2007年12月30日日曜日
2007年12月29日土曜日
2007年12月28日金曜日
2007年12月27日木曜日
2007年12月26日水曜日
2007年12月25日火曜日
コミュニケーションとしての教育
コミュニケーションとしての教育
という発想が必要かもしれない。
コミュニケーションは、多湖あきら氏のいう「雑談力」を鍛えることになる。そして文明の発展が低迷化してくるであろう近未来でも、会話は大切である(オートメ化はギリシアの奴隷と貴族のように人々を有閑にする)。
社会で役立つ・役立たないを越えて、コミュニケーションとしての教育・交わりとしての教育
を指向していくべきではないか。
2007年12月24日月曜日
学校で教えない会話法
ほとんどの人は学校外で矯正されるが、私はそうではなく、いまさらながら他の多くの人達が幼少の頃に発見したことを発見している。
人が大人になるには、非常に多くの物事の発見が必要なのだ、と思う。学校がそれを教える場であればいいのであるが。かえって嘘を教えているような気がするのである。
2007年12月23日日曜日
2007年12月20日木曜日
2007年12月18日火曜日
コズミックセンターの…
冬の星座として、オリオン座のはなし。オリオンの後ろにおおいぬとこいぬ座が控え、獲物を狙っている。オリオンの視線には牡牛がいる。オリオンの足元には獲物の兎、さらに下には鳩がいる。
オリオン座しかしらない私だったが、星座のドラマをしる。
今日、星を見上げてみた。オリオンは見えるが、おおいぬはシリウスのみ、子犬もプロキオンだけ。兎と鳩は存在もない。
都会の侘しさ。
2007年12月16日日曜日
普遍
よく「−−なんて、嫌いだ」と俺はよくいうが、その一言が仲のよい何名かを斬るつもりはさらさらないにも関わらず、切り捨てていることがある。
個別を無視して、普遍のみを見てはならない。
利害関係外のつながり
他人であるほうが、プラスとなることもあるのだ。
2007年12月11日火曜日
第2節 社会-文部科学省
→中学の学習指導要領。
教育学をやるなら、何かと文科省のWEBサイトが便利である。当然、ブックマークしてますよね?
最近、講演を聴きに虎ノ門まで行った。帰り、そのままほっつき歩く。気づけば霞ヶ関。
「埼玉にも同じ地名があるよね」といいつつ、友人と行く。
ふと見ると、暗闇に映えるビルが。見ると、文部科学省のビルである(別館)。
「誰か、ここの住人が俺の同期から出るかもしれない。」ワセダの恐ろしいところである。
2007年12月10日月曜日
2007年12月7日金曜日
2007年12月6日木曜日
2007年12月5日水曜日
2007年12月4日火曜日
アランと肉体
人間は思考を重視し過ぎている。もっと「考えない」重要性を見てもいいのでないか。人間も、所詮はサルである。考えるのは人間の特徴だが、それに絶対の価値のあるわけでない。
もっとパパラギでいってもいいのでないか?
疲れたとき、人間はもう無理だ、と思う。アランなら「そんなこという間に、寝ればいいじゃないか」というだろう。
「両立なんて無理だ」と考える前に、ただ淡々と「考えず」やるだけことだ。自分も「これはむりでないか」と考えるほど、無理のように思え、実際無理になったことがあった。高校時代である。
2007年12月2日日曜日
2007年11月29日木曜日
カラオケの歌詞より
荒野を渡る風 ひょうひょうと ひとり行くひとり行く 仮面ライダー 哀しみを乗り越えて ひとりひとりたたかう されどわが友 わが故郷 ひとりでもひとりでも護る護る俺は 仮面ライダー
あきれるほどに そうさそばにいてあげる 眠った横顔 ふるえるこの胸ライオンはーと
…「よりそう」「そばにいる」という、現在の心理学とおなじ方向性が歌詞の中にあることに気付く。
SMAP
SMAPの歌はカラオケでかなり使える。
それはSMAPがいい歌を出しているからか、SMAPに歌を提供する人が凄いのか、SMAPの雇用主のジャーニーさんのコネがかなり広いのか、のどれかだろう。
2007年11月25日日曜日
呼び捨て
昔の、欽ちゃんエピソードを思い出す。
はじめ視聴者からの葉書を「さん」付けで呼んでいたそうだ。そのとき視聴者よりこんな手紙がくる。
「友達なんだから呼び捨てにしようよ。仲良くなれないじゃない」
以来、呼び捨てにするようになったそうだ。
仲良くなることの一つの現れに、名前の呼び捨てということがある。そのことに気付き、慣れない中、無理して直してよかったとおもう。
2007年11月18日日曜日
2007年11月16日金曜日
アウトサイダー
写真はそこのオリジナルである、早稲田というカクテル。ウォッカベースで作ってある。味もそうだが、色に感動した。何故早稲田かは、いろから推測してもらいたい。
たまには高めだが落ち着いて飲めるところに行くのもいいものである。
2007年11月6日火曜日
ひとつより、ふたつ
2007年11月5日月曜日
カラオケ
自分はカラオケするなら少人数でいろいろ歌えるほうが好きなのであるが。私の様にカラオケの下手な人間にとって、大人数カラオケは場違いになる。
それでも多分、大人数カラオケに好き好んで参加してしまうのが哀しい性である。
本当のことをいえば、カラオケでオールをするのが何故定番となっているのか知りたい。ほんの40年前にはなかったのに。
2007年10月30日火曜日
2007年10月27日土曜日
2007年10月23日火曜日
自己の悲哀
俺は無理だ、出来ない、辛い…
こんな自己への不信を捨てるのだ! 自分の可能性を自分が信じないで、誰が信じられるのか。弟子の誇りというけれど、自分が「弟子になる!」と決めないで、誰が決めてくれるというのか。
自己の悲哀。先ずは打ち勝とう!
2007年10月17日水曜日
2007年10月15日月曜日
例えば子どもがいるだけで
2007年10月14日日曜日
2007年10月13日土曜日
2007年10月12日金曜日
2007年10月11日木曜日
2007年10月10日水曜日
2007年10月9日火曜日
2007年10月8日月曜日
2007年10月7日日曜日
携帯考
同じくらいの金額の携帯電話は、カバーをつけない。
圧倒的にやすい本(特に文庫本)には、皆カバーをつける。
何故だ? 大事にすべきは携帯ではないのか? 本って、破れても読めるぞ? 携帯は壊れたらおしまいだぞ?
無意味なものにも、価値付けを!
一見無意味なものから、多くの発見があった。無意味なものを「無価値」として切り捨てていては、新たな発見はないかもしれない。だからこそ、一見無意味に見えるものを、大事にしていく態度が必要となるだろう。意味がないからといって、なくしていい訳ではないからだ。
ドラえもんに出てくる空き地。大人から見れば、「売れ残りの土地」である。無意味な物件だ。しかし、子どもたちには大事な「遊び場」(テレビ朝日版「ドラえもん」は、いきなり「空き地がなくなる!」という、子どもにとってショッキングな出来事から始まったことを考えていただきたい)。
一見、無意味なものを切り捨てていくのはやめよう。邪魔なものでないなら、残そう。「変えて意味のないものは、変えないほうがいい」と兼好法師も行っている(「改めて益なきことは、改めぬをよしとするなり。『徒然草』第127段)。
教師像
教師が生徒に「勉強しろ」という前に、自分が勉強しているのか?
教師が生徒に「ウソをつくな」という前に、自分がウソをついてはいないか?
