よく分からない。しかし、いま私は当にその状態にある。
 理由はなんだろうか。3点思いつく。
 1点目、テスト前だから。期限が近づくほど、何故か勉強したくなくなるときはある。
 2点目、ダンテの『神曲』を読んだから。分からなさ過ぎて、本を読む感動が沸かなくなったから。
 3点目、頭の中がマンネリズムに陥ったから。私の読む本は教育に関するものが多い。そのため、頭脳の中がいっぱいいっぱいになっているのではないか。
 
 こういう時は、量が少ないのに、一冊の本の形式をきちっともっている、中谷彰宏の自己啓発本がいい。
 中谷彰宏の本は、何もしない価値、何度も同じものを見る価値など、近代思想が取りこぼしてきたものを再評価する本が多いような気がする。いわば、童話『モモ』的価値といえよう。ポストモダン的発想といえなくもない。睡眠時間を削る、という表題の本がはやる時期に「やっぱり寝るほうがいいよ」といったり、「早くしなきゃ、早くしなきゃ」とあせる人に、「集中力をつけるには意識的にゆっくり動かなきゃ」と諭す。うーん、これはすごいことだ。

 早く、本を読む生活に復帰したい。ちなみに今日私は『神曲』の地獄編、読了しました。すごい本です。ソクラテスやプラトンが地獄にいるんです。それも、神を信仰しなかったために。当時のローマ教皇も地獄に落としています。聖物売買の咎で。なんともすごい本です。大学時代に読めて、よかったと思います。余り理解は及びませんでしたが。

専門書を捨てよ、教育の場に出よ

 教育ボランティアで、ある高校の寮のお手伝いをしている。男なのに、寮母という立場である。なかなか、楽しく、かつ大変な仕事である。
 教育って、結局は人と人とのかかわりによってできるもの。教育学の専門書では見えてこないものである。

 教師になりたい学生はたくさんいる。熱意溢れる人たちもいることは、私の友人を見ていても思う。その学生たちは、すぐに何らかの形で教育に関わったほうがいい。より深く、より本質を突いて学ぶことができる。どんな大人も、子どものカリスマティックアダルトになれる、との言葉がある。自分でしかかかわれない子どもは必ずいるのである。だとすれば、目の前の子どもに、私たち大人はかかわりを持っていくべきである。

 モモは村人の話をひたすら寄り添って、聞いていった。教育は促成栽培ではないので、モモの視点を忘れず、関わっていくべきである。教職に志す人たちには、この視点で関わっていただきたいと思う。

やる気がしない。

 何か、非常にやる気がしない。どうしてだろうか。
 テスト前の喧騒、一人暮らしの静けさ。何かしないといけないのであるが、何をすべきか分からない。「旅人よ/いづこより来たりて/いづこへいかんとするか」との言葉がある。人は自由すぎるといろいろ迷ってしまうのではないか。そう思う今日この頃である。

2007年7月17日火曜日

教育とは

教育とは夢だ。

教育とは未来を作ることだ。

しかし教育は権力だ。

教育は人のコントロールの異名だ。

教育は洗脳だ。

おまけに教育は無力だ。

それでも
教師は教育を信じるしかない。

教育は無限の可能性を持っている。しかしそれもうまく働く時のみだ。

人権侵害と
洗脳の狭間、間一髪の所にあるもの

それが教育であるのだ。

研究室でも
会議室にも
教育はない

あるのは
教師と生徒
親と子ども
人と人が出会うところ。

人と人との交わり、
それが教育でもある。

ともあれ
教育とは何か
との問いは
答えることができぬほど
難しい

それでも僕は
その答えを探したい

待つこと・見つめること

 最近、「待つ」こと・「見つめる」ことの重要性に気づいてきた。 
 すべてを教えるのは、よいことではない場合がある。相手が学ぼうとしていないときに教えるのはかわいそうだ。子どもが失敗し、そこから学ぶのを防いでも意味はない。齋藤孝は自著の中で、ハンマー投げの室伏の父は、じっと彼の投げを見つめ、ついに何も言わない日がいつもであり、ためにボソッと「よくなった」といったらしい。教師はついつい教えたがるが、それで自分と同じレベルにはできても、自分以上の人材にすることができない。
  子どもは未来からの留学生である。前に田中さんもいっていたように、教師以上に実力のある子ども・知識のある子どももいる。その子たちに子どもだましの知識を与えることはできない。
 子どもたちは、自分の存在に関わらず、存在する。教師が存在しなくても、生徒は存在する。だとしたら、自分が彼らを拘束してしまっては、彼らの可能性を閉ざすことになる。  言うべきことはきちっといい、相手のいい点は自由に伸ばすこと。これが必要なのだと思う。

2007年7月3日火曜日

パルシステムの牛はずばりドナドナだ!
配送トラックに描かれた絵は人々に助けをもとめているんだ!

2007年7月2日月曜日

松屋のCMには外国人をつかわない。