教師はときたま、生徒に自分もできていないことを要求する。俺はその態度をやめたいと思う。教師なら、難しくとも自分の理想に挑戦している姿を生徒に示す。そして、「難しいけれど、僕も理想をかなえようと努力しているから、君たちも努力して行ってほしい」と訴えられる教師になりたい。
ひとつより、ふたつ
「これしか方法がない」より「他にも道がある」ほうがいい。
「こうでなければならない」よりも「こんな道もある」ほうがいい。
別の選択肢のある社会こそ、豊かな社会だと思うからだ。
2007年10月6日土曜日
2007年10月5日金曜日
2007年10月3日水曜日
2007年10月2日火曜日
2007年10月1日月曜日
2007年9月30日日曜日
もっと自由に生きよう。
多くは直っては来たが、まだまだいくつかは引きずっている。言語コードを豊かにする、との項でも書いたことである。
自分は多くの決まりを引きずってきている。すべてが善である、と信じて。しかし、善の基準は相手によって、場所によって異なる。友人との親しい関係を作るとき、呼び捨てできないのは大きなハンデとなる。つまり、自分の行動を起こすとき、譲れない「2%」にあたる部分以外は相手のことを考えて行動すべきなのだ。同じ事を伝えるのにも、多くの言い方・あらわし方・動き方がある。譲っていい98%を上手に使って、譲れない2%を伝えていけばいいのだ。
私は、いろいろな顔を見せながら、いろいろな方法・テクも使いつつ、なおかつ「これは死んでも伝えたい、表現したい!」とのやむにやまれぬ熱意を持って、生きていける自分になりたい。まずは、友人を呼び捨てできるようになりたい。より以上の仲の向上のために。
*参考として、原孝『その言い方では、人はついてこない』(PHP文庫)を使用した。
思い、と両立
両立に必要なものは、テクニックなどよりも思いである。「自分は絶対これをやり切るのだ!」との強い決意は、不可能を可能にするほどの力があるはずだ。
手帳はA5にすべきか
いま、私のメインのメモノートをA5サイズとした。この際、手帳もA5サイズにしようかと思う。そのほうが一覧性もあがるし、メモとの連動も簡単だ。難点は超整理手帳のよさである、スーツの内ポケットに入るというアドバンテージが使用できなくなることである。これは残念だ。また、リフィル使用時の見えない面が増えるのも難点である。あと、重大にして最大の問題点は、A5サイズのカバーは高い、ということである。これは残念だ。なかなか思い切ることができない。
やすいA5カバーを買って、新たに挑戦してみたい。
2007年9月29日土曜日
2007年9月28日金曜日
「教育のための社会」メモ
いろいろ欠点を持つ子でも、鷲田清一風にいうなら「にもかかわらず愛される」ということである。
子どもの可能性を発揮する場を多く作る。
→イギリスの「ブックスタート」。0歳から5歳までの子どもに例外なく無料で絵本等の詰まったプレゼントを贈ること。政府が行っている。
2007年9月26日水曜日
2007年9月24日月曜日
携帯ということ
携帯電話の略としての「携帯」との語は、極めて適切な言葉であった。なぜなら、電話として使うことよりもそれ以外に携帯電話は使用されるようになったからである。
メールにテレビ、カメラ、ラジオ…
ゴルバチョフのことば
「21世紀の精神の教訓」
2007年9月23日日曜日
2007年9月22日土曜日
先生を選べ
理由は忘れたが、
「あの先生のいうことだから、何か意味があるのだろう」と受け止めることが大切だ。自分の先生の発言や著作のヘキゲン節句をあげつらい、批判して「我賢し」、というのはあるべき姿ではない
とあった。そして「先生を批判するよりも、自分自身がその先生の理論を乗り越える」重要性を説いていた。
2007年9月21日金曜日
2007年9月20日木曜日
2007年9月19日水曜日
エルンスト・マッハ

マッハのみた世界、それはマッハにとっての直接経験である。マッハがものを学ぶとき、写真に示した世界を見ているということを意味する。「客観的」だと思われるものも、結局は白黒で示したマッハの写真のように、「主観的」なものが前提になっている。
フッサールは、こうした「主観的」光景こそが根源的だと考え、派生的な「客観性」をこの光景にまで引き戻さねばならない(還元せねばならない)と考えた。この場合、学問的であるためには、なんとしても、この光景に還元せねばならないのである。というのも、私たちは、この光景(あるいは表象)の外に出ることができないからであり、それにもかかわらず、その外に出られると考えるのは、非学問的だからである。谷徹『これが現象学だ』(p47、2002年、講談社現代新書)

ちなみに、右のが私が試みた「私の直接経験」である。マッハの絵をもとにした。

2007年9月18日火曜日
政変と雑誌と平常時
何も事件のないとき、それでも売り上げを高めようとするため、デマやでっちあげ報道をしてでも、マスコミは自ら重要な事件をつくろうとするのかもしれない。
何もないなら、わざわざ雑誌を作らずともよいのではないだろうか。報道自体が自己目的化していないか。
2007年9月17日月曜日
2007年9月16日日曜日
2007年9月15日土曜日
2007年9月14日金曜日
中国
私はいろんな中国論を聞くが、ひとつ重要な点を外した議論が多いと思う。
それは中国には日本の10倍人がいる、という点だ。
中国製品叩きはいま多い。しかし、日本の10倍人がいるのだから日本の10倍不良品が出ても、半ば当然といえるのでないか。
犯罪者が仮に日本の10倍いても当然である。人口が10倍違うのだから。
軍事もしかり。日本はかなりの軍事大国。それでも人口は中国の10分の1。なら中国が日本の10倍の軍事を持たぬかぎり、中国のみを軍事大国と批判することはルール違反のはずだ。
人口が10倍違うのだから、浮浪者も悪人も仮に10倍いて当たり前である。
むしろ逆の面も見るべきだ。人口が10倍違うということは、日本より10倍天才がでて当然である。経済規模が10倍になっても不思議はない。
人口の視点を、我々は発想の根幹に置かぬと、本質が見えなくなるかもしれぬ。
2007年9月13日木曜日
2007年9月12日水曜日
歌と世評
いま、この歌にあった「楽して儲けるスタイル」という風潮は依然として残っている。「この世で大事なものは タイミングに調子いいことに無責任」とあげているが、現代はこれ以上に無思索で短絡的・刹那的な風潮になっていないか。
環境問題とウソ
「環境に良さそう」、とか「リサイクルしよう」等と言われると、ああそうなのか、と納得してしまう。しかし、この本は「その環境政策は本当に理にかなっているのか」ということまで問いかける。そしてリサイクルに7倍のエネルギーがかかることや「実はペットボトルは燃やされている」こと、全く問題のないことをさも大問題であるかのように示しているという事実を突き付ける。環境政策には利権がからみ、本来行うべき石油使用の削減や食糧自給率の向上よりも、危険性や緊急性の乏しいリサイクルやダイオキシン対策へ人を走らせてしまう。部分的真理でなく、本質的な真理にまで真理追究をもとめる重要性を感じる。
筆者はこのような現状の元凶はマスコミと政府や利権団体にある、と指摘。悲しいことに科学的知見よりも「本当のようなこと」に騙される国民の姿を明らかにしている。
以下は本文から、印象的な内容を示したもの。
環境対策も弱者切り捨てである。ゴミ分別が細かくなると、ゴミの日に出せないほど忙しい人や遠くのゴミ捨て場まで歩けないお年寄りは困惑することになる。
環境教育は、誰にリサイクルの利益がくるのか、はっきりさせず、お上の言いなりで行われている。
管理職になる教師の比率
→小学校6% 中4、2% 高2、1%
教頭になる教師の比率も、校長とほぼ同じ。
意外に、管理職になる教師は少ないのである。
平成13年度「学校教員統計調査報告書」より。
ブログ名の考察
理由は3点。
1、井上陽水の同名の曲から。
2、京都の哲学の道は川沿いである。つまり川辺を歩きつつ哲学する道なのだ。私も西田幾太郎のように歩きつつ思索する人間になりたい、と思って。
3、歴史的に真相を明かした河部メモのように、真実を明らかにして残すため。
まあ、しばらく現状維持ですが。
ニッポン無責任時代
植木氏が人気者であった当時、「無責任」はどんな意味を持ったのか。現在、「無責任」はどんな意味をもつのか。映画公開当時の世相と現代を比較してみたい。
2007年9月11日火曜日
言語コードを広げること
標準語、方言、崩れた言い方、いろんな一人称名詞を使いこなして話したい。何故ならその分表現が豊かになるのだ。前に被抑圧者の方が言語コードが豊かになると書いた。そこから一歩飛躍し、自ら言語コードを広げる努力をしていきたい。
2007年9月10日月曜日
研鑽、研鑽
そのためには常に研鑽だ。学びに学んでやる。
表現欲
ある本に、「これは子どもに表現欲を持たせる実践である」とあった。
私はこの「表現欲」との言葉に印象を受けた。私がいまこの文を打っている原動力の、最適な説明であると感じたからだ。
かつての生活綴方は紙とペンであった。現代のそれはblogという形で実現可能かもしれない。
映画「ブラックブック」
従来の構図を覆し、「ナチの幹部にも良心があり、レジスタンスやユダヤ人の中にも悪魔がいる」ことを示している。
保身のため、終戦後すぐ連合軍に部下を売ったナチの大尉。慈悲の心を示すナチの中尉。仲間を売ったレジスタンス。人間の本性を追究する映画だ。
ナチスの幹部といえども、彼等が悪魔のように冷淡な人間であったわけでない。そのことを知った映画だった。
この映画は誰の心にも悪の命があり、同時に善の命のあることを示している。
自己の内面にあるグシャグシャした命を垣間見た気がした。
2007年9月9日日曜日
2007年9月8日土曜日
NPO教育行政監視委員会
善が力を持つとは、悪を監視していくことである。
最近、小学校の学習時間が1割増えた。これには、文科省は何もしていないというようなクレームをそらす働きのある気がする。本当に教育行政は、子どもの幸せのために働いているのか? 感覚の問題ではなく、きちんと実地調査をした上で、見ていく必要がある。教育の専門家の知見のみではなく、専門家以外の意見も取り入れていく。無論、普通ならば気づかない小さなものでも、よい行政政策なら積極的に掘り出し、明らかにしていく。
学部学生中に作りたい。というか、俺が作る。
教育と漫画
スラムダンク、ドラゴンボール、バキなど子どもが好きな漫画を読み、子どもと話をする。そこから開けるものもあるのではないか。
教育ボランティアでも大事なことであろう。
2007年9月7日金曜日
2007年9月6日木曜日
モアイ
立正安国論に、「誤った思想は国を滅ぼす」とある。イースター島に於いて、モアイは宗教心の発露であった。それが権力誇示の手段になり、モアイ作りが自己目的化した。もともとの宗教性が弱いため、モアイ作りに因る環境破壊が起きた。その後、内乱も、他国の侵略も起きている。
日本によりもイースター島のほうが、御書そのままの結果となったことに驚きを隠せない。
人々の信ずる思想・宗教が正しくない、あるいは哲学性の低いものであるとき、悲劇が起こる。イースター島でも、もっと環境との調和を説く思想がひろまっていれば、と思うのである。
カラオケ
このときその歌を選ぶ必然性といえるものがあるのではないか。つまり、Aという歌を選ぶ背景には、歌う人の生命状態とAという歌とのあいだに、何らかの共鳴する点があるのだと考える。
その人が何を歌うか。そこからその人の心理状態をしることが出来るのかも知れない。
たとえばいくら流行っている歌でも、自分に合わないという歌を人はうたわない。
田舎
田舎の移動手段は車。都会は電車。電車は立つが車は座る。意外にも都会のほうがよく体を使う。
同様の理由で、都会人より田舎人のほうがCO2排出量が多い。田舎は自家用車、都会は公共交通機関。以上。
2007年9月4日火曜日
2007年9月3日月曜日
中央線の遅れ
しかし、中央線が遅れ、今各停がでるなら、そちらのほうが早い。むしろ快速にのる本来のルートより早く到着する。
遅れたほうが早い事もあるのだ。中央線は難しい。
行動の中に思いを入れる
これではいけないと、真剣に思う。「作業」を超えよ。もっと、行動の中に思いを入れていけ。
この点ができるようになれば、自分はもっとすごい人間になれるはずだ。その姿を想像すると、興奮してくる。
自分の一凶ともいえるこの点。何としても変えていく。
2007年9月2日日曜日
2007年9月1日土曜日
千と千尋の神隠しからの考察
子どもの成長の急激さを思う。成長にはしかるべき環境と場に置かれたほうがよい、ということも。
フーコー思想の断面
かつて社会のなかにあふていた狂気は、近代になって精神病院に囲まれるようになった。
近代人は古代や中世のひとと違う見方をしているだけだ。人はその生きる時代に特有のものの見方にとらわれ、その外に出ることは出来ない。誰もが一定の思考の枠組みにとらわれている。
職人
筆記具、本、紙、パソコン、人脈ではないか。
このなかで個人の努力でグレードをあげれるものは、上げるべきである。
筆記具は、もっともレベルを上げやすい。
仕事道具たる筆記具に、学生はどれくらい気を配っているのだろう。仕事道具にこだわらないで、いい仕事つまり学問が出来るはずがないのである。
2007年8月31日金曜日
インド仏教はなぜ滅んだか より
ロシアの数学者
しかし今気付いた。自分はほとんど家におらず、ながもちしか持たない教授とほとんど同じ生き方をしているのでないか、と。
2007年8月30日木曜日
2007年8月29日水曜日
2007年8月28日火曜日
2007年8月27日月曜日
人生の成功
お笑い芸人でいまも司会を続けている人は、学ぶ力のある人である。明石家さんまは自分のテレビ番組を全て録画、見て自身の芸を研究していると聞く。島田シンスケも同じだそうだ。
成功者は学ぶ人である、とするなら、高学歴が成功の十分条件だ。高学歴の人は少なくとも、学校の勉強は出来るからだ。
人生の成功も、その人が学べるか否かにかかっていると思う。和田秀樹があえて(高学歴を我が子にあたえなさい)というのも理由がないわけではない。
ウィンナコーヒー
しかし不思議だがスタバやドトールなど、大手のチェーンではウィンナコーヒーは飲めない。
もっと安く200円くらいで、飲めないものだろうか?メーカーさん、いいビジネスチャンスだと思うのでご検討ください。いまのだと高くてそう簡単に飲めないのです。
千と千尋の神隠しより
これは子どもは親の知らないところで成長していることを示しているのではないか。
神隠しは昔からずっとあった。異界を子どもがさ迷う体験である(高橋勝先生の教育人間学だ) 。高橋先生に因ると異界は子どものそばにあるらしい。
かくれんぼで身をひそめるとき、子どもは生きているとも死んでいるとも言えぬ世界に存在する。これが異界だ。またこのゲームの「オニ」というのも、現実にない存在との出会いを意味する。
異界との出会いのなかからも、子どもは育つ。異界との出会いでしか学べないこともある。千と千尋は、このことをとく話かも知れぬ。
カオナシ
カオナシは現代人の象徴。個性がなく、ジコチュウ。
このカオナシはゼニーバのところで手芸の手伝いをすることになった。
これは何を意味するか。現代人の救済には、誰かのために行動すること・なにか手に汗して行動することにある、とのメッセージでないか。ゼニーバも「魔法で何でもやると何にもならない」といってるし。
2007年8月26日日曜日
2007年8月25日土曜日
師
苦しいことがなければ、訓練を受けなければ、人は偉大になれない。最近、「やりたくないことはやらなくていい」という、悪しき自由主義・放任主義がいきわたっている。いまはいいかも知れぬが、人生は長い。残りの生涯、どうすごすのか?
苦しいことがあっても、やりぬく。
「足元の蟻」感覚
当たり前だと感じていたもののあらたな一面を見つけるような感覚だ。旅をするのも、本を読むのも、そういった感覚を味わいたいからの行動であるかもしれない。
2007年8月24日金曜日
2007年8月23日木曜日
2007年8月22日水曜日
ある思想家のことば
なぜ物語には悪い大臣がでるのか
なぜ、あえてこのような者を大臣にしているのか?私は社会学の用語である「コアプテーション」がヒントになると思う。
対抗勢力を敵視せず、あえて自分の陣営に取り込むこと、それがコアプテーションだ。
国内をまとめるため、あえて政敵を大臣とし、大臣派の人々を懐柔した王様。しかし大臣は王を目指す。ここからさきほどの物語が始まる。
現実社会にもこれがあり、自民党の旧派閥が該当するだろう。
まずいもの・うまいもの
子どものときに、またはじめて食すときまずいものが、しばらくすると珍味としてもてはやされるようになる、と。
ビールに始まり、牡蠣、雲丹、煙草など多くのものが該当するだろう。
私は豆乳もそのひとつでないかと思うようになった。
「ヴィジュアル時代の発想法」
「情報の価値とは何でしょう。
それは関係性にあると思います。
個別の情報ではなく、それらが出会い、溶け合い、融合したところから、新しい生命を持った情報が生まれる。それこそが価値となるのです。」
→創造における、直感や偶然の復権を説いた本である。
2007年8月21日火曜日
旅行記をもとにした授業
後日それをスライドショーしつつ、教科書ではわかりにくいことを、教師の経験とビジュアルをもちい、解説する。
地理や歴史、政経など多くの社会科科目で活用できる。
生きた学問を伝えられる。それに教師の経験を話せるので、授業が生き生きする。
2007年8月20日月曜日
歩きながら考えるツール
片手でかける、字が暴れない、帰宅後すぐに文章化できる。
実際、この文章は西田幾太郎ゆかりの哲学の道を南禅寺に歩みつつ、書いている。
もう少し技術があがればブラインドタッチも可能になるのだが…
京都駅テヅカワールド
未完の書である。続きを読みたかった。
それにしてもゲーテをもとに漫画を書くという、手塚治虫の思い切りのよさに感銘をうける。ゲーテを引用することは私にも出来るが、ゲーテをまくらに話を組み立てることはそう出来るわけではないからだ。漫画の神様にしか出来ぬことであろう。
トートバッグ
お土産いれるとき、大きな荷物をロッカーにいれ財布やカメラを運ぶとき、ゴミを別に分けるとき
…多くの使い方がある。あると便利、ないと不便。今日私は京都観光。無くて困っている。どこかで買おうか?
「養生訓」
限りある命を、養生する方法をしらないまま、無駄にするのは自殺と同じ。この貝原の指摘にハッとした。
この本のすごいところは「長生きしたいなら、若いときに性行為をやりまくってはならない」とまともに書いているところである。最近のどの本にも「ここまでストレートに書かないだろう」というくらい、明確に書いている。
自分が真実と思うことを言い切る。貝原の姿からその重要性を感じた。
2007年8月19日日曜日
学習と自己目的化
子どものノートとり、参考書への過度のマーキング、下線引くのにわざわざ定規を使う、線を引いて消せばいいものをわざわざ消しゴムで消し、ボールペンでいいのにシャーペンでカシャカシャ無駄な芯出しの苦労をする。
何かあてはまることはないだろうか?
全て、学習には何の関係もない行為である。何でこんな無駄をするのか。学校の教師の学び方が下手で、効率のいい学習法を提示できない点に問題があるのでないか。
1984
筋はわかる。しかし、英語力のなさがたかり、細部は読み取れなかった。
結局、「読了のための読書」になってしまった。読書の自己目的化である。これでよいのだろうか?
カントが死の床でいったように「これでよいのだ」といいきれれば楽であるのだが。
ネットワーク社会のゆくえ
過疎の進む田舎と社会が繋がったのである。これは何を意味するのか。
まずかつては都市でしか享受することの出来なかったサービスを田舎で得ることが出来る。過疎化しても、都市と繋がりを持つことが可能になる。Uターンしてくることも容易になる。
文明の発達は都市化と過疎化をうんだ。ネットワーク化はその矛盾を埋める存在であるかもしれない。いや、過疎・過密を防ぐため、断じてそのような働きを持たせるべきである。
2007年8月18日土曜日
2007年8月17日金曜日
2007年8月16日木曜日
ドストエフスキーの言葉
2007年8月15日水曜日
小牧治著『カント』(清水書院)より
→幸福になること自体でなく、幸福になるだけの行動をすることが重要なのだ。
人は、人事をつくして、しかもつくしえない自己をなげくとき、かえってそこで、「人事をつくして天命をまつ」の境にふれるのである。天助としての神を望むことがゆるされるのである。あらんかぎりの努力をするとき、自らの物理的能力のうちにないものが、より高い存在である神の協力によって補われるのを、望みうるのである。それこそは、純粋理性の信仰とも称しえよう。ここから宗教への道も通じるのである。(p185)
→神頼み的宗教は、無意味である。努力したことを最大限に発揮するために、宗教があるのではないか。よく仏法は道理といわれるゆえんであるのでないか。
2007年8月14日火曜日
本の一節
効率主義に対しての批判は、効率が上がっていないために起こる
教科書は厚いほうがいい
詰め込みや理解重視か、受け身型学習かそうでないかという2者択一の思考でなく、学習者にとってどちらが学習しやすいかを問うべきである。
勉強法のワナ
方法論は、自己目的化する傾向性がある。方法を知っても実行しなくなるのだ。
受験生は勉強法の本にはまる。私も和田秀樹に始まり柴田氏などにうつっていった。そして気付く。勉強、ほとんどしてないじゃん、と。
方法を知った方が、効率は上がる。大事なのは何のための方法論か忘れず、方法論にもてあそばれないようにすることだ。
モンテーニュのエセーに、
自分は猫と遊んでいるが、本当は私が猫に遊ばれているのでは
という一節がある。方法論はあくまで方法論なのだとの自覚を忘れてはならないだろう。
2007年8月13日月曜日
異業種の交流
人間主義とは、使う人のことを最大に尊重する立場である。人間主義のためには各業界の枠を越えた、新たな視点からの発想が、固定観念を破る上で役に立つのかも知れない。
アイデア・本コンシェルジュ
司書さんとどうちがうのか。これは難しい定義だ。一つ言えるのは、このコンシェルジュの人は事務所を自分で持っている点か。
映画の存在価値
1、疲れたがまだ寝るには早いとき
2、思考が停止したとき
3、寂しいとき
心の治療薬が、私にとっての映画なのだろうか?淀川さんも「皆が毎日映画を見ると、社会はもっと良くなる」といっていた。
ピアジェ
いって驚いた。何百万もの値札の着いたピアジェのアクセサリーを展示していたからだ。
痛恨のミスであった。
大学名の研究
1、地名(東大・早大など。最近流行りの「国際」も入る)
2、元号(慶大・明大など)
3、固有名詞(上智大・同大など)
この3つを組合せているようである。
一般的に、1は指す面積が狭いほど、2は元号が古いほど、よい大学となるらしい。
あいずライナー
このライナー、新幹線の席より快適。リクライニングで座席も動く。なかなかハイテクだ。
2007年8月12日日曜日
湖と自己
今日は猪苗代湖にきた。この湖で泳いだ。かなり大きい湖だ。この湖も、自分の存在に関わらず、存在している。だとすればやはり自分にもてる全ての力を出し切るべきである。微力を傾けるのだ。
2007年8月11日土曜日
2007年8月10日金曜日
海外に行かずとも
海外にいって世界の貧困がわかったという御仁は、その実何も本質を見ていないのではないか。
足下を掘れ、そこに泉あり。先ず櫂より始めよ。先賢の教え、軽んず可からず。
2007年8月8日水曜日
2007年8月7日火曜日
義家弘介の言葉。教育の定義
「教育とは『権威や制度』による導きなどではけっしてない。教育とは『真の思いと情熱』の導きに他ならない。私は決して忘れない。私自身が、泥だらけの真っ直ぐな思いだけに救われながら、今日まで歩んできた不良少年だったことを・・・。」
「教育とは可能性を持つ者に感動を与えてもらえる、すばらしい営みなのである。」
「教育とは儚いものである・・・。」
「優しさと甘さは違う。教育とは厳しいものである。しかし反面、それは何よりも暖かいものでもある。教育とは人類の未来を創造する、もっとも崇高な営みなのである。」
→いずれも『ヤンキー、母校に生きる』より。
ある思想家の言葉
精神闘争の長征に、徒労や無駄は、一切ないのであります。
ゆえに、皆さんは、決して、立ち止まってはならない。
絶対に、あきらめてはならない。
焦らず、聡明に、「時」を待ち、「時」を創る忍耐にこそ、最後に勝ちゆく人生勝利の要諦があることを忘れないでください。
安河内哲也の言葉
どのような技能を教えるにしろ、特定の人間を永遠に教えつづけることはできません。教えたあとには「自立」してもらう。生徒の自立を支援するのも講師の重要な役割のひとつだと、私は考えています。(『できる人の教え方』)
→育てない「教育」ならぬ「教教」が、増えている。モンスターペアレント、マニュアル型教育はその一例だ。教育は、教える側の自己満足のための営みではない。被教育者の利益に適わなければならぬはずだ。近年軽視されてきた「自立」のための教育が必要である。貝原益軒も『養生訓』で溺愛の危険性を説いている。いまも昔も、真に子どものためになる教育(教教、にあらず)が不足している。
よく分からない商売
ヤフーは、巨大ポータルサイト化した感がある。広告収益もすごそうだ。しかし、グーグルはそのシンプルな見た目上、広告収益がありそうな気がしない。このブログはグーグルのサービスで作っているだけに、日々実感している。
世のなか、身近な部分に分からないことが多い。「無知の知」という奴だ。
友人が「死にたい」と言ってきた
友人「オレ、死にたいんだけど…。今、自殺するため北海道にいる」
この時、自分はどう反応するか?
1、「バカヤロ−、死ぬんじゃねえ」という。
2、「一体、何があったの?」と尋ねる。
3、「勝手にすれば」と突き放す。
今日、ある親しい人から「もしこんなことがあったら、君どうする?」と言って、この話を聞いた。自分なら2の返答法をしそうだ、と返した。
その人の返答は違った。「今そこに行くから、待っていろ!」が返答だった。
思わず「カッコイイ」と感動した。
人の心を打つのは、言葉より行動だ。言葉は嘘をつく。行動は嘘をつかない。本当に訴えたいことがあるなら、行動こそが必要なのだと知った。
2007年8月6日月曜日
スタ丼行きたいとき
スタ丼行きたいとき
着任終わったとき
一人が嫌になったとき
悪臭のする冷蔵庫を開けたくないとき
おごってもらえるとき
後輩におごるとき
道に迷ったとき
バイクを盗んで無責任に走り出したいとき
友人との関係、気付けば自分のみがいじられキャラになっていたとき
チャリパクされたとき
1限のテストを寝過ごしたとき
手帳を無くしたとき
思考が麻痺したとき
こんなしょうもないblogを疲弊する中書いてるとき…
スタ丼は自分の精神が危機に陥ったとき、何とか姿勢を持ち直させてくれる、病人食である
一人暮しすると解る
ことば
忍耐、忍耐
努力して、一事を成す心。たゆまぬ心。この精神が消えている。
学問も夢も、忍耐して努力することでしか成すことが出来ない。そして忍耐することで、はじめて自分が強くなれる。自分が思いもしなかった自分になれる。
しかるに、「タイゾー化する子どもたち」との本にあるとおり、現代は努力無しでいきなりの成功を狙う者が多い時代になった。忍耐が古臭くなった。今はこれでいいかも知れぬが、忍耐しない習慣が普通になればこの国はどうなってしまうのだろうか。
2007年8月5日日曜日
ボランティア
休憩入れて一日、立て看そばに立つ。ずっと誘導・挨拶。
意外に、皆挨拶を返してくれる。これが1点目。子どもはかわいいと実感。子どもを必ず持ちたいと思う。これが2点目。ボランティアはさわやか。これが3点目。
やってよかった。
2007年8月4日土曜日
プロクルステスの寝台
ギリシャ神話の盗賊プロクルステス。彼は客にベッドを薦める。客の足がベッドより出ればその分を切り、客の背がベッドより小さければ客の体をひっぱってのばす。ここからきた言葉である。
現代、プロクルステスの寝台的状況が多い気がする。
教育は、本当に子どものための制度になっているか。
ある思想家の言葉
教員には、そのための献身的責任感が必要であります。
学生を利用したり、学生を手段のように思ったりしては決してならない。
学生は「教えられる立場」であり、教員は「教える立場」であります。
それを本末転倒して、学生の向上を願わず、見下すのは、絶対に邪道であります。
ニーチェの言葉
君の教育者は、君の解放者以外のものではありえない。
いつまでもただ弟子にとどまっているのでは、師の恩に報いることにならない。
2007年8月3日金曜日
教育者の誇り・喜び
理想の図書館作りと子供の教育に思いをよせ、道半ばで倒れたある司書の偲ぶ会=茨城・八千代http://news.livedoor.com/article/detail/3255779/
教育者にとっての幸福は、「自分が、他者の何らかの役に立った」との実感であろう。その思いを、私は下に記した無名の一司書から知ることができる。また、いろんな学校の創設者の思いや教師の喜びも、そこにあるのであろう。
教育は、もっとも人から感謝されやすい仕事であるかもしれない。
【PJ 2007年08月03日】- 7月29日、茨城県八千代町の図書館で『山中治雄を偲ぶ会』が開催された。・・・といっても、誰もが「山中治雄さんって?」と思うだろう。そう、昨年の7 月14日、48歳で癌のために帰らぬ人となった無名の一司書である。だが、山中さんの友人、知人は勿論、八千代町の図書館を利用してきた人、本の好きな人 の殆ど、町の子供の多くが、今も彼の志半ばの死を心から惜しんでいる。
八千代町の図書館がオープンしたのは1999年7月であったが、決して順風満帆に立ち上がったわけではなかった。一部の町の実力者や町民の反対もあったし、政治的な思惑の渦に立ち往生しかけたこともあった。
そういう中、町の公民館の図書室に勤務していた何人かの、本をこよなく愛する若者がどんな壁にも屈することなく、図書館設立に邁進していったのである。
その中心となった若者の一人が、山中治雄さんであった。山中さんの盟友であり、ともに図書館設立に力を尽くした中村宏さんに偲ぶ会当日、山中さんのことについて伺った。
「とにかく本と子供が好きな人でしたね。本というものが、子供の成長にかけがえのないものになることをよくわかっていて、だから、町に図書館を作ることへ の情熱は素晴らしいものがありました。90年代を代表する福岡の苅田図書館、近くには水海道図書館などを理想として、よく勉強していました」
「ある時、『司書の仕事をしなかったら何になる?』と訊いたら、『教育研究所を立ち上げたい』と言ってました。町の子供たちの未来を案じていて、そこに自分も本気で関わっていきたかったんですね」
「二年半前の12月28日、その年の仕事納めの日でした。気分が悪くなり救急車で病院へ・・・。この日から大腸がんとの闘いがはじまり、昨年の7月14 日、とうとう。彼は最後の最後まで諦めなかったと思いますよ。ずうっと明るかった。図書館と子供の教育の夢を語っていた」【了】
励まし
自分が悩んでいるときの他者への激励は、そのまま自己に対しての激励ともなる。自己に対し、語っている気がする。他者と同苦することで「辛いが自分もともに戦おう」と思える。
他者への励まし、それは自己への励ましでもあると知った。
同時に。教育こそ、最大の励ましではないか。子どもの可能性を信じ、それを引き出させる。そこには教師としての励ましが必要なはずだ。
デザイン
ある団体にしろ個人にしろ、そこの外発的アピールがデザインの悪い方法なら、誤解が生じてしまう。
だからデザインは考えないといけない。答案用紙もホームページも、デザインが悪いと読まれないのだ、いくらいいことを書いていても。
2007年8月2日木曜日
2007年8月1日水曜日
バイト
中高生の教師観がくっきりと現れ、怖くなった。普通に「あいつウザイ」「担当替わってくれ」と書かれている。
しかし、反面プラスのアンケートもある。「~~先生のお陰で地理が好きになりました」など。
また、折衷の形でこんなものもある。ある教師には「話がつまらん」「無駄」と書いているアンケートに「~~先生の授業は聞いてためになる」とあった。教師というだけで、生徒が反発するのでない。ちゃんとその教師個々人で判断しているのである。
延々と続く打ち込みをしつつ、思索は深まる。3点、思いついた。1点目。ある教科の好き嫌いは、たいていは教師の教え方にあるのではないか、ということ。
2点目。いまの子どもは授業を聞かないというけれど、面白い授業・ためになる授業はきちんと聞いているという事実を、受け止めるべきだということ。
3点目。教え方の工夫・教師の自己研鑽しだいで正当に評価を受ける教師という職業像をしったこと。教師という仕事が、自分の転職かもしれないと、まじめに考えたこと。
バイトで金をもらいながら、教育に対する思索や、「生徒から見た、あるべき教師像」を探る訓練をさせてもらえる。いいバイトを見つけたと、つくづく思った。
とはいえ、アンケートは「かける限りかいてください」といって渡される。一生懸命書く。しかし、それを打ち込む側からすれば「げ、こんなに書かなくてもいいのに」といやになる。アンケートの持つ「データ管理のため、打ち込まないといけない」特徴は、多大なマイナス要素かもれないと感じた。
2007年7月31日火曜日
学問という暇つぶし
否定的意味合いが大きいが、逆にプラスの面もある。
古代ギリシャでは「暇=学問」であった。学問の原語のスコレがもともと暇を意味したのだ。
この有り余るヒマを、じょうずに使いたい。学問をするに限る。これは「サヨナラ、学校化社会」で上野千鶴子氏が語ったことでもある。学問は効率のよい暇潰しだ、と。やってもやってもおわりがないからだ。
2007年7月30日月曜日
ヤンキー、やはり議員になる
吉報に一転「ほっと」 当選のヤンキー先生
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007072901000896.html
予想通り、義家先生が当選した。うーん、今週の義家のラジオ、聞かないとな。
「ヤンキー先生」で知られ、安倍首相が唱える「教育再生」の看板役を務めた自民党比例代表の新人義家弘介氏(36)は、黒いスーツ姿で東京都千代田区の選挙事務所に姿を見せた。「当確」が一向に出ずに重い雰囲気が一時漂ったが、待ちに待った吉報にほっとした雰囲気に。
その間、義家氏は複数のテレビ局のインタビューに応じ、選挙戦を振り返って「失業問題、年金問題という雲に、教育問題が隠されてしまった」と答えていた。
(共同)
海外に行こうと思えど
私のいる早大では、みな当たり前のように出ていっている。しかし全国的にはいったことのない人も多いはずだが…
ちなみに、私はパスポートを持ってはいない。
本読むバカが私は好きよ
との名キャッチ。糸井氏が考案したものだ。
本を読むのって、現代という時代から見れば馬鹿な行為かもしれない。他に楽しいものが沢山あるから。勉強もしかりである。
それでも、あえて本を読み、勉強をする。この「あえて」という部分が、自己形成の上で重要なのであろう。何故なら勉強・読書で困難に耐える力を身につけ、強い自分になれるから。世の動きを半ば超越した形で、大きなスケールでものを見れるようになるから。
フランスの「行動する文化人」アンドレ・マルロー。彼は第二次対戦下、いつ空襲が来るかわからない夜道で、壮大な文化論を語った。文化は地中海からヨーロッパ大陸に広まった。次はここから太平洋に文化の中心は移るであろう、と。日常の事柄をはるかに越えた地点からものを見る。そこに読書や勉強の重要性がある。
地下鉄銀座線のフシギ
何故?
それは東京の山の手と下町で高さが違うから。渋谷はかつての谷にある。だから渋谷と谷の字がつくんだ。そして台地の地下を通る。そのとき当然、渋谷という谷底より上を通るんだ。
だから地上3階に地下鉄の駅がある。間違いない。
選挙
しかし与党圧倒的不利の状況を現出し、演出したのも新聞メインのマスコミであった。
NIEの実践が叫ばれているが、そのもとにするマスコミが一斉に偏った視点を与えるとき、対処しようがないのではないか。
2007年7月29日日曜日
クリップボード
携帯簡単、シンプル、使いやすい、用途が多いといいとこずくめである。
メリット1 メモしやすい
メリット2 膝の上に置けば机がわりになり、本読み・書き物が電車内でもしやすい
メリット3 うちわになる
メリット4 お知らせしたい紙を飛ばないように押さえられる。
その他、多くの使い道が見つかる。だから常に鞄にいれ、使える機会がいつか考察中である。
それにしても、シンプルなものほど使い勝手や用途がいいのは何故だろう。クリップボードは下敷きにクリップが付いただけなのに。
ちなみに、100均でなく、文具店できちんとしたのを買った方が使いやすい。ほとんどの文具にあてはまることなれども。
2007年7月28日土曜日
飲酒と小学生
http://www.jc-press.com/kaigai/200707/072601.htm
海外は、飲酒に対して甘い。下を読むと、「こいつはひどい」と思われるだろう。
しかし、ビールは酒ではない、という国もある。軽いアルコールはほぼ黙認されているところもあるのだ。
下の状況、ひょっとすると日本的感覚で「飲酒」にあたる行為が含まれていないのかもしれない。
英国メンタルヘルス財団は23日、小学生の10人に1人が定期的にお酒を飲んでいるというShools Health Education Unit(SHEU)の調査結果を明らかにした。
調査は10~15歳までの生徒6万8千人を対象に実施。10~11歳では10%、12~13歳では19%が少なくとも1週間に1回は飲酒をしていた。 14~15歳の10人中4人が1週間続けて飲酒をしていた。お酒の購入先はスーパーや酒屋。調査マネジャーのデビッド・レジス博士は、「このようなこと (未成年に酒を売ること)は違法」と指摘するが、未成年へのお酒の販売は続いているようだ。
(2007年7月26日発信)
銭湯の持つ公共性
【コラム・断 講談師・神田茜】銭湯は教育の場http://www.sankei.co.jp/shakai/wadai/070727/wdi070727001.htm
銭湯のよさを、ここまで語る。でも、下の引用文でいっているのは、「銭湯で公共性を学べる」ことのみであって、「銭湯でないと学べない」と書いていない。たしかに、教育のためには多くの事物が必要だ。「教育のための社会」にとってなおさらである。が、あくまでこの事物は絶対性を持つわけではない。
感覚で教育を語っているような気がして、しかたない。重要なことではあるのだが。
銭湯が減っている。ここ数年で近所の銭湯が2軒なくなり、大変なショックをうけた。わが家ではたまに行く銭湯が、子どもたちの社会勉強の場所でもあったからだ。
そこで他人とのかかわり方を知ることができた。体を洗ってから湯船につかる。立ったままお湯を掛けない。走らない。騒がない。体を仮拭きしてから上がる。それらの公共性を自然に身につけられ、自分の行動で迷惑をかけるひとがいるということを、実体験で学ぶことができた。
勝手に水を入れて湯をぬるくすれば、怒鳴りつけるお年よりもいる。よく顔を会わせる大人たちとは叱ったり叱られたりが許される信頼関係ができる。電車の中 でいきなり知らないひとに怒られるのと、顔見知りに叱られるのとでは大きな違いだろう。地域の子供とかかわりたいのに機会がないという大人だって結構いる ものだ。
子供にとっても、よその大人とふれあうことができる格好の場所ではないだろうか。男の子で あれば、大人の男をそこで学び、女の子もしかり。親としては生活をさらけ出すようなうっとうしさも感じるのだが、家庭内の親子だけの空間で道徳心や公共性 を教えることがどんなに難しいかも、身をもって感じている。しつけがなっていないことを親はせめられてばかりだが、親たちも公共性を学ぶ機会がなかった世 代なのだ。
最近子供たちへの道徳教育の必要性が叫ばれているが、銭湯こそ子供にとって必要な場所ではないかと思う。流行(はや)りのスパや健康ランドのように、何も地下深くから温泉を汲(く)み上げなくても、近所で気軽に行ける銭湯がまた復活してほしい。(講談師・神田茜)
(2007/07/27 07:43)
ある思想家の言
しかしあまりにも、しばしば、目的であるはずの人間が手段と成り果てているのが現実であります。その転倒を、本来の「人間中心」の理想に戻し、新たなる社会の建設をしていかねばならない。
2007年7月27日金曜日
民主くん
ぱっと見たとき、私はセンスの悪さに驚いたのを覚えている。聞けば鈴木貫という議員が中心に考えたそう。
どうせ作るなら、デザイナーに頼んでもっとクオリティをあげろよ! 突っ込みたくて仕方がない。
これでよいのだろうか…
その中で、いつも「自分はこれでいいのだろうか」と考えてしまう。
自分の行動は、本当に意味を持つのか。人の役に立っているのか。邪魔になっていないか。他にもっとすべきこと・自分に相応しいものがあるのじゃないか。
その度、次のことを思い出す。「目の前の課題から逃げるな」「何もしないより、何かをしたほうがいい」「行動の中で少しずつ直していけばいい」
上記のように、バカボンのパパ的思考法も必要だ。これでいいのだ。なにもしないより、やったほうがいい。失敗は後の成功に繋がる。
とにかく前向きに。とにかく何でもいいから、やっていくべきなのだ。
ガマの油売りとテレビ
大道芸・ガマの油売りをしていた。
道行く人を止め、刀パフォーマンスと話術でみせる技である。
喋り方に特徴があった。テレビのCM前同様、何分かおきに前にいったことをのべ、途中から来た人にもわかりやすくしている。
またテレビ的要素は他にもある。この芸のヤマは自らの腕を切る(ようにみせる)ところにあるが、最後の最後まで引っ張り、客を待たせる。
テレビと大道芸、意外に似ているところがある。テレビで大道芸特集をしても同じような構成になるであろう。
筆記用具による、学習の効率化
この傾向、中学飛び越え高校、大学、一般企業でも残る。使い勝手で文房具を選ばない。
文房具は、いわば仕事道具、戦争で言うなら武器である。手入れや選択を誤ること、これイコール死を意味する。時間を殺すことになっているのだ。
だから、勉強しよう、学ぼう、もっと仕事しようというなら、まず文房具を変えるべきである。
自分は、昔から文房具フェチであった。今でも、フラッと文具店に行ってしまう。そして何かしらいい文房具がないか探している。
自分のいま使っている「武器」は、
①ゼブラ「クリップ・オン・マルチ」
②三菱鉛筆「ジェットストリーム」
である。
①ゼブラ「クリップ・オン・マルチ」
→3年前から使用。あらゆる4色ペンのなかで、(まだラミー2000を買える境涯でないので、いまのところ)NO.1の完成度であると考える。4色ペンは、齋藤孝教授の『3色ボールペンで読む日本語』以来、使うようになった。4色色分けできると、もう筆箱は不要になる。
このクリップ・オンには、シャープペンもついている。あらゆるシーンで活用できる。ポケットに1本、これがあるだけで、いつでも学べる。これは大きい。筆箱から色ペンを探す時間も節約できる。
おまけに、このペンはクリップもこだわっている。金属性クリップだから、どこにも挟め、おまけに強い!
一度使ってみて欲しい。もう、他のペンを持つ必要がなくなる。
詳細は↓
クリップオンマルチ
http://www.zebra.co.jp/pro/clipon_multi/index.html
②三菱鉛筆「ジェットストリーム」
→書き味が、超滑らか。一度使うと、病み付きになる。①とどう併用するか、考察中である。
ちなみに、字の太さ1ミリタイプがお勧め。太いと引っ掛かりがほとんどなく、ジェットストリームらしさが存分に出ている。
詳細は↓
ジェットストリーム
http://www.mpuni.co.jp/product/category/ball_pen/jetstream/index.html
長くなってしまった。要は自分にあった文房具を探し出し、使ってみよということだ。
文房具はいつも使うものだ。自分に合うものを使うほうが、ストレスなく使える。
2007年7月26日木曜日
ヤンキー先生は議員先生になるか
普通の議員と違い、「とにかく動くぞ」との勢い・情熱を感じた。
「ヤンキー、母校に生きる」も「母校北西余市を去るまで」も、自分は読んだ経験がある。なかなか、いいこと言うなー、と感心したのを覚えている。
しかし、教職と政治は違う。仮に議員になったとき、義家氏はどれだけ働けるのだろう。
義家氏は、周りがいうほど、無責任な人間ではないと思う。
だから結果を残すだろう、とは思う。
「私は教育に救われた人間です」
「子ども達が安心して失敗できる社会に」
「教育再生を」
この3つしか連呼していなかったのは気掛かりではある。設計図をもってるのかな?
握手してもらった義家氏の手は、当たり前だが他の人間の手と同じく、温かくもなく、やわらかくもなかった。
ある思想家の言
ある思想家の言
(中略)
学ぶ人は偉大である。
学ばない人は卑しい。
そして、学ぶ人は'表現する人'でもある。充電と放電の関係といってもよい。貪欲に学ぶからこそ、沸騰するがごとく表現を欲する。
2007年7月25日水曜日
夏目漱石の言
→学問は、人間形成のためだ!
「何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは10年20年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。」
→自分にもっと適した仕事があるのではないか、と迷うことがある。そのためにあちこちうろうろする。結局、何も掘り当てることなく貴重な人生を費やしてしまう事が多い。だからこそ目の前の課題から逃げず、前進することが必要だ。
電車
「自由からの逃走」との本がある。自由すぎると逆に不自由をもとめる内容だ。暇過ぎると学問は出来ないのかも知れない。
2007年7月24日火曜日
2007年7月23日月曜日
朝
早寝・早起き・朝ご飯
を提唱するわけも、単に気持ちいいから、なのかも知れない。早く寝て、早く起き、朝を食べると頭が良くなることには、単に「きちんとした生活習慣のある家庭かどうか」くらいしか意味がない、ときいたことがある。また「朝食をやめて健康になる」との本もある。
陰山氏の活動も、単に気分でやっている、ということはないだろうか?
2007年7月22日日曜日
対話
何と言うか、ひたすら虚しい。これが1週間続けば気が狂ってしまう。
人のことを人間と書く。もとは「じんかん」とよんだらしい。文字通り、人が社会的存在であることを示す文字であると言えよう。人の間、と書くのだから。
その社会を成立させているのは、人と人との会話・対話である。
今日が虚しい理由は、対話不在にある。
現在、社会のあらゆるところに対話の不在を感じる。対話が不在のとき、空虚さを感じるわけがわかった気がする。
2007年7月21日土曜日
理性
ひとり暮しをして、実感したことだ。
よく我々は
恵まれない子どものため、寄付を!
というが、このようなとりくみも、実感として餓えた経験がもとになっていないと、「先進国としてのエゴ」に犯されるのではないか。どんな崇高な取り組みも、「何のため」という活動の根本がズレたとき、方向性が悪くなる。
飢えた実感が、正しい援助につながる。今一度、自分の在り方を振り返りたい。
ここにいたのか、寺脇氏。「ゆとり教育」の顔。
寺脇氏。文科省でゆとり教育を進めた人物。そして失権した人物。いま、大学教授をしていたとは思わなかった。
彼は「単純に学力が低下したといってはいけない」というような発言をする。私も、確かにPICAの点数が下がったくらいでびくついていては、確固たる人間形成を教育でおこなえないと思う。また、確かに教育はそんなすぐに結果の出るものではないとは思う。
しかし、寺脇氏の見方も、浅はかである。氏は、「ゆとり教育で、全員に百点を取らせて見せます。そうできなければ先生方の教え方がまずいといえます」などと発言していた。が、やがて前言を撤回している。
単純に、教える量を減らせば子どもは学ぶようになる、という驕りが、寺脇氏に感じられてならない。子どもはそんなに単純な頭脳構造をしているわけではない。また学びの習慣化は、そんな簡単に発生するわけではない。佐藤学氏のいうように、子ども一人では理解の及ばない教材でも、他者とのふれあいの中で急速に学力が向上することもある。教師の言を聴けば、もっと手っ取り早く、「教える量の削減≠学びの習慣化」であると分かるはずである。
寺脇氏には、ずるさを感じる。自分は正しい、という姿勢を崩すべきである。教育行政の実験台にされた子どもたち(いま大学2年の私もそうだ)がかわいそうではないか。一国の教育行政を背負っていた人物であるなら、もっと自分の行動に責任を持つべきだ。
結論。教育行政は、早急に方向性を決めていいわけではない。また、この行政がきちんと子どものためになっているのか、考えていくべきである。失敗から学ぶ、とはきれいごとである。子どもの子ども時代は、二度と帰ってこない。新たな教育政策をするなら、「本当に子どもたちのためになるのか」よく考えてから行っていくべきである。
河合氏、死去と兵庫県の反応
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000471677.shtml
河合隼雄さんが、19日に死去。自分は兵庫出身ながら、河合氏が兵庫出身だと知らなかった。自分が中学時代に経験したトライやるウィーク(中学校での体験学習。地域の商店や企業に行き、職場体験を行う学習形態。兵庫県から実施)についても、かかわりがあったとは。
トライやるウィークって知ってますか?http://www.wmstyle.jp/archives/2004/11/29_102343.php
人間、死んでから初めて「あ、あの人こんなことしてたんだ」と気づかれることがあると実感。
教育界にも業績のあった、河合氏。しかし、何も知らない人に「ハヤオさんが亡くなった」といえば、宮崎駿を意味してしまう。…不謹慎ながら。
重複・大量、1人で73人分の合格実績。
確かに高校の受験実績の「~人」って、案外一部の生徒の実績だったりしますもんね。これを学校側が組織的に行っているのは、面白いことです。
開成高校とかでやると、全校生以上合格者が出て、もっと面白いことになるかもしれません。すでに開成だとこうなっているのかもしれませんが。
2007年7月20日金曜日
人材
「私が見て来た人の中で、多くの人間が堕ちている。私が人材と思ったうちの半分は女で堕ちた。
残りのうちもう半分は金で堕ちた。残りのさらに半分は仕事で堕ちた。」
人材は数少ない。まして学園を出てから人材として、人生の終までいられる人はかなり少ない。
皆がやっているなら、追い風なら誰でも戦える。ただひとり、逆風で戦えるのは数少ない。
自分も師弟を貫いて行きたい。
2007年7月19日木曜日
甘え
甘えを排するにはどうするか。強き一念を定めることである。自分はこれをやるのだ、と強く決意することである。
院のあと
1、教師になる。
2、教授になる。
3、国家1種をとり、文科省に入る。
1以外の2と3は、かなり難しい。教師になれる数と、教授や文科役人になる定員は限られているからだ。他に家庭裁判所調査官というものもある。僕は一体何をすべきなのか。
大学院に、何故いきたいのか。
教育、教育、教育。たしか、ブレア首相の就任演説も教育の連呼だったらしい。答えはよく分からない。それでも、延々と答えを求め続けるしかない。教育とは、そういうものかもしれない。それなのに、私は大学院に行きたいと考えている。何のために? 教育について考えるため? 教育の定義づけのため? よくは分からない。しかし、ただ研究したい。学びたい。深めたい。何か教育学上で、自分の努力を貢献したい。教育について、専門的な立場から話をできる人間になりたい。高等教育を受ける以上、受けられなかった人たちに恩返しをしたい。
いろいろ、深めていきたい。
人のありがたさ
究極の暇つぶしの道具は、他者である。未知の存在、どこまで掘っていっても、完全に相手をすべて分かってしまうことはない。人生経験がまるで違うのだ。どこまでいっても、完全には分かり合えない。しかし、そこが人付き合いのいいところである。
アマラとカマラ
真実が分かるたび、ロマンがなくなる気がする。
でも、原作だとアマラとカマラの「母親」たるメスオオカミや他のオオカミの子どもたちは、射殺されちゃってるんですよね。これって、本当にいいの? こう思ってしまいます。
原作にある写真。何故かアマラとカマラは、ふんどしをしている。当時のインドの風習なんでしょうか。
本が読めない!
理由はなんだろうか。3点思いつく。
1点目、テスト前だから。期限が近づくほど、何故か勉強したくなくなるときはある。
2点目、ダンテの『神曲』を読んだから。分からなさ過ぎて、本を読む感動が沸かなくなったから。
3点目、頭の中がマンネリズムに陥ったから。私の読む本は教育に関するものが多い。そのため、頭脳の中がいっぱいいっぱいになっているのではないか。
こういう時は、量が少ないのに、一冊の本の形式をきちっともっている、中谷彰宏の自己啓発本がいい。
中谷彰宏の本は、何もしない価値、何度も同じものを見る価値など、近代思想が取りこぼしてきたものを再評価する本が多いような気がする。いわば、童話『モモ』的価値といえよう。ポストモダン的発想といえなくもない。睡眠時間を削る、という表題の本がはやる時期に「やっぱり寝るほうがいいよ」といったり、「早くしなきゃ、早くしなきゃ」とあせる人に、「集中力をつけるには意識的にゆっくり動かなきゃ」と諭す。うーん、これはすごいことだ。
早く、本を読む生活に復帰したい。ちなみに今日私は『神曲』の地獄編、読了しました。すごい本です。ソクラテスやプラトンが地獄にいるんです。それも、神を信仰しなかったために。当時のローマ教皇も地獄に落としています。聖物売買の咎で。なんともすごい本です。大学時代に読めて、よかったと思います。余り理解は及びませんでしたが。
専門書を捨てよ、教育の場に出よ
教育って、結局は人と人とのかかわりによってできるもの。教育学の専門書では見えてこないものである。
教師になりたい学生はたくさんいる。熱意溢れる人たちもいることは、私の友人を見ていても思う。その学生たちは、すぐに何らかの形で教育に関わったほうがいい。より深く、より本質を突いて学ぶことができる。どんな大人も、子どものカリスマティックアダルトになれる、との言葉がある。自分でしかかかわれない子どもは必ずいるのである。だとすれば、目の前の子どもに、私たち大人はかかわりを持っていくべきである。
モモは村人の話をひたすら寄り添って、聞いていった。教育は促成栽培ではないので、モモの視点を忘れず、関わっていくべきである。教職に志す人たちには、この視点で関わっていただきたいと思う。
やる気がしない。
テスト前の喧騒、一人暮らしの静けさ。何かしないといけないのであるが、何をすべきか分からない。「旅人よ/いづこより来たりて/いづこへいかんとするか」との言葉がある。人は自由すぎるといろいろ迷ってしまうのではないか。そう思う今日この頃である。
2007年7月17日火曜日
教育とは
教育とは未来を作ることだ。
しかし教育は権力だ。
教育は人のコントロールの異名だ。
教育は洗脳だ。
おまけに教育は無力だ。
それでも
教師は教育を信じるしかない。
教育は無限の可能性を持っている。しかしそれもうまく働く時のみだ。
人権侵害と
洗脳の狭間、間一髪の所にあるもの
それが教育であるのだ。
研究室でも
会議室にも
教育はない
あるのは
教師と生徒
親と子ども
人と人が出会うところ。
人と人との交わり、
それが教育でもある。
ともあれ
教育とは何か
との問いは
答えることができぬほど
難しい
それでも僕は
その答えを探したい
待つこと・見つめること
すべてを教えるのは、よいことではない場合がある。相手が学ぼうとしていないときに教えるのはかわいそうだ。子どもが失敗し、そこから学ぶのを防いでも意味はない。齋藤孝は自著の中で、ハンマー投げの室伏の父は、じっと彼の投げを見つめ、ついに何も言わない日がいつもであり、ためにボソッと「よくなった」といったらしい。教師はついつい教えたがるが、それで自分と同じレベルにはできても、自分以上の人材にすることができない。
子どもは未来からの留学生である。前に田中さんもいっていたように、教師以上に実力のある子ども・知識のある子どももいる。その子たちに子どもだましの知識を与えることはできない。
子どもたちは、自分の存在に関わらず、存在する。教師が存在しなくても、生徒は存在する。だとしたら、自分が彼らを拘束してしまっては、彼らの可能性を閉ざすことになる。 言うべきことはきちっといい、相手のいい点は自由に伸ばすこと。これが必要なのだと思う。